out of time 第二話 ヤドリギのせい


 ― out of time 調子はずれ -



 ~ 十二月二十二日(日) 四百メートル ~

   ヤドリギの花言葉 危険な関係



 昨日と同じ橋からの景色。

 昨日と同じ灰色の空なのに。


 どうして今日は。

 こんなにも違って感じるのか。



 雪が降りそうだねと呟くと。

 お隣りからは、嬉しそうな笑い声。


 空の色は、心の鏡。


 つまりこれは。

 都合のいい解釈に他ならない。


 俺が、三つくらいの頃に学んだ。

 大切なこと。


 今更ながらに。

 改めて思い知らされる。


 そう。


 空の色は。

 心の鏡なのだ。



 ――その朝は、すこんと抜けるような青空が。

 山の方から駅の方まで、ずうっと広がって。


 垣根の向こう。

 お隣の庭に揺れる。


 ピンクの小さなお布団を見て。

 ぽかぽかの幸せを感じていたんだ。


 でも、その日のおやつの時間。

 穂咲がホットミルクに出来た膜を指で取って。

 俺の鼻に詰めたから。


 熱くて暴れて。

 カップを倒して。


 ミルクを台無しにしちゃったんだ。


 そして、誰が零したのって。

 おばさんに叱られた時。


 ウソをついて。

 穂咲が零したと言って。


 あたしじゃないよと泣く穂咲を。

 放って家に逃げたんだ。


 ……だから、その次の朝。

 

 すこんと抜けるような青空が。

 山の方から駅の方まで、ずうっと広がって。


 垣根の向こう。

 お隣の庭に揺れる。


 ピンクの小さなお布団を見ても。

 幸せには感じなかったんだ。


 おんなじ空に。

 異なる思い。


 おんなじお布団に。

 異なる思い。


 日によって。

 相手への想いによって。


 ぽかぽかになった昨日。

 涙がこぼれた今日。



 ……いえ。



 違いますよ?

 そうしんみりなさらずに。



 前の日のケンカは。

 夜、寝る前に仲直りして。


 仲直りのご褒美に、おじさんから。

 リンゴのジュースを貰ったのです。


 でも、穂咲は俺の分を取り上げて。

 二杯も飲んで。



 ……いえ、違いますよ?

 俺は、穂咲に取り上げられたくらいで。

 悲しくなったりしない子でしたから。



 朝になって、悲しくなったのは。

 お布団を見て穂咲を不憫に思ったせい。


 そう。

 穂咲のことを。

 不憫に思ったせいなのです。




 ……二杯も飲むから。




 ~♨~♨~♨~




「俺は昨日この空を見て、寂しいため息が積もった色だと思ったのです」

「さすがはポエミスト道久君なの。今日はどんな色に見えるの?」

「まったく同じ空なのに。すぐにでも土砂降りのびしょびしょになりそう」

「なんでそんなにネガティブ?」

「いや、君。十八にもなって……」

「だから違うって言ってるの! 布団のそばにあったポットが給湯室に行こうとしてこけただけなの!」


 俺はこれでも。

 必死に君の言うことを信じようとしているのですが。


 評価というものは。

 普段の行いによって左右されるのです。


「お正月明けにもやらかしたではないですか、君」

「あれは不可抗力なの! そんなこと言うんだったら、道久君だって、昨日変態なとこ誘おうとしてたの!」

「それは関係ないでしょうに。でも、確かにごめんなさいなのです。俺も後から知って、妙なことを教えやがったメガネをスリッパでひっぱたいときました」

「おじさんの頭を叩いたりしたら可哀そうなの」

「だから、本体の方を叩いたんですって」


 穂咲は首をひねっていますけど。

 いつからでしたっけ。


 世間的に、メガネの人の本体がメガネで。

 穂咲の本体がお花だと思われるようになったのは。


「相変わらず、仲がいいのか悪いのかよく分からないわね」


 おばさんが、俺たちの後ろで。

 ころころと笑いながら言った言葉。


 つい、いつもの天秤が。

 脳裏にぷかりと浮かびます。


 仲がいいのか悪いのか。

 好きなのか嫌いなのか。


 今、天秤は。

 嫌いの方に傾いていますけど。


 それはきっと。

 容疑者どまりなこいつを。


 俺が。

 犯人だと確信しているからでしょうね。



 でも、前代未聞な粗相をしでかしたであろう容疑者が。

 おばさんの言葉に、気を取り直して。


 昨日の俺と同じよう。

 ピンクのミトンで、欄干をざらりと撫でながら。


「……温泉、久し振りなの。前は、道久君のパパにプレゼントしてもらったの」


 そんなことをつぶやいたので。

 こちらも休戦せざるを得ないのです。


「ああ、東京に行く前でしたね」

「うん。結局、東京には旅行に行っただけになっちったけど」


 あの時。

 もしも本当に、穂咲が転校していたら。


 俺はどんな人生を歩んでいたのでしょう。


 ……いえ。

 そんなもしもな離れ離れ。


 結局もうすぐ。

 現実になるわけで。


 家はお隣同士でも。

 学校が、職場が違えば。

 疎遠になるというもの。


 穂咲が東京に行きそうになった時。

 大事なことを学んだのに。


 あるいは、後悔は先に立たずと。

 例え未来の俺にそう言われても。


 今を生きる俺には。

 未だに勇気が足りません。


 そしてこのまま俺たちが自然に離れていくと。


 今日のことも。

 思い出の一つになるのでしょうか……。


「そう言えば、小さい頃温泉に来たらしいですけど。覚えてますか?」

「覚えてないの」

「俺、おじさんと勝負したはずなのですが」

「勝負?」


 俺の言葉に、首を横に振った穂咲なのですが。

 急に何かを思い出したよう。


 手をポンと叩いた後。

 分かりやすいニヤニヤ顔で俺を見ます。


「なんですそれ? 思い出したのですか?」

「情けない道久君なの。そんな大切なことも忘れたの?」

「珍しい。穂咲は覚えていたのですね?」

「当然なの」


 一体、何を思い出したのやら。

 ここまでニヤニヤされると気持ち悪いのですが。


 でも、一方的に思い出されてしまっては。

 形勢を逆転するのもままならない。


「で? 調子はずれな歌を歌っていないで、教えてくださいよ」

「お店が並んだ通りの方に行くから、そん時に教えたげるの」


 そんな穂咲が、嬉しそうに歩く後ろを。

 俺とおばさんが、並んで歩いて。


 同時に肩をすくめて。

 そしてくすりと笑い合います。


「……しかし、珍しいですね。三人揃って大瓶一本なんて」

「ああ、昨日の事? そりゃそうよ。急な仕事が二件も入って、全速力で終わらせて。帰ってから荷造りして、車の運転して」

「お疲れ様なのです」

「それで美味しいお料理をこれでもかって程食べて、ふやけるまで温泉に浸かって。……その後、秘宝館のせいで荒ぶるほっちゃんをなだめて」

「……ほんとお疲れ様なのです」


 やれやれ、いつも考えているのに。

 おばさんに負担をかけちゃいけないって。


 気をつけなくちゃいけないなと。

 改めて心に誓います。


「この橋、気持ちいいわね」

「ほんとですね」


 川を渡る風に目を細めて。

 髪を押さえるおばさんの横顔。


 久しぶりにゆっくり見ると。

 ちょっと、老けたようにも感じます。


 ……せっかくのお休み。

 ゆっくりお過ごしくださいな。


 穂咲と二人で。

 のんびりすると良いのです。


「今日は、おばさんに思う存分楽しんでいただこうと思いますので」

「ほんと?」

「ええ。だから穂咲と……」

「じゃあ道久君、ほっちゃんとデートしなさいな! おばさんは、一人で羽を伸ばしてるからさ!」

「え? 逆なのですよ。俺が一人でいますから」

「なに言ってるのよ」

「おばさんこそ何を言っているのです」


 さすがの俺でもこれは分かる。

 おばさん、穂咲と二人でいたいのを。

 遠慮しているようなのです。


 橋を渡り切って。

 屋台が並ぶ通りへ出ても。


 いつまでも続く俺たちの口論。

 それが、随分離れて歩いていた穂咲の大声のせいで。


 強制的に終了です。


「道久君! パパと勝負したの、これじゃない?」

「……射的? では、ないような気がするのですが」

「いいからやってみるの」

「はあ」


 言われるがままにお金を払い。

 小さなぬいぐるみを撃ち落としましたけど。


「やっぱり、違うと思うのです」

「ふっふっふ。ほんとはこっちなの!」

「ボール投げ? でも、ないような気がするのですが」 

「いいからやってみるの」

「はあ」


 言われるがままにお金を払い。

 鬼のお腹に見事に命中。


 景品に、髪留めを貰いましたけど。


「やっぱり、違うと思うのです」

「ふっふっふ。ほんとはこっちのマグカップ……、じゃなくて、このもぐらたたきなの!」

「このやろう」


 ほんと、この手の悪だくみに関しては。

 頭の回る子なのです。


 俺は仕方なしに、もぐらたたきをプレーして。

 景品のマグカップを穂咲にあげると。


「どれもこれも上手いの。道久君、温泉の才能あるの」

「どうせ温泉の才能なら、掘り当てる方の才能が欲しいのです」

「手で?」

「モグラですか」


 そして温泉が湧いて、穴から出て来たところを。

 君がハンマーでたたいて横取りする気ですね?


「手で掘ったら、一瞬で痛くなっちゃいます」

「そんな疲れた手だけを、温泉で癒すの」

「ピンポイントで癒してどうします」


 文句を言う俺の袖を引く穂咲が。

 指差す先。


 そこには。

 今まで見たことの無いものがありました。


「手湯ぅ!?」


 カレー屋台の入り口。

 腰高の水槽に貼られた張り紙には。


 間違いなく。

 手湯と書かれているのですけど。


「何かの冗談でしょう。店員さん! これ、ほんとに手を入れるのですか?」


 そして俺が。

 屋台の客寄せをしていたゾウの着ぐるみに話しかけると。


 そこから聞こえてきたのは。


 ……ずいぶんと馴染みのある声なのでした。


「そうだよ~。……って! なにやってるし! こんなとこで!」

「……こっちのセリフなのです」


 この、ターバンを巻いたゾウ。

 中身は間違いなく。


「れんさんですよね?」

「あ、あたしはインドゾウなんだゾウ?」

「インドゾウの割には、めちゃくちゃ日本語上手いですね」

「お経だって読めるぜ? 門前の小ゾウなんちて」


 ええい。

 だまらっしゃい。


「……穂咲、GO」

「れんさん、リンゴあげるの」

「わ~い! ……はっ! 罠だし! あたしはゾウなんだゾウ?」


 両手をバタつかせて慌てつつも。

 長い鼻で穂咲が差し出すリンゴを掴んで。

 口へ放り込んでいますが。


 ……両手、ばたついてるのに。

 どうやって動かしたの、鼻。


「……ああ、この声。かつ丼の時の子?」

「かつ丼でしたっけ。もう、いろんな食べ物与えているのでどれがどれやら」


 おばさんも、一度しか会っていないのに声だけでよく分かりましたね。

 さすが客商売。


「あなた、そんなに苦労してるの?」

「そうなんだゾウ。デパートの屋上で、クリスマスイベントやってる間にお休みにさせられたことが死活問題なくらいに……」


 そりゃ災難でしたね。

 でも、だからと言ってこんなところでアルバイトなんて。


 すっかり呆れていた俺に。

 ゾウが変なことを言い出します。


「あれ? 穂咲ちゃんは?」

「は? 穂咲なら今、リンゴをあげて……、いなくなっとる!」


 おばさんも、慌てて辺りを見回しますが。

 どこにもあいつの姿が無い。


 そんなタイミングで携帯が鳴って。

 おばさんとゾウが覗き込む、その画面には。



< ママと道久君。二人で過ごして欲しいの。

 あたしは一人で屋台を堪能してるから。



「「はあああああ!?」」


 思わずおばさんと顔を見合わせて。

 そして再び携帯を見つめます。


 俺が、おばさんと穂咲に二人でいて欲しかったこと。

 おばさんが、俺と穂咲に二人でいて欲しかったこと。


 それは誰にだって理解できることだと思うのですが。


「あいつがどうしたいのかまるで分からん」

「ほんとよね。あたしが道久君と二人でいたりしたら……」


 そんな時。

 急にオロオロし始めた、ゾウのれんさん。


 垂れた耳を両手で押さえて。

 鼻をブンブン左右に振ったかと思うと。


「……わお。禁断の関係?」

「違いますし」


 どうやら。

 バカなことを考えていたようです。


「あたし、なんにも聞いてないゾウ?」

「やかましい」

「でも、気になるから尾行するし。えれーファンとでも思ってちょ?」

「インドへ送りつけてやるのです」


 まあ、この人のことは放っておいて。

 今は穂咲なのです。


「やれやれ。探しますか、おばさん」

「ごめんね、変な子で」

「なにをいまさら」


 俺の返事に。

 おばさんは、ふふっと笑うと。


 急に寂しそうな声音で。

 こうつぶやいたのです。


「ダメな子ね、道久君と二人でいないなんて。……私、最近は元気だけど。どうなるかなんて分からないのに」


 ……最近は。

 病院へ行く回数も減ったけれど。


 おばさんの体があまりよく無いのは。

 ずっと前から変わらなくて。


 だから、俺は。

 どう返事をしたらいいか。

 分からなくなってしまいました。



 ……空の色は、心の鏡。



 俺は、灰色の空を見つめながら。

 少し切ない気持ちになってしまったのでした。


「道久君」

「………………はい」

「ほっちゃんを、よろしくね」

「……ずるいのです」




 ~♨~♨~♨~




 知らない町で。

 穂咲が向かう先。


 考えるまでもない。


「やっぱここか」

「むう。なんでわかったの?」


 迷子になるのが怖いから。

 宿に戻ったに決まっていると。


 そんな推理で帰ってきたら。

 案の定。


 部屋でゴロゴロしている穂咲を発見しました。


「意味の分からないことをして、心配かけて。おばさんからも何か言ってやってください」

「まったくあんたって子は! 道久君とラブラブにならなきゃダメじゃない!」

「驚くほどこっちも意味が分からない」


 いつものようにおかしなことをし始めた穂咲を。

 いつものようにおかしなことを言い始めたおばさんが𠮟りつけると。


 穂咲は。

 しゅんと正座しながら呟いたのです。


「だって……。二人とも、あたしが一緒じゃない方がいいって言ってたから……」

「え? そんなこと言ってないじゃない」

「はい。なんでそんな勘違いを……、あ」


 なるほど。

 そう言われれば。

 聞こえなくもないですね。


「違いますよ。俺は、おばさんと穂咲に二人でいて欲しくて……」

「あたしは、道久君とラブラブになって欲しかっただけよ?」


 慌てて説明したものの。

 穂咲は、少し目に涙を浮かべて。 


「……みんな一緒がいいの」


 俺とおばさんが。

 同時に反省した一言をつぶやいたのでした。



 ……まあ。

 だからと言って。



「お前、機嫌悪くないか?」

「いつも通りですけど」

「合格通知がまだ来ないからって、イライラしてちゃいかん」

「いえ。合格しましたよ? 母ちゃんから聞いてないのですか?」

「だったら、なぜそんな顔をしている」


 みんな一緒がいいからって。

 この二人を召喚したら。


 へべれけが三体出来上がって。

 結局、俺と穂咲とで過ごすことになるのです。


 ――あの後、結局五人で一緒にいて。

 イルミネーションを見て。

 宴会前にひとっ風呂。


 今は父ちゃんと二人。

 温泉に浸かっているのです。


「……父ちゃんたちも、二人の方が気楽なのでは?」

「お前こそ、藍川さんに気を使わんか。それに母さんはな、ああ見えてお前との時間が楽しいんだ」


 またまた。

 それは無いでしょう。


 現に、今だって。

 垣根の向こうから。


『わはははは! 隠しなさんな! どれどれ……』

『めくっちゃだめなの』


 ほらごらん。


「いつでもどこでも楽しそうですが?」

「そんなことはない」

『もう。めくっちゃだめなの』

『めくりークリスマスってね! わはははは!』

「…………楽しそうですが?」

「そんなことはない」


 あの母ちゃんが。

 旅先でも俺が一緒の方がいいなんて事。

 考えるはずありません。


 しかし……。


「父ちゃん 。さすがにあのセクハラ止めないと」

「別に構わんだろう。それにいざとなったら、藍川さんが止めるだろうし」

『じゃあ私も……。おお!』

『めくっちゃだめなの』


 ……止めるどころか。


「ねえ」

「……関わったら負けだ。これだけ大声で騒いでおいて、俺たちが何か言ったら、聞いていたのかと文句を言って来る。女性とはそういう生き物だ」


 相変わらず。

 ヘタレたことを言う人です。


 思えば父ちゃんは。

 昔っからこんなことを言って。

 面倒ごとから逃げていましたっけ。


 ……ん?

 昔……。


 父ちゃんなら覚えているかしら?


「俺、オルゴールを持っていたのですが、あれは誰から頂いたものか覚えていませんか?」

「おまえが? オルゴール? ……知らんな」


 残念。

 父ちゃんも知らなければ。

 誰にも分かりませんね。


 誰から貰ったか。

 分からないオルゴール。


 それがいつの間にやら消えていて。

 ……まあ、恐らく。

 穂咲の部屋とおじさんの部屋を経由して。

 それをまーくんがネットで販売したのだと思うのですが。


 ……あ。


 聞くのを忘れていました。

 俺のオルゴール。

 もう売れてしまったでしょうか。


 そんなことを考えて。

 ちょっとのぼせ始めた時。


 父ちゃんが、急に。

 首をひねり出したのです。


「いや、待て。オルゴール? 藍川さんのものではなかったか?」

「え? ……おじさんの? そんなわけないでしょうに」


 なんでおじさんのオルゴールが。

 俺の部屋にあったのさ。


「そんな話を聞いたことがあるような……。いや、すまん。はっきり覚えていない」


 父ちゃんが、未だに首をひねりながら。

 湯船から上がったので。


 俺も後に続いて。

 タオルで水気を飛ばします。


 ……でも。

 記憶もないほど小さな頃。


 オルゴールをくれるとすれば。

 おじさんのような気はしますけど。


「おじさんがくれたものじゃなくて、おじさんの?」

「だから、よく覚えていないと言っているだろう」

「そこを何とか」

「……道久の、忘れた病がうつったようだ」

「せめて、穂咲と言ってください」

「ばかもん。そんなひどいこと言えるわけなかろう」

「おい」


 そのまま服を着て、ロビーへ出て。

 サンダルをはいて中庭へ出ると。


 父ちゃんが、随分と段差のある岩へ。

 風呂上がりだというのに登っていくのです。


「なにやってんのさ。子供か」

「ほお、こりゃ凄い。道久も来い」


 そして、岩の上から。

 手を差し伸べるのですけれど。


「登りませんよ? 汚れてしまいます」

「いいから来てみろ」


 いつまでたっても手を伸ばして。

 誘って来るのです。


 やれやれ仕方ない。

 でも。


「じゃあ登りますけど。手なんかいらんのです」

「……ばかもん。手を貸してやりたいと思うのが親というものだ」


 暗がりの中。

 表情は分かりませんが。


 きっと優しい顔で。

 そんなことを言ってくれたのです。


 なるほど。


 いらんお節介でも。

 素直に受け取るのが子の甲斐性。


 俺は苦笑いで父ちゃんの手を握って。

 腕を引っ張ると。



 父ちゃんが落っこちてきました。



「…………親の甲斐性は」

「ばかもん。ノートPCが最近どれほど軽量化されたのか知らんのか」

「何でしたっけ。サーバーとか言う奴くらい持つでしょう?」

「業者の仕事を取ってどうする。責任分界点というものがあってだな……」

「言い訳がましい」


 ……小さな頃は。

 気っと登れなかったであろうこの段差。


 でも、今の俺にはわけもなく。

 先に登って、父ちゃんを引っ張り上げると。


「……見ろ」

「おお、凄い」


 そこには、降ってきそうなほど。

 満天に星が煌めいていたのです。


「昼間は曇っていたのに」

「ああ。いつの間にやら晴れていたのだな」


 高いところに立ったせいか。

 独り占め感がハンパない。


 こんな景色を見せたいがために。

 誘ってくれたのですね。


 ……小さな頃は、登れなかった段差。

 大人が導くために手を伸ばす。


「しかし引っ張り上げようとして落ちるとは」

「まあ、そんなもんさ」


 少ししょんぼりしているようですが。

 力が弱いのは父ちゃんの個性ではありませんか。


 父ちゃんの大きさは。

 社会に出るに当たって、いろんな経験をしたおかげで。

 ちょっぴり理解できた俺ですので。


 そんな顔しなさんな。


「あ! こんなとこにいたさね!」


 そしてロビーから。

 母ちゃんが顔を出してきたのですが。


「そっからなんか見えんのかい? よし、それじゃ……、ふんす!」



 …………小さな頃は、登れなかった段差。



「大きくなると、また登れなくなるんだね」

「……まあ、そんなもんさ」


 そして父ちゃんは。

 無表情のまま手を伸ばし。


 再び落下していったのでした。


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