月光

一六八(いろは)

月光

月光

                                    浮世

  

彼と出会ったのは、ほぼ偶然と言ってもいい。同じ学部の共通の授業の帰りに、突然声をかけられた。少し冬の足音がしてきて、風が冷たくなってきた秋の終わりだった。お互い、大学一年生だったから友達を欲していたのかもしれない。

「ねえ」

その時初めて、彼の顔をまじまじと見た。語学の授業で何度かペアになって授業をした事もあった気がするが、なんとなく記憶に残らなくて名乗ったであろう名前もあやふやだった。男性には珍しい肩までの長髪と、眠そうな垂れ目。鼻筋はすっと細くどこか中性的で異国の地が混ざっていてもおかしくない端正な顔立ちだった。

「えっと…君誰でしたっけ」

本音だった。素っ頓狂な本音。

「同じ学部の新(あらた)だよ。英語の授業で自己紹介したでしょ」

「そうでしたっけ」

「なんか、君ってぼんやりしてるよなあ」

確かに私はどこかぼんやりしていた。大学一年生、夢のキャンパスライフと言われる時期に。本当にぼんやりしていて、他の皆との歩調は全く合わなかった。これは、私に絶望的なほど協調性がないからである。その結果、授業から帰る道でも一人だった。学校にならどこにでもいる様な、孤独な人間だった。

 私がそうした孤独を望んでいるのは、てんでどうしようもない事だ。望んでいる、というのは多少語弊があるかもしれない。私は他人が怖いのだ。どうしようもなく。しかもそれが、授業中でもどこがしかでも(それこそ「サークル」なんぞでも)猿の様にはしゃぐ同年代の人間を見ていると、心がさざめき立ってどうしようもなくなる。そういった喧騒から離れるに「孤独」という内側からの鍵付きのロッカールームはまさしくぴったりの代物だ。だから、私は私の疾患とうまく付き合っていく為に他人と一切関わらなかった。内側から鍵をかけて。

 そして、その鍵付きの扉を叩く人が現れた。その人物は「新」と名乗って、大層美麗な顔をした男性だった。

「新君もでしょ、他の子は私になんて声かける暇ないよ」

「ところで、梶川ってお酒飲める人?」

ほぼ話したことがない相手に、いきなり呼び捨てだ。新は距離の詰め方が急な人物らしい。私は無視して講義室を出ると一気に寒風が押し寄せてきた。私は歩みを止め、紺色のリュックを床に下ろすと中から厚手のパーカーを引っ張り出した。これでなんとか寒さに震えなくて済む。そして、新は律儀にその様子を私の傍で観察していた。そして、私は新の方を見ずに言う。

「飲めない」

嘘だった。と言うより、どうでもいいので話を終わらせたかったのが本当だ。

「え、梶川ってまだ未成年だっけ?」

「そうじゃなくて」

新の素っ頓狂なその言い方に私はイライラしつつもそう答えた。察しが悪いのか、わざと聞き返しているのか定かではなかった。

「自己紹介の時1995年生まれの20歳ですって言ってなかったっけ?」

新は変に私に関しての記憶力が高かった。同じ学部とはいえ、まだ1年も経過していない浅い関係性の人間、しかも義務的な自己紹介の発言をその歳の初冬まで覚えている人間がいるだろうか。若干、気味が悪い。

「私が酒を飲める体質だろうがなんだろうが、新君に教える必要あるの?」

「無いね」

新は傷つく素振りも見せずにそう言ってのけた。その目の奥は好奇の色に満ちていた。周りとは違う「変な」生き物を見る時の人間の目だった。

「じゃあそういう事だから。お疲れ様」

そう吐き捨てて、私は踵を返して歩き出した。それは何かに怯えた十代の少女の様な歩みだった。


私が実家の戸に手をかけた時、その奥から大きながなり声がした。それに私は驚かない。いつもの事だ。私は玄関に靴を丁寧に揃える。がなり声の主人は私の名前を呼んだ。

「おい、有栖(ありす)、酒が足りねえ」

頼りない障子の向こうから、そんな怒声が飛んでくる。いつもの事、だった。私はそんないつもの怒声が耳に届くと、意識が頭の中から飛び出していくのを感じる。私が私から離脱していく感覚だ。

「おいっ、聞いてんのか有栖、酒だ酒ェ」

声の主は「父親」と言った。自分でそう名乗ったのだ。伸びきった無精髭はも、ボリュームのつまみが壊れたような大音声も、彼の「男性性」の象徴であり、私の「恐怖」の対象でもあった。私は、他人が怖い。特に「男らしい」男性(ひと)が。

「はい、すぐに」

そう言って、台所に立ち冷蔵庫から蒸留酒の瓶と業務用の氷を取り出す。無職透明なグラスに夕焼け色の、高度数の酒が注がれていく。グラスの半分までそれが満ちると氷がカラン、とやけに明瞭に鳴った。背後では「父親」が下品な笑い声をあげてテレビのバラエティ番組に見入っている。

私は怯えていた。家という檻の中で暴れる事しか出来ない、無能で凶暴な「父親」という獣の気配に。


「おーい」

呆然と今日の夕焼けを眺める私の横には、あの物好きな男が立っていた。そう、新だ。この学校は、やけに無機質な造形をしている。それが私には好ましく映った。無機質であるという事は「有機的」を際立たせる。例えば、ありふれた冬の夕景だ。

「何?」

私は無愛想に答える。夕焼けを一人で見ていたかったのに、どこからか新がやってきて、私に声をかけた。冬は深まって、空気はますます寒々としている。マフラーにコートという冬の装いの二人の息にそれは顕著で、息を吐くたびに白く現れていた。

「いや、この前俺すげーしつこかったじゃん」

「そうね」

「ひでえ」

冷淡に言い返すと、新は素直に嘆いて見せた。その素直さに私は少し笑ってしまう。笑顔から生まれた白い霧が、立ち上っては消えた。

「で?わざわざ謝りにきたの?」

新の反応が少し笑いのツボに入ってしまった私は、こみ上げる笑みを噛み殺しながらそう言った。そうじゃなくて、と彼はもごもごと口篭る。なんだろう、と思いつつ私は澄んだ空に浮かぶ夕景をじっと見つめていた。

「梶川に俺のお姫様になって欲しいんだ」


そのドアを「開けてもらって」目に入ってきたのは、非日常的なきらびやかな空間だった。薄暗い空間に光る極彩色の照明、天井にはシャンデリア、ショーケースに入った見た事も聞いた事もないボトルの数々、そして「帰ってきた」私を「お姫様」と呼ぶスーツ姿の男達の列。圧倒的な光景にただただ圧倒される私は、案内されるがまま男の後をついていく。そうすると、男は壁の認証スイッチを手際よく押し、くるりと振り返って私に向き合った。

「有栖お嬢様、僕はここで失礼しますね」男はにこやかな笑顔を浮かべ、丁寧に腰を折って何処かへと消えた。目の前のスモークの貼られた自動ドアが静かに開く。

「おいで」

薄暗い部屋の奥から聞き慣れた、あの鬱陶しい声が聞こえた。


部屋の奥には、「男」がいた。扉の正面は通路が少しだけ伸び、その右側が開けてある。そこはスタイリッシュな小部屋になっていた。男の座る深い赤のソファは遠目でもふかふかとしているのが分かる。先ほどの笑顔の男が私を案内したこの部屋はいわゆる「VIP席」だったらしく、壁と床は濃い紫のガラスで出来ていた。奥にコンクリートの柱や壁が透けて見えた。照明は淡いピンクの間接照明で、紫の壁やソファに合わせて暖色で合わせている様だった。

肝心の「男」はシックな紺のスーツに手触りの良さそうな黒いシャツを合わせ、黒い髪の毛はセンターでかき分けられて、その特徴的な長い髪は後手に結われていた。セットされている様で、躍動的でありながら清潔感を感じる装いだった。

呆然と立ち尽くす私に対して、新は何かに気づいてすっくと立つ。

「自己紹介がまだでした。私、『CLUB Phantom』のナンバーワンホスト、ヒカルと言います」

そういって、部屋の奥にいた「ヒカル」は名刺を差し出した。黒字のゴシック調のフォントで『CLUB Phantom No.1 host Hikaru』と書かれていた。名刺を渡す為に通路側の私に近づいてきたヒカルからは、むせかえる様な甘い香りがした。名刺をじっと見つめ、ヒカルの挨拶にも答えず、私は呆然としていた。そうすると、ヒカルは私の前にひざまづいてこう言った。

「もし、お嬢様のご機嫌がよろしければ、私と一時の夢を見てはくださいませんか?」

その時、ヒカルと私は初めて目を合わせた。ヒカルは、新にとてもよく似た、美しい男だった。


その時間、私とヒカルが交わした言葉の多くは記憶にない。しかし、それは初めてのホストクラブで浮かれて、酔いつぶれたと言う意味ではない。私は「あの時」初めて私に向けられた、そして目の前の麗人、ヒカルが言った「君は酒が飲めるか」と言う問いに、初めて正直に答えた。

「私、『お酒を飲む人』が苦手なんです」と。

ホームから終電の特急電車に飛び乗って、電車内のシートに腰を下ろした時、私は現実に還ってきた感覚に襲われた。アルコールを摂取しなかったとはいえ、非日常な空間で脳が弛緩していたのかもしれない。ましてや、ホストクラブの初回でソフトドリンクとはいえ相当なお金を請求されると思っていたが、帰りぎわヒカルから謎のカードを渡され「それをフロントに見せて頂けると」と添えられて。言われるがまま、その謎のカードをフロントの人に見せると、なんと何の支払いも請求されることなく帰された。衝撃である。

そんなことを思い返していると、普段見慣れているであろう光景が妙にクリアに感じられた。

私はお酒が強い。『お酒を飲む人が嫌い』と言ったのは、本当の事だ。私の酒に対しての耐性の強さは母譲りで、母はスナックのママを職業としていた。職業柄、お酒に関わることが多く、私と同じく酒に対しての耐性が強いことを武器に、水商売をするようになった。そして、客である「父親」と結婚した。そして、3年前、出て行った。私が高校3年の冬の事だった。

母は突然居なくなった。その原因は、火を見るよりも明らかで「母や私と違って」アルコールに溺れてしまう父親の性質によるものだった。父は母に暴力を振るった。今私にする様に母を怒鳴り、その拳で打った。そんな光景を多感な時期に見せられていた私は、家に帰る事が少なくなり、特にやる事も、部活に打ち込む事もなく学校の校舎の隅の階段で音楽を聴いていた。


何故、母は私を置いていったのだろう、と今も思う。もしかしたら、他に男が出来て出て行ってしまったのかもしれない。なにせ、何の置き手紙も残さずに消えてしまったのだから。「他に男が出来て、その人と結婚するのにアンタは邪魔だから」なんて子供に伝えるには酷な理由だったとしたら合点が行く。そうして、私はあの獣と同じ檻の中に閉じ込められたまま、大人になったのだ。

あっという間に最寄駅に到着したアナウンスが車内に響く。はっと我に返って窓の外を見ると、窓の外には小雪が散っていた。扉が開き、暖房の効いた空間に寒々とした冷気が滑り込んでくる。ホームの床を蹴って、寒さに身を震わせながらあの檻に向かって歩く私をよそに、背後の特急電車は終着駅へ向かって暗闇へ消えた。


「よー」

その朝、珍しく1限目の時間帯に私たちは顔を合わせた。当然その話をしない訳にもいかず、私たちは授業をサボって端の方にある校舎の階段で話をした。

まず、新は成人してからホストをし始めたという事。その背景に彼の父親の蒸発があった。

「俺の親父、最近出て行ったんだけど。借金してて。保証人が母親だったのね。なんだかんだ俺も2浪してタラタラして、やっと入学した訳だから。」

なるほど、母の借金の返済を手伝っているようだ。

「でも、あんたナンバーワンなんでしょ。仮にも」

「仮じゃねえし。事実そうだし」

「じゃあもう借金返せたんじゃないの」

ホストでナンバーワンの収入があれば、大抵の借金は返せそうなものである。

「いやまぁ…医療費?っていうのかな…」

「医療費?あんた病気してるの?それともお母さんが?」

新自身は肝臓以外は元気そうに見えた。だとすれば母親の方だと考えたが、新は黙って首を振る。そして彼は少しの間地面を見つめた後、天井を仰いだ。長い髪がさらりと彼の肩をなでる。前髪が目元を隠していたけれど、次に発せられた言葉で全てを察した。

「俺、彼女がいるんだけど。彼女、意識戻らないんだよね」

彼の声は震えていた。


新の彼女はアヤカ、と言うらしい。いわゆる彼の許嫁で、小中高と全く同じ環境で出会った。高校から本格的に男女として付き合って、気の迷いで別れるという事もなく本気だったようだ。社会人として自立したら結婚する約束もしていたという。新が2年間浪人していたのは、アヤカさんが交通事故に遭ったショックによるものだった。彼女は、休日に新の家に向かう途中、背後から歩道に突っ込んできた暴走車にぶつかられ、脊髄を損傷する大怪我を負った。彼女がいつまで経ってもやってこない事を不審に思い、外に様子を見に行った彼の行動と、休日の住宅街という事で目撃者がたくさんいた為、早急に救急車が呼ばれて、彼女は幸いにも一命をとりとめた。ただ、意識だけが戻らなかった。

「それって延」

「言わないで」

延命治療。心臓または脳が死なない限り、その患者は「生きている」事になる。そう、アヤカさんは生きているのだ。ただ、意識が戻らないだけなのだと。新はそう振り絞るように言った。

「生きてるんだよ…」

新は、手を組み頭を抱えて、地面を見つめながら、何度もそう呟いていた。まるでそれは悪夢にうなされる子供のようだった。

いつのまにか、時間はお昼頃になっていて冬の寒さもいくらか穏やかになった頃。私は学校のクラスメイトの雑踏の中をぐんぐん進んでいた。頭の中にはさっきの話がずっとリフレインしていた。あの後、それと自分を職場、ホストクラブにしかもVIP待遇で誘ったのかと聞いた時、彼はこう言った。

「梶川、アヤカに似てるんだよね」

その時の笑顔は、ヒカルの張り付いた営業スマイルを彷彿とさせた。


それから私は0時を過ぎないと家に帰らなくなった。化粧や服装が派手になった。学校で目立たなかったのに、急にイメチェンしたのだと噂され、さらに浮いた存在になった。だからと言って誰かが私に関わるということもなかった。

その代わり、CLUB Phantomに私は入り浸るようになる。一番最初にあの紫の部屋に通された時は、そんなことはなかったが、さすがにVIPの権限を持っているとはいえナンバーワンホストを独り占めすることは難しく、ヒカルが私の元に来ないこともままあった。それでも私は良かった。と言うより、家に帰りたくなかったのだ。家にはあの獣がいる。Phantomにはヒカルがいる。それが私の行動理念を決定付けていた。何度もPhantomに通う内、私とヒカルは幾分仲良くなったように感じた。それが営業なのか本心なのかは、「ヒカル」の時の彼は全く察する事が出来なかった。


人は強い痛みを感じると、一瞬感覚が麻痺するのだと初めて知った。

「このアバズレが」

毎日0時を過ぎて、化粧も格好も派手になって帰って来る私に「父親」はついに業を煮やして鉄拳制裁を下した。殴られた右の顎が痛むが、きっと睨み返す。獣はまた酔っていた。

どうやら、この獣は私が男、ヒカルに夜這いしていると思って殴ってきたようだ。

「なんだその目は」

そう言って、獣は私を突き飛ばした。強く背中を打つ。獣は私の髪の毛をつかもうと手を伸ばしてきた。

ー殺される。

瞬間、獣の発した殺気にそう思った私は身を翻して、カバンだけ持って家を飛び出した。

後ろから獣の怒号が追いかけてきたが、私は構わず凛とした深夜の夜道を走った。頭に思い浮かんでいた行き先は一つだった。走りながら携帯電話をカバンから取り出して、とある電話番号へ発信する。その番号は、初めてPhantomに行った時に、ヒカルからもらった番号だった。


「大丈夫?」

玄関の扉を開けて出迎えてくれたのは、仕事終わりの新だった。黒いシャツにスーツなのは、帰宅して間がないという証拠だ。暗い夜道を走り、どうにかタクシーを見つけた私は新のマンションまで車を走らせた。マンションはPhantomの近くにあって、私の家からタクシーでは少し離れていた。

新の顔を見た瞬間、私は泣いていた。知っている人に迎えられた安心と浴びせられた殺意からの緊張の糸が切れたのだ。

新は高所得者とはいえ気取ったタワーマンションには住んでいなかった。職業上、オートロック(客がストーカーしてくる可能性があるらしい)ではあったが、一人暮しの女性など防犯意識の高い人間達が住むようなごく一般的なマンションだった。もっといいところに住まないのか?と聞くと新は

「母親にね、大体送ってるから」と照れくさそうに語った。

警察には後で行こう。とりあえず今は落ち着けな、と彼は温かい飲み物をキッチンで作っていた。それを私はリビング(兼キッチン)の安っぽいソファに座って新の背中を見ていた。彼の部屋は職業からは想像もつかないほど質素だった。先ほど語ったように、大部分を母親に仕送りしているからだろう。タンスや照明はいい家具ブランドのものを使っている様で、デザインも素材も凝っているように感じられたが、多くの家具が大学生のそれだった。これがPhantomのナンバーワンホストの部屋だと、あの空間に入り浸る客が信じるだろうか。と、そんな事を逡巡していると、新は穏やかな表情をしてこっちを見ていた。

「どうしたの」笑いながら私が問いかける。彼氏じゃないんだから、と付け加えた。

「ああ、梶川って本当にアヤカに似てるなあって」ああ、そういう事ね、と私は納得した。

「ほい」キッチンからやってきた新がマグカップを差し出す。マグカップからは湯気が立ち上っていた。中を見るとホットココアだった。

「いただきます」

新の作ったココアは、Phantomで飲むどんな飲み物よりも暖かな味がした。


そして、なんとなくつけた無機質なテレビを傍観しながら、ソファの隣に自動的に腰掛けてきた新と私はこれまでの自分の人生の話をし始めた。

新は父親がいなく、私は母親がいない。新は母親の為に働き、私は父親に暴力を振るわれていた事。そんな波乱万丈と言える人生をポツリポツリと零していった。

「俺には母親の為に働くことが生きがいみたいなところがあったから、梶川の立場だったら耐えられないかも」

「そうだろうね、大体の人がそうだと思う」

「…梶川はお父さんの事憎いと思ってる?」

改めてそう問われて、眉間にしわがよる。どうだったんだろう。私はあの獣を憎んでいたのだろうか。

「でも、多分だけど、憎んでたら行動に移してたと思う」

例えば、毒殺とか、と付け足すと、新はそうだろうねと言った。

「俺も、親父の事憎いのかよく分からないんだ」そう言って、新は体を伸ばして空を見つめた。それは私が私の母親に対して思っている感情と同じものだと思った。答えを探しても、それを知る相手はもういないという事実。それを受け入れてだましだまし生きていくしかない。

「分かるよ」そう言って、手のひらの中の空のマグカップを見つめる。

「梶川は今、好きな人いる?」

そう問われ、新の方を見ると、彼はぼうっと宙を見つめたまま、こちらを見なかった。私が何と答えたらいいのかと、答えあぐねていると新は

「俺は、人を好きでいる事に疲れちゃったかな」と笑って語った。

時計の針は深夜2時を過ぎていた。


私の上に跨って、頬をなでる彼は誰なんだろう。ヒカルなのか?新なのか?私にはわからなくなっていた。アヤカさんは?と聞くには、烏滸がましい気がした。私は彼の何物でもない。彼女でも、友人でも。その代わり、私はこう聞いた。

「好き?」

「わからない」

新は今にも泣きそうな子供の表情でそう言った。

「好きって感情が、苦しくて、化石みたいに干からびていて、俺にはわからないんだ」

喉につっかえているものを吐き出すみたいに、新は少しずつ自分の言葉を紡いだ。そして、そんな新を前にした私は、嘘をついた。

「ねえ、私は、好きだよ」

新の目に涙が溢れて、私の心臓あたりにポタポタとこぼれ落ちる。

ごめん、ごめんね、と何度も彼は私に謝った。その日、私は当然家に帰らなかった。

この夜を照らす月が消えるまで、私は彼のそばにいなければと思ったのだ。

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月光 一六八(いろは) @yukkuri0115

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