酒は飲んでも飲まれるな

 世間でよく聞く格言に、『酒は飲んでも飲まれるな』というのがある。

 酒は飲んでもかまわないが、酒のために酔いしれて正気を失うような飲み方をしてはいけない。酒は適度に飲むべきである、ということを言ったものであろう。

 もうひとつ言えば、酒は飲み方さえ心得ていれば、悪いものではない、ということでもある。つまり、お酒自体に善悪はなく、人間側の意識次第(用い方次第)でどうにでも転ぶのだ。



 私は個人的に、スピリチュアルで「エゴ」と言ってきたものは、このお酒と同じだと思う。

 エゴというやつは、私からすると本当に可哀想な扱いを受けている。守ってやりたくなるくらいに(笑)。

 世間的には「利己主義」という意味だが、心理学やスピリチュアルでは「自我」という意味を指して語られる。

 本来ワンネスなる存在が、これがあるがゆえに「分離」を体験している。悟りに達する上での一番の障害とされ、また私たちが感じる不幸や苦痛の元凶とされる。

 これが悪さをするので、よろしくないことが自分の身に降りかかると認識されている。だから、「エゴを何とかしよう」「これが敵だ」という発想になる。



 スピリチュアルの教えによっては、このエゴが可哀想なくらい悪者とされる。

 例えば、『奇跡のコース』(ACIM)という教え。

 私は、トータル的にこの教えは見事だと思う。しかし、徹底的にエゴを悪者扱いしているあの長いテキストには、どうしてもなじめない。

 奇跡のコースは理論としては本当に徹底していて、私たち皆が覚醒に至った暁には、この三次元の世界(私たちの住んでいる宇宙)は用済みになるので、消滅するということである。

 いくら苦しいといっても、この世界が消えてなくなることが最終的な解決だというのは、乱暴ではないか?

 私は、ゲームソフトを取り換えるみたいに、有限なこの宇宙が何らかの形でなくなることはあっても、『三次元宇宙』という性質を持った同質のものが、別の形で存続するだろうと確信している。

 ひとつのゲームをやり尽くしたとして、もう二度とゲームには手を出しませんか?

 やっぱり、そのうち新しいのをやりたくなるのではありませんか?



 この世の罪、醜さ、辛さとか悲しみばかりにフォーカスしていたら、この教えに心酔することだろう。だって、そのろくでもない世界がなくなってくれる、っていうんだから。

 そういう人は下手をすれば、今まさに目の前の世界が提示してくれているものに背を向け、今ここにない想像上の幸せや感覚に埋没することになる。

 私は、奇跡のコースのワークブックなるものに従って、一年ほどワークをしてみた。筆者が今の自分になるために役立ってくれたとは思うし、その意味では感謝もしている。しかし、エゴを何とかするんだ、という試行錯誤の中で、強烈に感じた疑問が、これだ。



●何にせよ、今まさにそうである現状を否定して、何の得が?



 私が今でも変わらず持っている信条は、「現状を否定していいことは何もない」。

 宇宙は、ただあるがままにある。

 そこに価値を引っ付けてジャッジしているのは、人間の意識だけ。

 だったら、エゴというものをジャッジしているのも人間だけではないか?

 申し訳ないが、世のスピリチュアルがエゴを攻撃したり、良くないもののように言うのは、ただの価値判断ではないか?



 そもそも、永遠・絶対・完全なる神意識は、変化もなく、何も起こらない完全な静寂に退屈した。だから、陰陽という二元性の世界を創造した。

 正反対のものが存在し、その中で様々に物事が揺れ動く世界。喜怒哀楽あり。成功あり失敗あり。冒険あり、愛のドラマあり——。

 そんな世界で遊ぶのに、なくてはならないものがある。ディズニーランドで遊びまくるのにフリーパスが要るように、私たちがこの世界で楽しく生きるために必要なパスがある。それこそが「エゴ」 である。



 分離、ということを宗教やスピリチュアルはあまりよくないニュアンスで言う。

 違う。

 


●エゴは、必要なものである。 

 ただ、使い方によっては毒になるので、注意が必要である。

 逆に正しく用いるならば、良いものである。



 冒頭の、お酒の話と同じである。エゴがあるから、本当はワンネスでしかない私たちが、個だという体験ができている。だから、この幻想の世界で望みや夢を持ったり、喜びを感じたり冒険したりできる。

 本来は、私たちは宇宙のすべてであるから、その自覚のもとではそんなもの面白くも何ともない。でも、私たちにはありがたいことに「エゴ(自我)」があるから、今この世界をリアルなものとして、「どうせ幻想だし」なんて斜に構えることもなく、皆さん真剣にこの時間性の世界を生きているのである。

 私は、この三次元世界の存在を、神意識が仕掛けた壮大なゲームだ、とよく言ってきた。でも、ゲームに障害が出てこなかったら、どうします?

 敵も出てこない。自機も死なない。何の変化もない。

 危険がないから、ワクワクもハラハラもしない。

 ゲームには、やっぱり障害や敵が必要なんです! だから、三次元ゲームを楽しむためには、エゴはいるんです。ゲーム上の敵さんも含め、人はそのゲーム自体が好きなはず。マリオゲームの愛好家が、クリボーやクッパを本気で憎んでいる、ということはないはず。

 


 私からの提案です。

 エゴエゴ、ってそんなに騒がなくてもいいんじゃないですか?

 心の赴くまま、喜びに従って生きることにフォーカスすれば、あえてエゴを意識して気を付けて生きるよりも、もっと人生がスムーズだし、成果も大きいのではないでしょうか?

 確かに、エゴのゆえに悲しみ、苦しみが起こることはあります。

 でも、究極にはそれすら他のすべてのものと同価値です。悪いものではない。

 それも含めて、すべてを味わい尽くすために、私たちは来たのです。

 三次元探索用・冒険キャラとして。



 エゴは、お酒と一緒。

 その性質さえ把握しておけば、適量を味わえる。

 それによって、この世界での生において、愛のドラマと冒険を味わえます。

 度を越して苦しい、という時は、深酒が考えられます。エゴを利用しているというよりは、エゴに振り回されている、という状態は要注意です。

 まさに、酒は飲んでも飲まれるな、というところです。



 これは、私独自の理屈かもしれませんが——

 覚醒とは、エゴが克服されなくなることではありません。

 そんなことをしたら、この三次元の世界にいられません。

 お前は、このゲームフィールドでゲームする意味がない、とレッドカードを出されます。つまり、肉体を持った覚醒者というのは(他は知りませんが、少なくとも私はそうですが)こういう人間だと言えるでしょう。



●エゴを克服した人間の事ではなく、エゴを使役する術(すべ)を知り、必要に応じて使える人。使いどころをわきまえており、エゴに振り回されることはない。



 ロデオで激しく暴れる馬を、乗りこなす感じ。

 エゴがない、というのは馬がないのと同じ。

 ロデオ、というゲームが成立しないので、それでは意味がない。

 この三次元があるかぎり、エゴと無縁ではいられない。

 つまり、うまく付き合っていけばよいのだ。

 ここで、改めてキャプテン翼君の言葉を、皆さんに送ろう。



●エゴはともだち、怖くないよ!



 人間以外の万物は、あるがままを生きている。

 この地球上で、問題のある世界に生きているのは、人間だけ。

 そういう言葉を聞くことがある。でも、これは逆に発想できないだろうか。つまり、こうも言えるのである。



●三次元ゲームを本当に楽しみつくすことができる能力を持っているのは、エゴを持ち、自他という認識を持ち、陰陽の二極の中で様々な喜怒哀楽のドラマを生み出せる人間だけ!


 

 問題を抱えて生きることがいいことだ、という単純な意味ではない。

 それも含めて、この世界を味わい観ずることが、私たち三次元キャラに託されたミッションなのだ。



 エゴ、っていう側面に焦点を当てて気を付けて生きるのは、各駅停車の人生。

 喜びにフォーカスし、今この瞬間の自分をいじめずジャッジせず、楽にしてあげる人生は、急行列車。

 気の向いた人は、急行か特急で、一緒に参りませんか?

 この三次元ゲームという旅路を。

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