第20話 兄上

 その日僕は眠りについて、明日に控えた旅行とやらを楽しみにしていた。


 僕が温水に興味を持ったのを見たマリアさんが、温泉に連れていってあげようとレオさんに言ってくれたのである。


 夜半、何やら言い争う声が聞こえて目が覚めたことを覚えている。僕はそろそろと寝室を出て、ダイニングへと向かった。


 レオさんとマリアさんと、誰かもう一人の声がする。侵入者だろうか。


「ですから、あの子はうちの子です。あの子をどう扱おうが私たちの勝手でしょう? 口を挟まないでいただけますか」 


 マリアさんが怒っている。


「兄上、あの子はまだ学校に興味を持てていません。無理に行かせることが果たして彼の発育にいい影響をもたらすでしょうか?」


 レオさんが兄上と言うということは、市長……?


「私を兄と呼ぶな、妾腹の子の癖に。私は市長であるぞ。市長という肩書を持つ私の秘書の子が学校にも行かないとあれば聞こえが悪いのだ。即刻通わせよ」


「兄上」


「しつこい! 私は貴様と血を分かち合った覚えはない。疫病でも持ってない限り子供は学校に通うのが世間体のためだ」


「——市長ともあろうお方が、世間体を恐れられますか。お見苦しい!」


「——なんだとぉ?」


 難しい話でよくわからないが、僕の話で喧嘩になっているということはわかる。ここは出ていって喧嘩を収めるべきなのだろうか。でも、礼儀作法も知らない私が出ていって、レオさんの恥になれば分が悪くなる。黙っているべきか?


 逡巡しても答えが見つかろうはずもなく、僕はまた抜き足差し足で部屋へと戻る。ここはがあれば師匠を助けられた貧民街ではないのだ。まどろっこしい規則で縛られ、恩ある夫妻に仇なす者を排除できないのは、師匠の死とは違った無力感を感じさせた。


 ただその無力感のなかに、モヤモヤした違和感が残る。レオさんの兄である市長はレオさんに『妾腹の子』と言い捨てた。僕はこの言葉の意味を知ってる——。


 いつか師匠とともに窓の修理に向かった女に浴びせられた声だった。厳密には彼女の子に対してだったが。


 あの依頼の時点で彼女は、実はすでに妻のいる男と半同棲関係にあり、妊娠までしていた。その妊娠がバレた本来の妻に、窓を打ち破られた末に妻の雇ったゴロツキに腹を強く殴られ流産してしまったらしい。


 そんな経緯であれば、確かに普通の修理業者には頼みづらいだろうと同情もした。そして彼女いわく、既婚者であることを男は隠していたそうだ。それならば、女に非はなかろうに。


 だが、その噂で持ちきりだった街の人々は僕と同じ意見ではなかった。同じ女ですら女性側を糾弾し、女性側が真理を話しているという可能性に対して全くといっていいほど目を瞑っていたのだ。


 居心地が悪くなり、背を屈めて足早に去る僕の背に、言い捨てるような市長の声が貼りついた。


「このことを黙っておいて、秘書に取り立ててやってるのは、他ならぬこの市長であることを忘れるなよ、妾腹!」

 

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