Q&Aのコーナー第三十七回「その質問はまだ時満ちていない!」

 Q.


 過去記事 「あなたがいなければ……」 (本書の4番目の記事)に、こう書かれていましたね。

『人間一人ひとり、自分の宇宙を開いている。それがある共通項で重なり合っているので、他人がいるように見える』

 ここでの 「ある共通項」とは何なのでしょうか?

『死んだあとの子どもの心配とか、心配ご無用』とありますが、死んだら私の世界が無くなるっていうのは分かる気がしますが、残された子供たちはやはり生きてて(存在があって)、私の肉体の片づけ(葬式やら)がありますよね?

 私が消えるのはかまわないけど、子供達にそんな負担かけたくないな~と、思ってしまいます。



 A. こんな質問をする前に、恐れを何とかすることです。



※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※



 最初に、言っておく。

 この質問に私が率直に答えることは、ほぼ意味がない。

 そのわけを、話していこう。

 まず、はっきりさせたいことがある。



●知識は、それ自体では何も人の役に立たない。

 役立つどころか、状況によっては障害となり、凶器となる。



 皆さんの身近な例から、話していこう。

 小・中・高・大の教育を通じて、過去数知れぬ授業を受けてこられたと思う。

 たくさんの数学や科学の公式。英語の構文やイデオム。正直なところ、皆さんの今現在の生活で、それらが皆役立っている感覚はありますか?

 買い物でお金の計算をする時。新聞や小説を読むのに必要な漢字の知識。

 あるいは、歴史物のドラマを見る時に、ある程度背景が分かって楽しいとか。

 人によっては、英語を使うこともあろうが、受験英語は実践であまり使えないと思いますが、挙げたらそれくらいなもんじゃないですか?

 つまり、必要があって頭で覚えたことでも、実生活でそれを生きたものとして腑に落とす機会があまりないため、やがて記憶データの文字列として以外の存在意義がなくなる。

 くだけた言葉で言うと、『役に立たん』というやつである。

 役に立つのは、人生上の感情体験から、知識だけでなく心と体をも通して身に染みた内容のみ。これを、一般的に知識とは言わず『知恵』という。

 知恵以外の知識の段階では、役に立たない。

 いや、役に立たないどころか、下手に所持だけしていることで苦しむ場合もある。

 どういうケースかというと、『知識に縛られる』というケースである。



 例えば、の話。

 皆さんが生きている中で「本当に、このことはこうだ!」と、自分なりの人生の極意に到達したとしよう。

 別の見方をすれば、宇宙は自由なのに、その人はその実感から自分の宇宙をその知識(知恵)によって、限定してしまうという行為になる。

 でも、その人にしてみたら、縛られて満足なのだ。逆に、それが喜びなのだ。

 だって、宇宙の王たるその人が、実感を持ってその確信を選んだのだから。

 でも、これが確信できていない場合(知識にとどまっている場合)を考えてみよう。偉い宗教家の先生や、スピリチュアルの先生が本やセミナーで言っていることを実感できていない段階で「あの先生の言うことだから」と無条件に受け入れて——

「きっと、これはこうにちがいない!」

 そのように、単なるデータでしかない「知識」にしがみつく行為は、「命綱がないのに、セーフティネットがないのに、サーカスの綱渡りに挑むようなもの」。

 危なっかしくてしょうがない。

 自分の確信と喜びを動機として、自分の宇宙を限定する行為はいいが、喜びもないのに他からの情報で自分の宇宙を縛るのは、窮屈極まりない。



 人それぞれ、魂の旅の段階、というものがある。

 本来は、すべての人が神意識 であり、完全であるわけだが。この世界へは、ワンネスが無数に分裂して、個別性という幻想を仕掛けて遊びに来ている。

 だから、この三次元世界の幻想の中では、価値観や優劣があるように見える。そういう意味で言えば、今回の質問者は「まだこのようなことを知らなくてよい」段階だと見る。

 私は、文章からエネルギーを見、判別すると過去記事の中で書いた。それによると、この方は私が質問内容に対しそのまま答えても、百害あって一利なし、と結論した。猫に小判で、与える甲斐がない。

 銃の扱いを知らず訓練を受けていない人間に、いきなり口径の大きい銃 (マグナム)を持たせたら、目標に当てるどころかその人自身が反動で吹っ飛ぶ。

 小学生を大学の授業に放り込んでも、ほぼ何も分からない。

 つまり、「身の丈にあった学び」というのがよいわけである。



 私は、この質問者に聞きたい。

「ある共通項」が何か、をあなたが知識として分かったところで——



●それを知って、どうするんですか?

 だから何? というお話。



 あなたの人生が、何か変わるのでしょうか。

 あなたに、決定的な変革がもたらせるのでしょうか。

 きっと、「へぇぇ~」で終わると思う。

 トリビアの泉(ネタ古!)なら、90へぇ~くらいいくかもしれないが。

 この方にとって、きっと私の答える情報は「知識」でしかない。

 知恵とできるところまで、この方は旅をしてきていない。

 与えても、使いこなせない。

 それどころか、私が与えてしまった情報で頭を固めてしまって、他の貴重な情報をブロックしかねない。私の言うことは、私の真実でしかないというのに。

 私の宇宙を気に入ってくれて、波動が合う者同士が喜びをもって共有する真理なのに。その輪に、知識だけ受け入れて参加することは、意味がない。



 私がかつてあるスピリチュアル・メッセンジャーのトークライブに参加させていただいた時。質疑応答の時、ある方が手を挙げてこう質問された。

「音楽を聴いて感動する、という現象がありますよね。それは、どういう仕組み(メカニズム)で感動する、という現象になるのでしょうか?」

 話し手さんは、こうお答えになった。

「えっと、それを知ってどうするんでしょう? 知ったからといって、何か変わりますか?」



 私でも、そう答えるだろうなぁ、と思った。

 その質問者は、知識欲の迷宮に入っている。

 失礼なことを言うかもしれないが、当面差し迫った人生上の問題も悩みもないので、どれどれこれについて面白い情報はないかいな? という安逸な好奇心。

 もちろん、好奇心は良いものである。しかし。

 実感と知識両面があって役に立つはずの「知恵」の片側だけを求める好奇心は、危険である。



 音楽を聴く。

 何らかの波動を感じる。

 その感覚に身を任せる。

 そこで、様々な感情の波のようなものを感じる。

 心が動く。

 それで、いいじゃないですか。

 それ以上、何を知りたいと?

 


 知りたがりさんの悪い癖だ。

 事を急ぐと、元も子もなくしますよ? 

(ラピュタのムスカ調で)



 私が言う「共通項」の話は、私はダウンロードこそしたが、三次元に住まう身としては、かなり把握の難しいことである。ましてや、人に説明などするのは大変だ。

 究極、言葉を超える世界というのはあるので、ある程度魂レベルを覚醒に近いところまで持ってきた方(またはズバリ覚醒者)には、言葉を超えて分かってもらえる部分がある。

 波動が合えば、伝達可能なこともある。

 ただ、この質問者さんの文章から感じるエネルギーを見る限り、お分かりいただけると思えない。きっと、単なる情報の伝達で終わる。

 その、もうひとつの理由を見ていこう。

 以下は、質問者の質問の後半部分からの引用である。



『死んだあとの子どもの心配とか、心配ご無用』とありますが、死んだら私の世界が無くなるっていうのは分かる気がしますが、残された子供たちはやはり生きてて(存在があって)、私の肉体の片づけ(葬式やら)がありますよね?

 私が消えるのはかまわないけど、子供達にそんな負担かけたくないな~と、思ってしまいます。



 ……いまひとつ、日本語がしっかりしていない。

 明らかに、共通項の話とは話題が変わっているので、別の内容(質問)と思う。

 でも、明らかな質問形式を取っていない。

 だから、こっちで好意的に翻訳して、質問に直してあげないといけない。



「私が死んだら、私の開いている宇宙は消える、ということらしいですが、残っているように見える他人も消滅するというのは、ちょっと分かりません。だって、私が死んでもやっぱり生んだ子どもたちはいるでしょうし。

 残された子どもにやっぱり負担がいくだろうなぁ、とそういうことを思ってしまうんですが。それは、間違いだということでしょうか?」



 こんな感じで、いいだろうか。

 この質問にも、答え甲斐がない。 

 なぜなら——



●質問者は、答えを受け取る前からすでに、ご自分なりの宇宙を創造してしまっているからである。



 このタイプの質問は、よく受ける。

 まず、何を疑問に思っているかが、述べてあり。

 次に、今の時点で自分がそれについてどう考えてあるか、が説明されている。

 もちろん、例外はあるにせよ、この手の質問のほとんどは——



 答えを言ってあげても、「でも~」 という感情が残る。

 なぜなら、自分の確信を覆すほどの「確信」を得られないから。

 無意識の世界では、自分の今の認識の方が正しいと思えてしまうから。



 実は自分の中にひとつの確信があって。

 この場合は、自分が死んでも、周囲は生きていて世界は私がいなくても動いているという確信だが。

 そこへ、私が 「あなたが死んだら、何も残りませんよ」 と言う。

 ええつ、そんなバカな! 無意識では、そんな心の動きがある。

 でも、表層意識では違う。 私に好意をもってくれていて、基本的に私の話に耳を傾けたい、と思ってくれているので、ものすごく物腰の柔らかい聞き方になる。

 私はこれを、「礼儀正しく物腰の柔らかい反論」と呼ぶ。

 質問者の方は恐らく、「エエッ、そんなこと全然思ってませんよ! 私はただ、純粋にそう聞きたかっただけですぅ~」と言うに違いない。

 でも、それで当然だ。無意識なのだから。

 自覚してやっていたら、無意識とは言わない。



●この方の考え方(信念)を支配しているのは、恐怖である。



 死んだら、どうしよう。

 きっと、私なんかいなくても、世界は関係なく回っていく。

 だから、死なんて残された子どもたちにも迷惑がかかるだけ。

 葬式代とか、工面して残してあげたほうがいいだろうか?



 このいったいどこに、「喜び」 の要素がありますか?

 ワクワク、の要素がありますか? この方が持っている恐れは、自分が死んだら子どもに迷惑をかけるのではないか、というもの。それに囚われている。

 一種、信仰に近いものがある。

 間違っている、というのではない。自分がこうだと腑に落としたことが、その人の現実になりやすい、ということ。



『魂の問い』というものがある。

 それは、私は読めば分かる。

 自分の今まで抱いてきた確信が揺らぐような事件が起きて。

 もう、それではやっていけない、という状況に追いつめられた時。

 人は、魂からの問いを発する。

 それは必然であり、魂の旅のステージが上がる時に起こるイベントでもある。

 でも、残念ながら今度の問いは、それではない。

 まだ、この方なりの確信が揺らぐところまできていない。

 だから、質問に自分なりの見解を書ける。

 先ほどの紹介した「音楽で感動する、ってどういうこと?」と質問した人と同じエネルギーを感じる。 



 だから今回、私は質問内容にまっこうから答えるのを避ける。

 その方のためにならない。

 言っても、「へぇ~そういうこと!」と、腑にも落とせないただの知識で、自分の宇宙を固め限定する作業しかできない。それは、可哀想だ。

 だから、望まれたものをそのまま与えないことも、思いやりなのだ。



 ここまでの内容を読んで、こう感じた人もいるかもしれない。

 この方は気軽に、親しみを込めて聞いてきただけなのに。何もここまで言わなくても……と。

 しかし、神意識があらゆる感情を楽しむために生み出したこの三次元ゲームワールドは、そう単純じゃない。楽しむ上で、非常に奥が深い。

 私は、この質問者の方が神意識であり、宇宙の王だと認めるからこそ、それにふさわしくあれるような対応をしている。

 ここで、ああそれはこうでね、こうでね、と何も考えずに答えれば、それこそ「過保護のカホ子」になる。その方の内に潜む恐怖を暴かずに、見過ごすことになる。

 また、こちらの説明を相手の魂の準備が整ってもないのにぶつけることは、危険だ。その人が自分で考えず、自分で腑に落とさない真理を採用することで、その方の宇宙の王としての権威が、ガタガタに崩れるのを懸念しているのだ。



 では、今日のまとめにはいろう。



①知識は、それ単体では何の役にも立たない。

②知識と、心と体が感じたことが手を結んだ時。それは生きた「知恵」となる。

③知識だけをやみくもに持っていると、役に立たないどころかそれに縛られる、という弊害がある。

④幸せに生きる人は、確信によって自分の宇宙を限定しても、喜びが動機だから問題ない。

⑤実感も喜びもないなら、他から仕入れた情報を、「真理そうだから」という理由で盲目的に信じ自らの宇宙を縛るのは、不幸である。

⑥人には、幻想ではあるが魂の旅の進み具合(レベル)がある。

⑦レベルを超えた知識の吸収は諸刃の剣である。

⑧魂の問い、というレベルになって初めて質問は意味をもつ。

⑨恐怖心が土台にあるなら、まずそれを何とかしないと、その上に知識を積んでも無意味。

⑩取り入れて喜びが湧かない知識なら、そんなもん捨てなさい。

⑪捨てられないなら、その質問自体が「時にかなった」ものではなかった、ということ。

⑫「でも……」 という感情こそ、最後の戦いの最強のラスボスである。

⑬知ることに意味があることと、意味のないことがある。

⑭質問する前に、考えよう。単に知識欲を満たすものか。それとも魂からの問いか。



 人によっては、こう言うだろう。

 知識が先にあって、それを元に後から「ああ、あれはこういうことね」と実感するような体験をすることで、納得する。だから、先に知識ありきでもいいのでは?と。

 確かに、現象としてはそう見える。

 この考え方は、例え役には立たなくても、知識として頭に入れたことがきっかけとなって、最終的にそれを落とし込む経験を呼び込むことができる、という論理を前提にしている。

 そんなものはない。

 あくまでも、知識はただの文字列であり、データ(情報)という以上の価値を持たない。だから、知識が頭にあったことと、起こったことの間に因果関係はない。

 ただ、心で感じた「感情」には、それがある。

 だから、すべての場合において、感情(心で得たもの)こそが、すべてのきっかけ。なのに、「ああ、これを知っていたから、こういう経験ができたんだな」というすり替えになる。


 

 すべてにおいて、「知識ありき」ではない。

 まず感情ありき。心の叫びありき。それこそがすべての現象を生み、すべての出会い・忘れえぬ感動や経験を生み出すのだ。

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