愛・おぼえていますか
『Q&Aのコーナー第二十九回「子どものしつけに関して教えてください」』に対しては、色々と反響があった。(分類上、本記事よりあとのほうにある「Q&Aのコーナー」に収録されていますのでご参照ください)
書いた私としてもうれしくなるような、感謝のコメントもいただいた。
ただ、筆者もこの三次元に身を置く限り、完璧ではない。
この記事を読んで、幸せな気分にはなれない方もいたのだ。いいことを書いているのは分かるのですが……と、恐縮する出だしのご意見メールをいただいた。
その方は、結婚してから15年間、子どもが授からないという。
私は、先日の記事でこのように書いた。
●母でいることは、悟ることよりも素晴らしい。
母の愛で愛することは、この世界のゲームの最高の楽しみ方をすること。
だから、これを読んで心穏やかではいられなかったのだそうだ。
そう聞いて、常にハート全開でメッセージを送っている自負のある私の胸も、痛んだ。そうだったのか、申し訳ないと思うと同時に、「言葉というツールの限界」もまた感じた。
文章では一面の真理を指し示すことはできても、すべてをもれなくカバーすることはできない。あの時は、そこまで考えれていなかった。
日々苦労するお母さんに対する心からのエールだったのだが、それを望みたくても望み得ない立場の方を思いやれていなかった。
こういうメールが来たことを紹介してもよい、とご本人の許可は取ってある。
今回は、あえて舞台裏を明かしてみた。でも、このコメント主に私は感動した。
『私は母になれなかった!』という思いがその方を押しつぶしそうになった時に、その方は逆に感謝した、というのだ。
以下、本人承諾の上でその方のメールの文章を引用してみる。
一部、筆者の編集が入っています。
「でも、落ち着いてからようやく、今だに子供がいないことで自分をこんなに責めていたんだと気づかされました。優劣の価値判断もいいところです。
たくさんの事に、気づかされます。
上手く言えませんが、落ち込んでいる私もいますが、それは他者からの目を気にしているからだと思います。最近自分を振り返って、よくここまできたなあと感心してる私もいるので、大丈夫です」
現状における比較、という魔力により心が負けてしまう人は少なくない。
でも、私はそんなに人に対して『そんなことではいけませんよ。喜びにフォーカスして生きましょうよ!』などとは、軽々しく言えない。頭でどんなに『正しい』と理解していることでも、感情をそれに従わせるのがどれほど大変か、身をもって知っているからだ。
でも、このメール主の方は、心をかき乱されながらも最後にはつかんでいらっしゃる。すべては価値判断に過ぎないと。それは幻想にすぎないと。
本来の私は神意識 (ワンネス)であり、今子どものいない私という体験をしているに過ぎない、ということを。
私は本書でずっと、人は皆この三次元でゲームをしている、と言ってきた。
生まれてくる前に、カルマ清算に適した自分にぴったりの舞台状況を選んで、生まれ変わってくる。
世間ではよく、「子どもは親を選べない」なんてことを言っている。
それは実は、逆である。
●神意識は、すべて知ったうえで望んでこの人生を選択している。
ただ、ゲームキャラのあなたは、委細承知の上、自分が望んでこの自分としてやってきたことの記憶は、封印されている。
だから、「どうして私の人生って、こんななの……?」と思えるような状況も起こる。でもそれだって、ゲームの中のひとつの『クリアすべき状況』なのだ。
あなたというワンネスの分身が、代表して味わうことをあえて担当した世界なのだ。これは、実はとっても素晴らしいこと。
ワンネスの他の部分(そんなものは厳密にないが、この次元の人に分かりやすく言うために)は、そんなあなたに「本当に、ありがとうね!」と感謝している。
涙を流して、喜んでいる。でも、残念なことに、三次元ゲーム世界に身を置く我々には、その真実は見えにくい。というか、99%の人にはそんなこと自分では分かり得ない。
さっき、私は『クリアすべき状況』という言葉を使った。
でも、ここで誤解していただきたくないことがある。
何をもって、クリアしたとするか、ということについて誤解がある。
普通は、どう考えるか。
●問題を、現実的に解決すること。
何かを、具体的に成し遂げること。
だから、不妊の問題で言えば、子どもが授かることになるだろう。
ある貧しい人にとっては、現実的にお金持ちになることだろう。
文章を書くことに生きがいを感じる人からしたら、本が出て有名になって作家という肩書を得、作品が多くの人に読まれることだろう。
しかし。
その価値観では、うまくいった時はいいが、それができなかった時に「自分の人生は失敗だった。負け組だった。意味がなかった」……と、そのような思考になってしまい、まったく幸せ感を感じることのできない人生になってしまう。
だから、本当に『クリアすべき状況』というのは——
●ゲーム展開がどのようになろうとも、それに左右されることなく、最終的に自分のあるがままを感謝できること。受け入れること。
それに尽きる。
その土台があった上で、現実的に何かを成し遂げたり問題が解決したらなお良い、というくらいのこと。
間違っても、分かりやすい「実績」のほうに絶対的な価値の基準を置くべきではない。それは、勝者敗者の分類を生むだけ。
自分が勝者の分類に入った時には、幸せである錯覚を生むが、それは現実のちょっとした波風で吹き飛んでしまうような、もろいものである。
そんなものにより頼んで、何になろうか。
ちょうど、宮崎駿の映画『風の谷のナウシカ』で怒り狂った
自分は、この次元宇宙にゲームをしにきている神意識である。
外に見える人は、ある意味ですべて私である。
こんなに神意識の分身が無数にいるのは、可能性のすべてを体験し尽くすため。
そこに、善悪や良し悪しの価値観はない。
俳優、人気歌手、大統領、作家、音楽家——
それらは、私というキャラが体験できないことを担っている、別の自分。
だから、いつか統合された時、あちらの体験も自分のものとなる。
神意識がもつ記録ディスク『アカシック・レコード』にすべて刻まれ、それをすべての魂が共有できるから。
善悪や、良し悪しの判断は、この世界にしか存在しない概念である。
だから、犯罪者、身内や愛する人を事故で失った人、障がいをもって生まれてきた人……それらの人々も、自分。先ほど、俳優とか大統領とか、プラスイメージの役割を挙げたが、こちらがマイナスだ、という反射的な判断も洗脳である。
自分が外の世界にそういう人々を見る時、それはそういう役割を買ってくれた別の自分。だから、本来は感謝なのである。
●人は誰でも例外なく、ベストを尽くして生きている。
悪くなろう、と思って生きてる人はいない。
ベストを尽くした上で、皆今の状況になっている。
だから、それをどうこう言うのは、必要のない価値判断である。
皆、自分のしたいようにしている。
自分の出発の設定も、設定後に走り出した後の、無数の選択も。
だから、すべての人のすべての選択に、感謝。
マザーテレサが、あれほどの奉仕する生活を送れたのには、重大な理由がある。
もちろん、本人の魂が望んだ、というのはある。
しかし、それ以上に彼女を後押しした、ある力がある可能性がある。
それは、『前世』である。
(筆者注:以下に述べることは絶対ではない。あくまでもひとつの可能性である)
彼女は前世で、超のつくお金持ちだった。
その人生で、贅沢と物質的豊かさの極みを味わった。
つまり。彼女は、この三次元のゲームにおいて——
●あのようなことしか、することが残っていなかったのである。
上も含めて経験し尽くしたので、他にすることがなかったのだ。
だから、彼女の輪廻の最後は皆さんご存知の、極端で壮絶な人生となった。
貧しい人とともに奉仕に生き切る、ということに導かれた。
そして、自分の魂のすべてを体験し尽くした彼女は、もう輪廻して戻ってこないかもしれない。ゲームを、やり尽くしたのだ。
今生子どもをもたない人は、前世で人口増加に貢献するくらい子どもをもった人だった可能性がある。
だから、今回の転生では、陰陽のバランスを取ろうとする動きが働いたのだとも言える。そういう側面がある、ということだ。
神意識は、善悪関係なく、すべてを知りたい、体験したいと欲している。
その中で、無数に分裂したひとつの個として、何を担当するかの違いがあるだけ。
そんな中、私たちにできることは——
●それを認め、あるがままを感謝して受け止めること。
与えられた中で、じゃあどうすることが喜びにつながるのか、を模索すること。
パラリンピックが、なぜ感動的なのか。
ハンデがある方々の祭典なので、オリンピックのように人間の最高記録が望めるわけでもない。なのになぜ、そのようなものが行われるのか?
それを見たい、と人は思うのか。
●与えられた条件の中で全力を尽くす姿が美しいから。
そこに、人は大きな感動を覚えるのである。
世間でよく目にするのは、反対の状況である。
こんな家に、こんな親のところに生まれてきて損した。
なんでもっと頭のいい人間に生まれてこなかった?
なんで私は、発達障害に生まれてきた? おかげで人の気持ちが読めず、けむたがられるんですけど!
そういう風に、今の自分に与えられた現状を否定的に見、恨み言を言う。
気持ちは分かるが、その姿を見て美しいと思う人は誰もいない。
しかし、パラリンピックを見よ。
誰一人、何で自分はこんな体に生まれた? などとつぶやく人はいない。
どうせ、本家のオリンピックほどの記録なんて出やしない、などと斜に構えて出場する人もいない。
みんな、キラキラ輝いている。見る人を、魅了する。
それは、与えられた部分を最高に用いて、自己表現の最高に到達しよう、とするからである。あれがないこれがない、と嘆いていた自分が、バカバカしく思えてくる。
だから、今回のメール主に私は感動したのだ。
母であることは、確かに素晴らしい。
でも、今そうでない私でも、私はあるがままを見つめる。比較から生じる不足感や劣等感に人生を奪われるのではなく、あるものに目を向ける。
そこから、私の本当の『幸せ』、他の人と同じでないユニークな幸せを見つける。
その姿勢に、心を打たれたのだ。
今、生きていて記憶のあるこの人生だけが「私」だと考えてしまえば、メール主が私の記事を読み、「子どもを持てていない」自分を寂しく思っても仕方がない。
しかし、私もその方も、正体は神意識なのだ。
私は、保証する。
これからの時代、あなたが神意識を取り戻し、共生共栄(自他共に栄える)の意識で生きていこうとするなら、思わぬ可能性が開けてくる、ということを。
こうでないと幸せではない、というように決めてしまうのは、もったいないこと。
私は、先日の記事で 「母は最高」というような表現はしましたが、あれもひとつの表現の形です。お母さん方への、私からのエールです。
結局、何が最高なのかと言えば——
●自分が永遠の存在であり
永遠に喜びを追及する自由が与えられており
何度でもやり直せる。
しかも、今この瞬間あなたが意識を変えさえすれれば
何事も、遅すぎるなんてことは絶対にない。
……ということ。すなわち、すべての人がその最高を目指せる資本(元手)を持っているのだ。
皆さん。どうか、「今がどうか」ということに負けないでください。
そして、あなたなら大丈夫、ということも言わせてください。
私たちは、本来「愛」だということを、覚えていてください。
その愛は、普通連想される「好きなものにだけ、その都合に合うように」与えられるあの甘っちょろいもののことだと想像してもらっては困る。
すべてを生み、すべてを味わい、すべてを受け入れ、包む。
そのような、甘美な部分と峻厳さを併せ持ったものが愛。
そして、私たちは本来努力してそうなるものではない。
愛以外ではありえない。どんなに頑張っても、それ以外のものになれない。
なるほうが、難しい(つまり不可能)。
私も、そしてあなたも。
現状に負けない……いや、新たな認識の世界により「幸せを選び取る」者となりましょう。
あなたがかつて
そして今
これからもずっと
愛であり永遠であり完全であることを、覚えていますか?
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