第21話 想い

 朝が来た。僕は全く寝られていない。昨日の夜、レオさんとお兄さんの喧嘩を聞いてしまったから——。


「おはよう、ロン。——どうした? 顔色がよくないようだが」


「レオさん——」


 夜聞いた険悪な声とは違い、ユーモアのあって優しいいつもの・・・・声だった。いつかマリアさんが言っていた、レオさんは家では・・・ひょうきんであるという言葉の意味がわかった気がした。


 この人は、兄と行動をともにする職場では心休まらないのだろう。だから、家ではせめて明るくあろうとする。


「ロン?」


「あ、僕、旅行には行きたくありません」


 レオさんはひどく落胆したようだった。


「そうかい……せっかく乗り気になってくれたと思ったが、気が変わったかい? それとも今まで無理をしていたかな? まだこの家にも環境にも慣れてないんだろう、無理もない。旅行の件はまた今度にしよう」


 ただ、とレオさんは続けた。


「せっかく兄上を説得できたのに、勿体ないな……」


「——え?」


「————ん?」


 兄上、すなわち市長を説得できた、とレオさんは言った。では、僕は学校に無理やり行かされることもないのだろうか。学校に行かないとレオさんの世間体が悪くなるなんてことはないのだろうか。


 口をあんぐりと開けて固まってしまったのだろう僕を見て、レオさんは目尻を下げ、唇を噛んで、ごめんね、とだけ言った。


「いや、あの」


「昨日の喧嘩を聞いていたんだろう? 起こしてすまなかった」


「僕は、そんな」


「兄上のことは気にしなくていい。あの方はいつもああなんだ」


「そうなん、ですか」


 気難しくて横柄、それが市長の第一印象だった。もっとも、声しか聞いてはいないが。あんな人と、いつもイチャモンをつけてくる厄介な人と、レオさんは仕事をしているんだ。


「あの、旅行はいい休憩になりますか」


 レオさんが羽を伸ばせるなら——蜜探しに疲れた蝶が木の枝に佇むように在れるのなら、旅行に行ってもいいのかもしれない。


 レオさんは優しい顔で笑った。


「ああ、大いに羽を伸ばせるよ。ロンが旅行に行きたいと思ってくれたお陰でね」




 急に元気になり、支度をしに部屋に帰っていったロンをレオは見送っていた。


「あの子はどうも、他人のことを第一に考えすぎる」


「そのようですね」


「マリア、いたのか」


「ええ、私の支度は済ませてあります」


 レオはマリアの肩に手を添えた。


「あの子の支度を手伝ってあげてくれ。そして私が急用で帰還を余儀なくされたら、あの子のことを頼んだよ」


「はい。ロンのことはこのマリアが絶対に守ります」


 夫妻には長らく子供ができなかった。ロンは夫妻にとって、実の子と同じくらい大切な存在なのである。

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