その3/4

 窓の外の日差しがほんの少し傾いてきたような気がする。そんな時間になってもハルヒは部室に姿を見せなかった。

「涼宮さん、遅いなあ」

 机の上に肘をつき、組んだ手の上に小さな顎を乗せた朝比奈さんがぼそっと呟いた。「涼宮さんが来たら着替えます」と言って制服姿のままお茶を注ぎ、その傍ら食事を済ませたり俺と古泉の対局を観戦したりしていた朝比奈さんだったが、今日は結局今に至るまでいつものメイド服を披露しないままである。

「お腹空いてないといいけど……」

 と心配そうな面持ちで虚空を見つめ、若干上の空気味である。

 そういえば、もしハルヒがあのまま今も試験を受け続けているのだとしたら、確かに昼飯は食べていないことになる。あいつ一体何時間試験を受け続けるつもりなんだ?

 俺が三百問全てに回答してテストを終えたのは開始からだいたい三十分後だった。その時ハルヒが回答していたのは十問程度だったはずだ。仮にそのままのペースで回答していたとして終了までにかかる時間は、ええと……十五時間。明日になっても終わらないじゃないか。

 いくらこの世の理不尽と傍迷惑を煮詰めた存在の如きハルヒとはいえ、古泉たちのでっち上げたニセの試験で腹を空かせたまま居残りをさせられていると思うと、ちょっとばかり不憫ではあるな。古泉、試験に制限時間を設けなかったのは明らかにお前らの落ち度だぞ。セールスに行く前にここは忘れず改善しとけよ。

「迎えに行ってやるべきかな……」

 と、セリフが口から零れ出て部室に小さく響いた。

 誰の口から?

 俺の口からだ。

 俺は今「ハルヒを迎えに行く」と口走ったのか? と、自らの思わぬ失態に戸惑う間もなく、むしろその一言を待っていたかのようなタイミングで長門が分厚い洋書をバタンと閉じた。それを合図に古泉と朝比奈さんも阿吽の呼吸で部室を出る支度を始める。二人の表情はなんかこう、ニヤニヤしているように見えなくもない。やめろ、なんだか恥ずいぞ。とにかく長門が言うなら仕方ないだろう、今日の活動は終了だ。

 ということで俺たち四人は部室に施錠をし、団長様をピックアップすべく二年五組の教室へと向かった。


 蒸し暑く薄暗い教室で、案の定ハルヒはまだ一人で机にへばり付いていた。担任の姿はなく「終わったら持ってきてくれ」と言い残して職員室に戻ったらしい。そりゃそうだろう。もう五時間近く経ってるんだぞ。

「何よあんたたち。あたしはまだ試験中なのよ」

 と言うハルヒだったが、顏を上げてこちらに向き直った表情は無理矢理怒ったフリをしているようにしか見えなかった。もうちょっと素直に感謝の言葉ってもんを口にできないものかね。

 回答用紙を見るに流石に多少はペースアップしていたものの、まだ優に百問以上回答を残していた。ハルヒは当初「終わるまで帰らない、先に帰ってなさい」と一歩も退かない構えで駄々をこねていたが、俺たち四人があの手この手で説得した末(長門までもが無言の視線で訴えていた)、結局試験を家に持ち帰って明日朝イチで提出するということでハルヒは渋々納得した。

 職員室に寄って担任岡部にその旨を伝えて了承を得、俺たち五人は近所の駄菓子屋で買ったスナックやらパンやらをハルヒと長門の口に詰め込みながら坂道を降りて下校した。


 とまあこんな感じで、この日は古泉の妙な企みを知ってしまったこと以外はさして変わったことはなく、とある高校生たちの日常ということで記憶の彼方に置き去りにされてしまいそうな何でもない一日だった。

 まともな人生を送っている人間なら生涯忘れることができないであろうトンマな事件が起きたのは、正確にはいつのことだか分からない。が、確かに言えるのは俺がその発端を知ったのは翌日の昼間だったということだ。


 中間試験が終わって通常授業が再開した初日の昼休み。いつものように谷口国木田両名と昼食にありつこうとしていた俺は、先の授業の教師から担任岡部が俺を職員室に呼んでいることを知らされた。

 前にもこんなことがあったな。

 あの時の呼び出し人は生徒会長で、その実態は正真正銘古泉たちの仕込みだった。今回もそうなのかどうかは知らんが、SOS団団員その一としての俺の高校生活はいつ文科省や教育委員会から呼び出しを食らっても不思議でないものであることは間違いない。

 昨年の映画撮影の時の無茶が今頃になって問題化したのか(俺のせいではない)、それともバレンタインの有償アミダクジが懸賞法にでも引っかかったのか(これも俺のせいではない)、はたまたこの春の部活説明会にメイドとチャイナを動員して校内風紀を乱したのを誰かが教師らにたれ込んだのか(以下略)、様々なパターンとそれぞれに対応した言い訳を考えながら職員室の担任のデスクを訪れたのだが、正解は俺の予想の範疇外のものだった。

 俺の顔を見てバツが悪そうに説明を始めた岡部教諭によると、俺が提出したはずの自己診断テストの回答シートが現在見当たらないのだという。

 昨日、テスト終了後に職員室に戻る際に一度ハルヒ以外の全生徒が提出したのを確認したとのことで、「すまん、完全にこちらのミスだ」と平謝りだ。一体何を責められるのかと身構えて来たもんだから拍子抜けしたが、万一今日明日で紛失した回答用紙が見つからなかった場合は明後日の放課後改めて試験を受けなおして再提出してもらうことになるということで俺はまたゲンナリした。

 あれを三日に一回受験させられるというのはもはや児童相談所か国際人権連盟に申し立てるべき事案なんじゃないか? まあ、文句を言ってどうにかなる問題ではないし、我らが熱血教師岡部も随分申し訳なさそうにしていたので不平不満を口に出すことはしなかったが。

 一方的な謝罪と追試予告が終わってその場を去ろうと振り返ったところ、俺のすぐ後ろにクラスの女子が立っていた。どうやら俺との話が終わるのを待っていたようだった。

「やあキャム。岡部氏との話は終わったのだろうか」

 ああ今終わったよ、バトンタッチだ。去り際に後ろから「実は昨日出してもらったテストの回答用紙なんだが……」と歯切れの悪い説明が聞こえてきたので、あいつの回答用紙も俺のと一緒にどっかに行ってるんだろう。

 それにしてもこれはどういうことだ? 教室に向かいながら考えを巡らせる。

 わざわざ全学生にでっち上げの試験を受けさせておいて、そこまでしてこさえたデータをみすみす紛失しやがるとは。『機関』とやらはもうちょっとしっかりした組織だと思ってたぞ。森さんや新川さんがそんなポカミスをするとは思えないが、末端までいくとそうとも限らないのだろうか? もしくは俺の回答用紙には価値無しってことか? とにかくあれをもう一回やらされるのだけは避けたい。改めて古泉を締め上げる必要があるな。背はあいつの方が幾分高いが。

 昼休みの貴重な時間を無駄にした上に昨日同様くそ暑い校内を往復運動させられた俺はSOS団の活動が終わった後にどうやって古泉を問い詰めるかを考えながら教室に戻り、谷口と国木田の「教師から呼び出しとは上等じゃねえか。キョンお前、今度は何をやったんだ?」「女絡みってことはないよね。涼宮さん関連かな。同じか」などというしょうもない追及を適当にかわしてようやく昼飯にありついた。

 昼食中、谷口は専ら休み時間に校内で見かけたという超A級美人教育実習生について熱く語り、俺と国木田は話すがままにさせておいた。お前は日々人生に張りがあっていいよな。

 ハルヒが学食から戻ってきたのは五限開始直前だった。呼び出された件をこいつに話すのは後でいいだろう。


 中間試験の結果がぼちぼち戻りつつある午後の授業とホームルームが終了し、起立、礼、ありがとうございましたの定例あいさつを終えて部室へ向かおうと腰を上げた時、壇上の岡部がハルヒにちょっと用事があるから職員室に来てくれと声をかけた。俺と同じ用件か? だとすれば『機関』とやらの物品管理能力はいよいよもって怪しいものだな。

 ハルヒは特に動じることもなく「何だか知らないけどすぐに終わらせるわ。先に行ってて」とだけ言って教室を出ていった。古泉をシメるのは帰りでいいかと思っていたがこれは丁度いい、予定を少し前倒しするか。


 部室のドアをノックすると内側から「はーい」と可憐な御声が返ってきた。部屋に入ると俺とハルヒ以外の三人が既に揃っており、長門と朝比奈さんは各々自分の椅子に座り古泉は席に着かず立っている。

「お待ちしていましたよ。涼宮さんはご一緒ではないようですね」

 ご一緒ではないね。ハルヒなら担任に呼び出されて職員室に直行だ。俺も多分同じ件で昼休みの時間を無駄にしちまったぜ。

 俺は鞄を机の上に放り出して自分の席に着く。古泉は何故か立ったままだ。

「そうでしたか、それなら好都合です」

 何が好都合だ。古泉、試験の答案用紙が目下行方不明だそうだが本当か? と問おうとしたところ、腕を組んで顎に指を添えた古泉の顔が嫌にシリアスなことに気付いた。

「まさにその件であなたにも話がしたかったんです。昨日行った試験の回答用紙の一部が現在紛失している旨『機関』から連絡がありました」

 だからそれは俺が今言ったろ。もしあれが見つからなかったら俺はお前らのなんちゃってテストをもう一回受けなきゃならないんだぞ。どうにかしろ。

「回答用紙が全て失くなっているなら全学的に再試験というのも致し方ないでしょうね。ですが実際には全部ではなく一部、各クラスの回答用紙を封入した封筒の中からいくつかの回答用紙だけが行方不明になっているんです」

 そりゃあそういうこともあるだろ。教師陣の管理体制には改めて注意喚起したいところだが。

「紛失している答案の中には僕のものも含まれています」

 ほうほう、それで?

「朝比奈さんのも、長門さんのも同様です」

 それは……どういうことだ?

「原因は二つ考えられます。一つは純粋に各担任教師の管理不行き届きです。たまたまあなたのクラスの担任があなたと涼宮さんの回答用紙を失くし、たまたま僕の担任が僕の分を失くし、長門さんの担任と朝比奈さんの担任も同様に。たまたま僕らのデータだけをピンポイントで紛失したというケースです」

 そんな都合のいい失くし方あるか。勿体ぶらずに話を先に進めろ。

「前者があり得ないとするならば答えはもう一つの方でしかあり得ません。意図的に何者かが掠め取ったのです」

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