全人類覚醒者計画

 本書で何度も言ってきたように、この世界は、そして人生はゲームである。

 究極的には、善悪も価値判断もない。また、自他という概念もない。「くう」のみが存在する。(それもまた、「存在」ではなく絶対無)

 だが、このゲーム世界で三次元人間キャラとしてゲームをする以上、そこばかり言ってられない。この世界において、あまりにくう、空言いすぎること(幻想なんだから、何でもない。どうだっていい。って言いすぎることね)や、価値判断をしなさすぎることは……ゲームを投げやりにやるようなものである。

 その世界観に入り込み、感情移入できて楽しめてこそ、ゲームの価値がある。

 だから、例えこの世界が幻想だと分かったところでゲーム(生きること)がつまらなくなるのではなく、からくりを認識した上で乗せられてやるのが、通の楽しみ方。



 皆さんも、映画やDVD,マンガなどを楽しむだろう。

 あれ、架空の物語だって分かった上で、楽しむじゃないですか。誰も「ウソだから。ニセモノだから」って、見向きもしないなんてことはない。

 もしそうなら、映画業界・出版業界は総崩れだ。

 ノンフィクションしか売れず、フィクションは絶滅する。

 でも実際は、フィクションが喜ばれる。想像力すぐれた作家が、奇抜なアイデアで世間を沸かせる。素敵なファンタジー映画に、人々は魅了される。

 だから、覚醒とこの世界を楽しむこととは、一見ベクトルの正反対のことのように思われる。しかしその実は、覚醒者であることと、この世を楽しむこととは両立可能なのだ。



 過去に、ちょっと迷惑な覚醒者の実例があった。

 そのせいで、覚醒者に対する迷惑なイメージが人々の間に浸透した。

 釈迦やキリスト、インドの聖者やマザー・テレサなんかがそうなのだが——



 ●人格者である。

 ●完全無欠(本当は違うが、その人物をよく知らない人にはそう見える)

 ●常に冷静。決して感情を乱さない。

 ●怒らない。

 ●嫉妬しない。

 ●常に「愛に溢れている」オーラに包まれている。清い愛ある人のイメージ。

 ●性欲を超越している。

 ●肉を食べない。あるいは、食に執着しない。

 ●地位も名誉も価値視しない。与えられても、頑ななまでに拒む。

 ●金銭欲も物質欲もない。



 こういうのが覚醒者だ、と思っている人が多い。

 私たちが知りうる覚醒者が、たまたまそんなだったという偶然のせい。

 いや、もっと言えば、私たちが誤ってとらえていた部分もあるだろう。

 例えばイエス・キリスト。

 キリスト教が主張するのは、神の子イエスという完全無欠な愛の体現者である。

 罪のない神の子が、人類の罪を代わりに背負って、十字架で死んだ。

 いつでも愛の眼差しを絶やさない。

 西洋美術では、キリストは細身の美男子で、目が青く肌が白く、白人っぽい。



 でも、実際はどうだったか。

 肌は、中東地方特有の浅黒さ。

 もと大工(石工とも言われる)なので、体つきはマッチョ。

 豪放磊落。ヘンな冗談も飛ばし、女性も好き。

 大食いの大酒飲みで、結構したいようにふるまう自由人だった。

 はっきり言って、イエスと我々は何ら変わるところがない。

 人間は、自分の見たいように物事を見る。

 後世の人間が、見たいようにイエスを見、解釈したいように解釈した結果、今のようなキリスト教が生まれた。

 イエスが神の子だと言うなら、我々だって神の子である。

 しかしそれは、決してイエスを引き下げることになはならない。

 そうではなく、我々をイエスのところまで引き上げるというだけである。

 


 そんな、へんなイメージが覚醒者にまとわりついているせいで、筆者も迷惑している。(人間的に、言ってみました。ホントは、何ということもないけど)

 筆者は、さっきの「覚醒者の特徴リスト」にことごとく反するからだ。



 ●人格者である。


 → どんな人に対しても、分かりやすい愛の形で応えるという前提からすると、当てはまらない。


 ●完全無欠。


 → 失敗をしない、という観点からすればバツ。(大門未知子がうらやましい!)字も間違うし、忘れ物だってする。


 ●常に冷静。決して感情を乱さない。


 → 嫉妬する。感情も乱す。(ただ、乱しているなという視点というか、客観的自覚は常に存在する)


 ●怒らない。


 → 怒ります。


 ●嫉妬しない。


 → します。

 (ただし、あえてやっている上にすぐに感情を発散させるので、それが尾を引いて何か問題を起こすことはありません)


 ●常に「愛に溢れている」オーラに包まれている。清い人、愛ある人のイメージ。


 → 私を自分の見たいように見る人たちからは、とんでもないやつと思われています。嫌うアンチも少なくない。


 ●性欲を超越している。


 → 女性大好きです。基本的に奥さんラブですが、たまにグラビアの美女にドキッとします。(AVにも……)


 ●肉を食べない。あるいは、食に執着しない。


 → 肉大好きです。焼肉・ステーキ・鶏の唐揚げ大好き! おいしいもの大好き!


 ●地位も名誉も価値視しない。与えられても、頑ななまでに拒む。


 → 地位も名誉も大好き! ワクワク楽しいなら、OK。(逆に楽しくなさそうなら、拒みます)


 ●金銭欲も物質欲もない。


 → お金大好きです! 楽しく、弥栄(イヤサカ)に使えば、何ら魂を損なうことはありません。



 ……とまぁ、こんな感じで書くと、筆者がいかに『普通っぽいか』が、お分かりいただけると思う。先日も、某読者からコメントで言われた。


 

『あなたの悟りは、ブッダ(釈迦)の悟りと同じだとは思えない』



 ブッダに比べて、私のほうが「低俗だ」と暗に言いたいのである。

 私は、この考え方が(人間的な言い方をすれば)大キライである。

 なぜか。



●ひとつの「正しい」基準を設けて、それを物差しとしてあれは正しい、これは間違いと判断し、レッテルを貼っていく行為だからである。



 本書の長らくの読者さんならお分かりいただけると思うが。

 正しい、間違っているなどという、すべての人に通用する絶対基準はない。

 宇宙の王たるその人が信じることこそが、独自の正誤の基準となる。

 だから、真理なんて人によって千差万別。

 真剣にやっている人には申し訳ないが、外に必死に真理を探すなんて笑える。

 そんなもの、好きか嫌いか。気に入るか気に入らないか程度のもの。

 今までこれ信じてたけど、あっちのほうがよさそ!

 スマホの機種変更をするくらいの気軽さで、変えてもよい。

 


 この世の苦しみは、なぜ生まれてくるのか分かりますか?

 

 

●比較するからです!



 何かの基準を絶対として、それを基準に他の立ち位置を評価しだす。

 あれは良い。あれは間違っている。

 あの人はすごい。素晴らしい。

 あの人、ゼンゼンだめ。サイテー。

 俺ってすごいじゃん? それに比べてアイツ!生きてる価値ねーんじゃね?

 あの人はあんなにすごいのに、そこへくると私ってなんてダメ人間なの!



 ブッダやキリストを、覚醒者のスタンダードとして考えてしまうと、そりゃ世間の人のお眼鏡にかなう人は、少なくなりますわな。

 少ないどころじゃない。レア物だ。この宇宙は、そんな少数精鋭しか覚醒者として認められない、了見の狭っちいところなんですかね?

 はっきり言おう。私の覚醒が、ブッダの体験としたそれと同じかどうかなど、どうでもいい。興味がない。

 私は、私がすべてである体験をした。それは、他者がとやかく言える世界ではない。他の覚醒者がどうであって、私はそれと違うらしいから怪しい、などと考える余地すらない体験を私はした。

 誰が何と言おうと、私は覚醒したのだ。

 ちょっと思い切ったことを言ってみよう。



 例え、周囲の誰が見ても「エッ、コイツが? そんなバカな!」と言うような人物でも、本人が「覚醒したのだ」と言い張るなら、その人は(その人の宇宙では)覚醒したのだ。

 逆に、周囲から見て「あの人は、素晴らしすぎる! あの人は、覚醒者であるはずだ!」というような人物でも、「いや、私は覚醒していない」と本人が言うなら、本当に覚醒していないのだ。



 もう一度言う。

 何かの判断基準を決めて、その物差しで物事の是非を論じるのは、暴力である。

 自戒の意味も込めて、自分に当てはめるなら、まだマシ。

 それを他者に適用しだすと、目も当てられない。

 真理を目指しながら、この愚かしい行為を知らずにやっている人物が、いかに多いことか。そんなんじゃ、いつまでたっても真理になんかたどり着かないのにね!

(そのたどり着く真理がないんだけど……)



 私は、覚醒したとかしないをめぐって、スピリチュアルが腑に落ちた落ちないをめぐって生じる皆さんの苦痛を見て、ひとつ、思ったことがある。



 そうだ。

 覚醒者と覚醒していない人、なんて分けるからややこしいんだ。

 すべての存在は実はひとり、すなわちワンネスなのだから——

 


●今現在、すべての人が覚醒者だってことにしちゃえば?



 ……これでいいのだ!

 めっちゃ楽じゃありません? だって、もうすでにそういうことにしちゃったんだから、目指さなくてもいいわけですよ!

 手放すのが、楽になりますよ~。もう、覚醒者修行に精を出さなくていいんですから。だって、もうそうなっちゃったんですから。

 真面目な人は、そんな「フリはできない」なんて、おカタいこと言うんだろうなぁ。でも、そんなだから幸せも逃げていく。だって、幸せはつかむものじゃなく、なるものだから。

 最初に、幸せになることを(気持ちの上で)選ぶから、本当に現実がついてくるのだ。変なところで真面目で、現実的すぎる人は、本当にほしいものを得るのが困難になる宿命を背負っている。

 


 さぁ、そこのあなた。

 口に出して、宣言しちゃいましょう!



●私は、すでに覚醒者です!


 

 γ(▽´ )ツヾ( `▽)ゞ



 ……言ってやった!

 これこれこういう条件を満たしたから覚醒者だ、というのはセコイ。

 そんなものよりも大切なのは、『自覚』である。

 自覚こそ、最大の武器。

 自覚したもん勝ち。



 先日、私は覚醒者をゲーセンの店員と例えた。

 その世界観では、覚醒者は決して多くないことになる。

 皆さんとしては、それはワクワクしないですかね?

 やっぱ、みんなが覚醒者、のほうが素敵ですかね?

 ならば!



●みんなで覚醒者になっちゃいましょう!

 ハイ、もうすでにそうなりました!!



 これを名づけて、『全人類覚醒者計画』 。

 人類補完計画、みたいだな。(日本インド化計画、なんてのもあったような)

 人は、存在するというただそれだけで完全な存在。

 だったら、全人類を覚醒者と考えても、間違いではない。

 この瞬間から、私も皆さんを覚醒者……何よりも素晴らしい、かけがえのない人だと思おう。どうか、皆さんも外に見える世界に対して、そう思ってほしい。


 

 どうか、私の思いが、ワンネスなる皆さんの中を駆け巡り、届いて、本来のあなたを思い出されますように。

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