第38話 謝罪の檻
あれからなんの連絡もねぇ。
ゆかりちゃんの家に楓を送り出し、もう既に昼前になっている。昨日のうちにある程度の状況は分かったと思いたい。それならばその進捗を報告してきても良いはずだ。
「どうなってんだよ…頭痛てぇ」
ゆかりちゃんが楓の部屋に泊まるようになってから、近くにいる影響なのか、時々頭痛がする。
ミシミシと、頭の奥に亀裂が入っていくかのような、鋭い痛みだ。
恐らく、楓もそうだったのだろう。
頭の奥にある壁のようなものに亀裂が入る度、その隙間から何かが漏れだしてくるような感覚。
そして、記憶の混濁。
楓がいきなり俺を押し倒してきた事もまた、そういう訳の分からない影響を受けての事だと思う。
「くそっ…しゃあねぇ。行ってみるか」
ゆかりちゃんの家に向かおうと支度を始めた時、電話が鳴った。
「あぁ?やっとかよ……あれ?ジンさん?」
『おいユウ、上手くいったみたいだな?』
電話してくるなりそんな事を言われても、訳が分からない。
「…何が?」
『はぁ?ゆかりちゃんの事に決まってるだろうが。寝ぼけてんのか?』
なんだゆかりちゃんの事か。
それならそうと言ってくれないと分からん。
って、なに!?
「おいおいジンさん!覚えてるのかよ!」
『だから言ってんじゃねぇか。覚えてるって事は、上手くいったんだろって話だよ』
「あー、ちょっと待ってくれ。楓がゆかりちゃんと一緒にいるんだが…うーん、俺も状況が分からないからな。また後で連絡するわ!」
つまり、そういう事なのだろう。
作戦は上手くいったと。その証拠にジンさんが覚えているから。聞くの忘れてたけど、昨日は会わせてないから、以前の記憶が甦ったって事だろう。
「でも、なんでまだ頭痛てぇんだ?」
腑に落ちないこともあるけど、取り敢えず葉山家に向かう事にした。
部屋を出て、自販機でコーヒーを買っていると、後ろから声をかけられた。
「ユウさん!お疲れ様です!」
振り向くと、華奈が立っていた。
「お疲れ様って、俺はまだ何もしてないんだけどな?どうしたんだ?」
「どうと言うこともないんですけど…今日は暇かなぁって」
俺と目を合わせようとしない華奈を、訝しげに見ていると、二へへっと笑い出した。
「デートでもどうっすか?」
「デート?俺とか?」
「ユウさんと、です!」
何を考えてるのか分からんが、まぁこいつは人を騙したりするようなやつでは無いし、変に勘繰る事はしないでもいいだろう。
「大変魅力的な誘いだが、ちょっと用事があってな?」
「用事ですか?仕事です?」
「いや、仕事ではないがな。変な事に巻き込まれてな」
自販機でもう一本コーヒーを買って、華奈に投げて渡した。
華奈は危なげなくそれを受け取ると、「頂きます!」と言って飲み始める。
「変な事…あたしが役に立てる感じですか?」
俺もコーヒーを一口飲み、タバコを取り出すと、華奈がライターを出してくる。俺はそれを遠慮して、自分で火をつけた。一度大きく煙を吸込み、吐き出す。
「うーんどうだろう、今回は力でどうとかいう話じゃねぇからなぁ」
「そうなんですか。残念です」
「いやいや、ありがとうな?楓が先に向かってるから、ちょっと行ってくるわ」
心底残念そうな顔をしている華奈に手を振り、その場を去ろうとしたのだが、華奈にグイッと服を掴まれた。
「おい、服がのび…」
「楓のやつが先に行ってる?なるほど、楓程度で役に立つなら、あたしが行っても問題ないですよね?」
ニヤリと笑うが、なんでそんなに一緒に行きたいんだよ。
「…はぁ。お前さ〜、どうしたんだよ」
「えぇ?いや、別に…あ、何となく楓に負けたくない気持ちがありまして?」
「分かった。じゃあ行くぞ?」
「了解です!」
何故だか分からんが、華奈を伴って葉山家に向かうことになった。
向かう途中、楓には連絡を入れたが、返信はない。
そして、華奈にも事のあらましを伝えながら、漸く目的地に到着した。
「ユウさん、ここで間違いないんすか?」
葉山家に着くと、華奈が険しい顔をして俺に尋ねてくる。
「ああ、間違いないが。静かだな…」
昼前なのに生活音すらしない事を不思議に思い、インターフォンを鳴らそうとしたその時、俺の腕を華奈が掴んだ。
「何するんだ。在宅を確かめるだけだぞ?」
「ちょっと待って貰えますか?あたしこの家知ってるんですよね。つい最近報告された家なんで」
顔を顰めて目の前の家だけを睨みつけている華奈が、そう言った。
報告って事は、まぁブルージェイルの事だろうな。
でもなんでブルージェイルが関わってくる?
「どういう事だ?」
俺の言葉を無視して、音を立てないように玄関に入っていく。
ゆっくりとノブを回すが、扉には鍵がかかっていないようだった。
俺には理解不能だが、華奈の態度には明らかに警戒が見て取れる。
俺も警戒して華奈の後について行った。
音を立てないようにゆっくりと家の中を進むと、リビングが見えて来た。
先に華奈が中を確認すると、息を飲むような表情になる。俺は華奈の隣に移動すると、中には人が倒れている。
「なっ!おぃ…むぐっ」
驚き声をあげそうになった俺の口を、華奈が慌てて塞ぐ。目を剥きながら華奈に抗議しようとするが、華奈は唇に人差し指をあて、首を横に振る。
「大丈夫です。みんなの胸が上下してる。生きてますから」
華奈が声を抑えて言った言葉で、俺は少しだけ安堵する。しかし倒れているのは間違いないのだ。倒れているのは三人、ゆかりちゃんがいない。
「どうするんだ?家の中にこんな事をした誰かいるのか?お前はそれが誰か知ってるのか?」
俺も声を抑えて話しかけた。
「あ、いえ。こんな事は初めてですね。少し予想外です。ただ、居るとすれば、それは多分クソやろうだと思ったんですけど」
さっきから訳が分からない事ばかりだ。
華奈は何を知っているのだろうか。だが今はそんな事を話している暇はない。
そう思っていると、小さい音が二階から聞こえた。
「なんかいそうだな…華奈、お前はこの人達を頼む」
「了解です。ユウさんなら大丈夫だと思いますけど、気をつけて」
俺は足音を響かせないようにゆっくりと二階に上がっていく。
二階に辿り着くと、ドアが開け放たれた一室から衣擦れのような音と、ハァハァという息遣いが聞こえてくる。
そっとその部屋を覗き込む。
そこには、ゆかりちゃんに覆いかぶさっている男が居た。
◇◇◇◇
「うおあぁぁぁー!!」
とてつもなく大きな雄叫びが葉山家に響いた。
それと同時に楓は飛び起きた。
「な!何が!!」
二階から間断なく音が響いてくる。何かを破壊するような音が。
「ユウさん!」
華奈が慌てて二階に走った。
起き抜けに華奈が言った言葉を聞いて、楓はハッとした。
そして華奈を追って、自身も二階にかけて行く。
辿り着いた部屋の前で、青い顔をした華奈が立ち尽くしていた。
楓も慌ててその場に行くと、ユウが見たことも無い男に馬乗りになり、殴り続けている姿があった。
その部屋のベッドには、死んだような目をして口から血を流す、裸のゆかりが上半身を起こした状態で座っていた。
「ハッ、ハッ、ハッ」
楓は浅い息を吐き、過呼吸のようになる。
「ちっ!ユウさん、どうしたんだよ!死んじまうぞ!あぁー、くそっ!ユウさんごめん!」
只管殴りつけている男の足は、既に痙攣しているようで、ビクンビクンと震えているようだ。
華奈は誰の話も聞こえていないようなユウの頭に、脚を振り抜いた。
真面にその蹴り足を喰らったユウは、人形のように崩れ落ちた。
既にぐちゃぐちゃになっているその部屋の中を、呼吸が出来なく気を失いそうになりながら進み、楓はゆかりの元に辿り着いた。
「辛かったね…もう、大丈夫だよ?辛かったねぇ?ごめんなさい、ごめんなさい」
楓はゆかりを抱き締め、涙を流した。
ゆっくりとゆかりの口から流れている血を拭うと、それ以降は血が流れてくる事はない。
何に対してかの謝罪なのか、その真意は誰にも推量ることが出来なかった。
ゆかりの目には何も写っていないような深い闇を纏っていて、無表情で涙を流すだけ。
部屋の入口には、後から目を覚ましたであろうゆかりの母が、大きく目を見開き、泣きながら震えて立っていた。
「ごめんなさい、ごめんなさい。ゆかりちゃん。気づかなくて、ごめんなさい」
謝罪の言葉が延々と聞こえてくる異様な雰囲気の室内で、誰もこの場から出ることは出来ない、まるで檻の中のように身動きが取れない。
唯一人感情を抑えることが出来る華奈は溜息をつきながら、スマホを取り出した。
そして、ブルージェイルに連絡を入れる。
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