好き嫌い万歳!

 今日の記事は、タイトルからして挑戦的である。

 スピリチュアル的に異色などころか、世の良識に照らしても眉をひそめられそうだ。なにせ、今日の趣旨は——



●好き嫌いは、悪いものではない。



 ……という、親や社会から教わってきたこととは真逆なことを言おうとしているのだから。さて、皆さんは次のような言葉を、どこかで聞いたことはないだろうか。



●食べ物の好き嫌いの多い人は、人間の好き嫌いも多い



 これは、ウソ。

 良識、と呼ばれるものの中でも、その迷惑さにおいて1・2位を争うほど。

 食べ物の好き嫌いと、人間の好き嫌いの間には何の因果関係もない。

 人というのは勝手なもので、科学的理論を証明する時に、例外をひとつでも見つければ証明されたことにならない、というほどの徹底ぶりなのに……この手の理屈に関しては、実に甘い。

 要は、親や社会の都合の良いように利用したくて、多少の例外など目をつぶるのである。

 


●あなたは、世界中の人を一人ひとり調べて、そう言っているのですか?

 それをしていないなら、あまりにも無責任すぎませんか?

 そんないい加減な理屈で、他人をジャッジするのですか?



 実際は、「食べ物の好き嫌いの多い人は、人間の好き嫌いも多い」という情報を取り入れて、なるほどそうだと受け入れるので、そういう現実(実は色眼鏡でそう見えるに過ぎない)を見ることになる、という現象に過ぎない。

 あなたの意識しているものが、あなたの宇宙を創る。

 だから、ホラやっぱりそうじゃない! となり、他人や我が子にも、良かれと思ってそのように伝えるのだ。



 人は、自分の見たいと思うものを見る。

 例えば、私自身はあまり重きを置いていないが、ある科学的データによると「遺伝的に舌の味覚を感じる器官が、人よりも過敏な人が一定の割合でいる」という。

 特に、自閉症にカテゴライズされるタイプの発達障害の場合。

 だから、ある種の味覚を人より強烈に感じるため、それが好き嫌いの激しさとなって現れる。そんなことを何も知らない人はその他人や子どもを、上記の言葉で責める。この時、「好き嫌いは良くない」という正論は、人を救うどころか地獄に突き落とす。

 言ってる本人は、まったく悪気なし。かえって、その人のために言っている、と思っている。そういうすれ違いによって、世の苦しみというものは生じている。



 本書で耳タコなほど言ってきたことを、おさらいしてみよう。

 神意識だけが、最初にあった。

(本来、こうやって時系列で書けることではないが、あえて言葉にしてみる)

 神意識は、完全であり絶対であり永遠。変化も波もない、当然問題も失敗もない完全な静寂。そんな状態に『退屈』した。

 だから、この三次元という幻想ゲーム世界を創造した。



●喜びを知りたい。ワクワクしたい!

 自分の可能性のすべてを知りたい!

 冒険したい!



 当然、喜びを感じるためにはそれと反対の状態がないと、味わえない。

『知る』という行為が成立するためには、自分が全部知っていてはできない。

 また、知るからには知る『対象』がなければならない。

 冒険であるからには、『失敗する』可能性がなければならない。

 失敗のあり得ないことに、いったい誰がワクワクするものか!



 失敗を知らない神意識は、失敗を知りたかった。

 失敗って、どんなもの?

 完全でしかあり得ない空意識は、不完全というものに興味を持ち、ワクワクした。

 不完全って、面白そう!

 で、神意識は茶の間でテレビに興じる人間のように、この三次元を見て楽しんでいるのである。

 うわ~、失敗してる!素敵~!

 愛せないんだって! 面白~い!!

 キライ、だって! もう最高!腹がよじれる~!


 (≧▽≦)



 聞きようによっては、ちょっと不謹慎に感じられるかもしれない。

 でもそれは、長年月にわたり善悪の価値判断に慣らされてきたから。

 神意識には、善悪の判断はない。だから、すべての物事を同価値に楽しもうとする。神意識にしたら、失敗も好き嫌いがあることも、愛することに差が生じることも面白くて仕方がない。

 完全な存在にとっては、完全でないということが楽しくて仕方がない。完全なる一(いち。すなわちワンネス)でしかあり得ない存在にとって、分離とは面白すぎる。

 私たちは、この三次元において愛せない、キライということを良くないものとして退けようとしてきた。



●でも、実はそれをこそ味わうために私たちはここへ来た。

 神意識では絶対に味わえないことを、味わうために。

 


 例えば、外食をする意義はどこにあるか。家で作るのが面倒、とか手っ取り早い、とかいう理由もあろうが、何と言っても——



●家庭では出せない味の世界を、楽しみに行く。



 そのためのものと言えないだろうか。

 家で同じものができるのなら、誰もお金を払って外食などしない。

 店の雰囲気。サービス。そして、プロならではの味。

 自分の家では実現不可能な世界を、わざわざ楽しみに出かけるのだ。



 同じことが、私たちにも言える。

 せっかく、神意識が自分の家では味わえないものを、三次元宇宙レストランまで外食にやってきたというのに——



●完全な愛、とか完全な成功、とか注文してどうするんだ、ってーの!

 だったら、外食に来るな!

 自分の家(一元性)で食えるだろ、そんなもの!



 実は、不完全とか問題とか矛盾とか、好き嫌いとか——

 愛というものにおいて、対象によって差が生じる状態を楽しむことが目的で、この世界にいる。そういう、様々な障害や失敗の可能性がある中で、どう自分のゲームをメイクしていくか。

 それをワクワクしながらすすめていくことが、その大冒険こそが、私たちがやろうとしていること。

 それをどういう手段で行うかは、自由。

 頂上へたどり着くための道は、千差万別。



 以上の理由から、好き嫌いなどそれほど目くじらをたてることではないのだ。

 ただ、個人によって考え方や信条も違うだろうから、絶対に好き嫌いをやめさすな、とは言わない。

 また、自身の問題である場合に、克服などするな(あるいは人に克服するようにすすめるな)と言いたいのでもない。それは、自由だ。

 ただ、それで嫌な気分にあなたがなるとしたら、それはあなた自身のせいだ。

 間違っても、好き嫌いをする相手や子どものせいにしてはいけない。

 また、自分を責めてもいけない。

 やるなら、信念をもって、後悔なくおやりなさい。

 それでやっていけなくなった時に考え直してからでも、遅くはない。



 人類、みな兄弟——

 そういう言葉がはやった時代があった。

 宗教、特にキリスト教に顕著な考え方なのだが……



●すべての人を愛しなさい。

 なぜなら、この世界のすべては神がつくりたもうた。

 だから、神様のおつくりになったものを嫌うなど、良くない。

 相手も、尊い命を持った存在なのだから。

 


 この考え方なども、人類が迷惑をこうむってきた理屈のひとつではないか。

 皆さん、ホンネを隠してカッコつけすぎなんです。



●どんなに頑張っても、イヤなやつはイヤでしょ?



 でも、宗教的な方は真面目に、それを克服しようとする。

 イヤな人に、自虐的に近づいていき、仲良くなろうとする。

 神は、主は愛しておられる。私もーなんて。

 しんどそうだ、と私などは思う。

 キライなら、キライでいいじゃないか。

 それの、どこが悪い?



 ここでひとつ、問題が生じる。

『愛』というものの定義である。

 愛と好き、を混同する人が実に多い。

 


●愛であるために、必ずしも「好き」である必要はない。

「好き」であっても、それが愛でない場合も実に多い。



 心配しなくても。

 私たちは、究極的にはワンネスなのだ。

 いつか、ひとつであることが分かり、愛においてひとつになり、分かり合える以外の選択肢がない存在。

 それがちょいと、そうでない世界をのぞきに、遊びにきているのだ。

 味わったらいいじゃありませんか。

 度が過ぎない程度に。



 お酒も、適量ならばいいものだ。

 深酒になると、トラブルのもと。

 憎しみで身を焦がすのなら。許せなくて夜も眠れないのなら。

 それは、何とかしようと努力したらいい。

(究極、それだって同価値であり、神意識にとっては何の問題もない)



 これまでの話は、一般の人々のためのものである。

 分けたくはないが、覚醒者、と呼ばれる存在はまた認識が別である。

 すべての存在が同一に認識される。宇宙が自分だから。

 ただ、肉体をもってこの二元性の世界にいるので、覚醒以前の認識の名残は残っている。例えば、筆者にもいわゆる 『キライな人』『すすんでお付き合いしたくない人』がいる。

 ただ、覚醒前と覚醒後で、そのキライな人物に対する認識が変わった。

 以前は、ただもう、単純にキライだった。そしてそこに、罪悪感があった。嫌うことは良くないな、という。

 良くないんだけど、じゃあ努力して克服できるかというと、そうもいかない。しなきゃいけないのに、自分はできない。この思いが、一番人を苦しめる。

 では、今はどうか。

 正直なところ、そんなことどうだっていい。でも、そう言ってしまっては話が続かないので、今の私のスタンスを説明しておこう。



●キライな人が本当に困っている場合。

 命が危ないとか、助けを求めている場合。

 そういう場合には、躊躇なく助けの手を差し伸べる、という意識は持っておく。

 同じ、三次元キャラとしての最低限の思いやりであり、仲間への礼儀。

 だが、平時においてまで、無理してつるむ必要は感じない。

 好きな人間とつるみ、友とし、キライだったりウマが合わないなら無理に付き合う必要はない。



 私は覚醒はしたが、まだこの三次元に肉体をもつ身。

(純度100%の覚醒なら、存在自体がこの世界から消えてしまう)

 だから、一応皆さんと一緒に三次元ゲームをしている。

 ゲームセンターに皆さんと一緒にいるのに、ひとり背を向けていても気ぃ悪いでしょ? 究極どうでもいいが、でも自分というキャラで遊んでいる。

 筆者のキャラには、ちょっと合わない人が世にはいるようである。でも私は自分のそういう状態に対し、ジャッジしないで受け入れている。

 有事の際には全力で助ける覚悟をもちながら、平時においてはムリして付き合わない。だから、私には人を嫌うことへの罪悪感がない。



 罪悪感なく、この世界でしか味わえない「愛の差」「好きや嫌い」を味わう。

 それが、この世ゲームにおける超オススメの楽しみ方である。 



【あとがき】


 ひとつ補足します。

 本書で、弥栄いやさか(私も他も栄える、という姿勢)が大事だと言ってきました。人によっては、「人を嫌うことと、その人の繁栄を願うこととは、両立しないのでは?」 と思われるかもしれません。でも、ここではっきり言っておきます。


 

●好き嫌いがあっても、他の弥栄を願うことに何の問題もありません!



 他者の幸福を願うのに、その人を感情的に「好き」であることは必須条件ではありません。それどころか、弥栄を願うのに条件などいりません。

 そもそも、私たちの正体自体が、もとはひとつなるワンネスなんですから。

 これ以上、何の条件が必要でしょう。

 もっと私たちのワンネスなること、最後にはひとつであることを命綱として——

 この世の冒険を、もっと楽しみましょう。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る