【厳選!この人物が維新の分岐点ランキング 徳川幕府サイド】その5 『阿部正弘』(アベマサヒロ)

第五位 阿部正弘(アベマサヒロ)


徳川幕府の老中首座を務めた人物。

(1943年)25歳にして、老中になる。

江戸城本丸消失事件、諸外国問題を理由に水野忠邦(ミズノタダクニ)が老中首座に返り咲くが、阿部正弘は最終的には水野忠邦を天保の改革の失敗の責任をとらせる形でその地位を失わさせた。


海防に意識が高く。海岸防禦掛を設置するなど外交・国防に取り組んだ。

薩摩藩の島津斉彬(シマヅナリアキラ)や水戸藩の徳川斉昭(トクガワナリアキ)などとも意見を交わし交流した。

有名な人材登用では『ジョン万次郎』〈中濱万次郎ナカハママンジロウ〉が挙げられる。


ペリー来航の際に、朝廷、諸大名などから意見を求めるが有効な策は得られず、福井藩の松平慶永(マツダイラヨシナガ)や薩摩藩の島津斉彬等の推薦を受け入れて、徳川斉昭を海防掛参与に任命したことにより、諸大名と朝廷の発言力を増してしまう結果を招いた。


後年の阿部正弘は、勝海舟(カツカイシュウ)や永井尚志(ナガイナオムネ)等を登用し、講武所(日本陸軍の前身)、長崎海軍伝習所(日本海軍の前身)、洋学所(東京大学の前身)などを創設した。


しかし、阿部正弘は1858年に39歳の若さで急死した。


この時期の時期将軍継嗣問題に於いて、阿部正弘は一橋慶喜(ヒトツバシヨシノブ)をおしていた。

後に大老を務めることになった井伊直弼(イイナオスケ)が対立者の立場の相手であったのは、歴史の皮肉的なシチュエーションだと私は感じる。

両者は、徳川幕府と徳川将軍を重んじることでは同じだっただろう。

しかし、阿部正弘よりも井伊直弼の井伊家は徳川譜代大名筆頭の家柄である、井伊直弼は阿部正弘に負けることは許されなかったのかも知れない。

阿部正弘の急死は、井伊直弼には藻っ家の幸いだっただろう。

その結果、井伊直弼は安政の大獄を行い、桜田門外にて暗殺される。

幕府は維新の初期段階で阿部正弘と井伊直弼の二人の傑物を幕府内の政争の末に、両者を失う憂き目になってしまう結果を招いたのである。


阿部正弘は徳川幕府の傑物の一人であった。


(つづく)

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