答えはすでにあなたの中に


 私は個人セッションをすることがある。

 ひと昔前はかなりの頻度でしていたが、今ではたまにである。

 これまで場数を踏んで、実感したことがある。

 それは——



●お客様は私に答えを聞きに来ているように見えて

 私に質問しにきているように見えて

 実は、その方の中にはすでに答えがあるのだ



 ……ということだ。

 人は、確かに人間肉体をもち、限界ある存在に見える。

 しかし、その正体は完全・永遠・絶対である神意識である。

 実は、すべての人はその中に全宇宙を包含している。

 宇宙のすべての情報をもっているのだ。だから、どんなことでも知っている。

 すべてのことに、答えを持っている。



 では、なぜこの世界では——



「私は知らない

 私は分からない

 だから、学ばないと

 だから、分かっている人に聞かないと」



 ……ということになるのか?

 それは——



●分からないふりをして、遊んでいるから。


 

 神意識、別な表現をすると一(いち)なる存在であるワンネスは「永遠・完全・絶対・不変」であることに退屈した。

 ここに、冒険もワクワクもない。完璧でしかない世界に、そんなものがあり得ると思いますか? だから、神意識は一計を案じた。

 じゃあ、作り物だから幻想ではあるけれど、ゲームをつくろう。

 その名も——



『不完全・二元性喜怒哀楽ドラマゲーム』


 

 だから、本来は全てを知っていて完全であるわけだが、ゲーム世界の中で自分を「白紙」の状態にした。

「自分は知らない」ということにしたのだ。

 かくして、無数に分裂したもとワンネスの個々の魂は、この世界で様々なものを見、学び、体験して、スポンジが水を吸うように様々な情報を取り込んでいく。

 当然、この壮大な世界のすべてを、人間一人で、一代で体験し尽せるはずがない。

 だから、無数の個が必要になる。そして、皆に違った役割・体験を分担させることになる。そうして、皆が感じた感情や経験は、ワンネスに還元(フィードバック)される。



 例えば、ある会社に沢山のセールスマンがいるとする。

 セールスマン個人個人は独自に動き、それぞれ収益(実績)をあげてくる。

 確かに、ひとりひとりの独自の実績というものはある。

 しかし、それらは最終的にひとまとめにされて、『会社自体の(全体の)実績』 として数字がはじき出され、生きたデータとして独り歩きする。

 ここで、セールスマン個人の実績が、個々の人間の人生 である。

 そして、そのすべてを総合した会社自体の実績が、ワンネスがどれだけ自分のすべての中の何%を体験達成したかのスコア(得点)になる。



 ホームレスとして人生を終える人もいる。

 政治家、有名人となり脚光を浴びる人生の人もいる。

 幼くして、若くして命を失う人生もある。

 長生きする人もある。

 健康に恵まれない人生もある。

 我々の常識的感覚からいうと、そこに『不公平』がある、と感じてしまう。

 何とはなしに不条理感、というものが漂う。それは、本当に人はその人以外ではありえない、と考えるからである。

 たから、田中誰それさんの人生はいい人生だよなぁ、という言い方ができる。逆に佐藤誰それさんは、あんな大変な目に遭ってかわいそうになぁ、という言い方になる。でも、それは本来ひとつのものが、自分のすべてを味わうために、分裂して皆で分担し合って体験しているだけ。

 だから、結局その体験は最終的に持ち寄られて、すべての魂(ひとつの集合体)の体験・実績となるのだ。

 意識はひとつの意識しかない、と過去記事で言った。個々人に心や意識があって、勝手に思考している。心の世界はその人しか分からない、というのは錯覚。

 意識は皆同じものを共有していて、名前とかどこで生まれて、どんな体験をしてきたかという付随データがそれぞれ違うだけ。それが、個をそれぞれ違うもののように見せている。

 そこまで突き抜けた考えを持てれば、この世界では役を『演じている』のだということが分かる。

 舞台の上で、乞食の役をやろうが、殺される役をやろうが。

 役者は、真に迫った演技はするだろうが、実際に自分が乞食でもないし、殺されもしないことを知っている。だから安心して演じれるし、舞台が終わったら素に戻って「お疲れ様でした~」ということになる。

 覚醒すると、この「演じている感覚」が腑に落ちる。

 これが分からないと、演じているのではなく——



●自分が本当に乞食であり、本当に殺される



 ……と認識してしまう。

 だから、怖い。そして、そんなことをするヤツをゆるせない。

 演じてない、超マジマジモードなので、苦しい。辛い。取り返しがつかない、やりずらいゲームになる。

 もう、そうなったら「楽しむ」どころではない。

 でも、私は演じていることが自覚できない(覚醒していない)ことは、まずくも何ともないと思う。


 

●だって、この不完全さのドラマを楽しむために、のめりこむために、わざわざこの世界を必要としてつくったのだから。

 のせられてやるのも、いいじゃないですか。本人が楽しければ。



 覚醒する、ということはある意味ゲームがつまんなくなることでもある。

 ゲームのからくりが完璧に把握できちゃったら、もう面白くないでしょう。

 そりゃ、ひとつのゲームソフトをやり尽くしちゃったら、もう別のがいいでしょう。この世界に、未練はなくなりますわな。



 でも。私はあるスピリチュアルの教えが言うように、すべてをやり尽くしたとしても、この三次元宇宙は最終的に消滅なんかしないと思っている。

 たとえこの世界を卒業して、アセンションなりなんなりして、ワンネスへ帰ったとしても、それでメデタシメデタシで終わると思いますか?

 いいや、絶対に他のゲームに手を出したくなります!

 だから、もっと世界が楽しくなることはあっても、神意識がゲーム自体をやめることはないでしょう。



 私のセッションを受けにくる方は、「このことが分かりません」とか「この場合どうすればいいのでしょうか?」と聞いてくる。

 実は、その方がその疑問を持った瞬間から、答えが分かっているのだ。

 これは、間違いない。ただ、分かっているのに——



①無意識が邪魔をする。


 その答えに納得したくないので、本当に分からないわという状況を無意識に作り出してしまう。



②顕在意識でも分かっているが、自分のその答えに確信が持てず、「他の人なら、もっといい答えを持っているのでは?」と考える。



 ……ということがあるからだ。


 

 だから、人生相談とかお悩み相談なんて、厳密には成立しないのだ。

 ワカッテナイ人間が、ワカッテル人間に教えを乞う。これは幻想であり、そのように演じているだけである。

 実際はこうである


 

●ホントは分かっているあなたが、他人という幻想を動かして、その人物を通して答えを再確認したということ。

 結局は、あなたが確認したくて「他者に聞く」という状況を引き寄せた。



 だから、筆者のほうがあなたよりものを知っていて、スピリチュアルに通じていて、あなたよりエラいのでも、立場が上なのでも何でもない。

 対等である。もっといえば、私はあなたである。



 ですから、セッションとかかっこいい言葉を使っているが、やることはズバリ『楽しいおしゃべり』である。

 お互いのひとつであること、そのままで完全であることの確認程度の意味合い。

 問題をズバッと解決! なんて宣伝文句は使わない。

 楽しい時間。楽しくてワクワクして、波動が上がりまくる。

 そんな時間をシェアできれば、と思っている。

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