第19話 路上ライヴ

 十個のてるてる坊主越しに覗けば、空は雲一つない。

 それは今日歌う歌の数と同じ。

 凛は鏡の前で髪型を確認して、靴を履く。昨日整えて貰ったばかりだ、乱れはない。赤もシャープに入ってる。服装は少しだけ迷って結局いつもの格好にした。きっと三人もそうだし、練習通りの服装の方が力が出る。

 まるで楽屋に居るように自分の部屋で時間を待った。食べ物が発声の邪魔をしないように、早めに少なめに食べた。声を出したり、イメージを整えたり、やることは思っていたより多い。

 だから、家のドアを開けたらもうそこはステージだ。

 凛は空の喝采を浴びるような気持ちで胸を張って歩く。

 でもやっぱり、紅い鼓動はある。初めての本番は、あの日とは意味が全然違う。私達は準備をした。その自信が、結果に対する不安にもなる。その振れ幅が比べ物にならない。それらを繋ぐ真ん中のところに凛の鼓動が脈を打っている。きっとこれは消すようなものじゃなくて、共に歩くものなのだ。

 凛は既に向いていたけれども、前を向く。

 「駅前広場」が見えてくる。

 セットリストも練りに練った。おじさんと祐里に招待状を送った。毎週末に四人で合わせての練習をした。全員がこれならいけると判断して、今日を設定した。

 スタタン。

 桃子の音だ。

 近付くのを歓迎するように、ベースとギターの音が始まる。

 私は今日、歌姫になる。


「時間ぴったりだね。準備は万端?」

「はい」

 桃子のいつも通りの温度が頼もしい。

「調整にあと五分くらいは掛かるから、マイクのテストをしといて」

「はい」

 ゲンに言われた通りにテストをする。問題はなさそうだ。

「今日もいい声です。ロックでいきましょう」

「はい」

 ポチが急に褒めるので少し笑ってしまった。抜けて初めて、肩の力を認識する。

 セットリストを確認する。「Angel hunt」から始まり、途中でM Cをちょいちょい入れながら「歌姫」で終わる。今の私達の全てがその十曲に入っている。

「私はいいよ」

「俺もオッケー」

「私もです」

 三人が口々に準備の完了を宣言する。私が行きますと言えば始まる。

「ちょっと待って下さい」

「どうしたの?」

 桃子が不思議そうな顔をする。こんだけ時間があれば用意出来るでしょ? と言われたような気がする。

「あの、始まる前に、円陣組んでいいですか?」

 ポチとゲンが顔を見合わせる。

 もちろんこれまでそんなことはしたことがない。

 桃子が顔を綻ばせて、すく、っと立ち上がる。

「いいね、しよう」

 ポチとゲンも頷く。楽器をぶら下げたまま寄って来て、そこに桃子と凛が集まる。

「じゃあ、掛け声は、凛ちゃん」

「はい」

 桃子が右手を中心に出す。そこに、ゲン、ポチが右手を乗せる。凛も、右手を重ねる。

 そこに全てを懸ける約束のような間。

「ファイヤーバタフライ、最初のライヴ、行きます!」

「おう!」

 そこからは何も口から発さずに、所定の位置に就く。

 観客は招待した二人だけ。後は全てが通行人。

 凛は後ろを振り向く。三人のスタンバイを確認して、頷く。

 前を向く。

「ファイヤーバタフライです。まずは『Angel hunt』行きます」

 瞬間に極まる静謐、つんざくクラッシュのカウント。

 爆発。四人が出した結論。ライヴの始まりはこのイメージで行く。

 早いテンポでベースが踊り、その上でギターがリフを刻みつける。

 ただし。

 四小節で一巡するリフは、四回繰り返すその度に、少しずつその色が、激しさから複雑なメロディアスに変化する。

 急激にギターとベースは音をやめ、ドラムだけの時間に一瞬なる。直後、ギターとベースとヴォーカルが全開になる。


『君は言った、それは天使を捕まえるようなことだ

 命を何故、使い切ろうとするのか理解できない


 僕は言った、そうだね、誰もが愚かなことと嗤うだろう

 だとしても、どうしてもこれだけが僕はやりたい


 Angel hunt 手を伸ばせばきっときっと届く

 Angel hunt それとも夢想のままに終わるのか』


 Aメロを二回、すぐにサビ。Aメロではリフが流転しながら歌を支え続ける。ベースは前奏と変わってドラムと共にさらにそのリフを支える役に徹する。つまり、三段の形になる。

 Angel huntの部分には桃子のコーラスが入る。コーラスがそこにあることによって、その後の歌の伸びが強調される。サビは最後を伸ばしたりせずに潔く終わる。そこにギターが返事をするように鳴いて、またリフに戻る。四回繰り返し、またAメロに繋がる。


『誰が言った、天使を捕まえてはいけない

 引き換えになるのはお前自身の命だけ』


 ここでギターソロ。ここまでもリフが発展してゆくということを繰り返して来たのに、それをさらに先に進ませる。先に、先に、それはまるでリフと言う原初の枠の限界を超えようとするゲンの命の煌めきそのもののよう。

 凛は背中で発せられる力を受けながら体を揺する。待っているのだが待っていない。ゲンの演奏も曲の一部であり、歌の一部だ。

 いずれソロの終わり、Bメロが入る。


『全てを命を懸けなくては、この手が届かぬのなら

 いいよ、全部を、くれてやる』


 スネアの連打。


『Angel hunt 手を伸ばせばきっときっと届く

 Angel hunt それとも夢想のままに終わるのか


 Angel hunt 手を伸ばすよきっときっと届く

 Angel hunt 空に見える影もう僕は捉えてる


 Angel hunt chase beyond the rainbow』


 サビを二回の後、後奏に重ねて凛が歌う。最後の最後の伸びまで音を出す。凛の声をくぐり抜けるようにリフがベースがドラムが主勢に立ち、ジャン、と終わる。

 これ以上ない始まり方。凛は演奏の終了と同時にそう思う。

 見れば、人だかりが出来ている。前のときと明らかに違う。興味本位ではなく、凛の、ファイヤーバタフライの歌を聴いてくれていた。その証明のように、拍手が渦になって起きる。おじさんと祐里だけではない。知らない人さっきまで通行人だった人が皆、聴衆になってくれた。

 凛は後ろを振り向く。

 ゲンもポチも桃子もそれぞれにガッツポーズをくれる。その上で、「前、前」とM Cを促される。

「はじめまして、『ファイヤーバタフライ』です。今日の今の曲がこのバンドになって初めてのパブリックデビューなので、確実に誰もがはじめましてです」

 凛は一礼して、周囲を見渡す。

 立っている人々の注目が、私が何を言うのかに集中していて、歌っているときにはない緊張感が出て来る。

「今の曲は『Angel hunt』と言う曲でした。ご挨拶に、です。早速ですが次の曲『君さえ』、行きます。聴いてって下さい」

 桃子のスティックでのカウントから始まる。


 歌う毎に人垣が大きくなる。五曲目の「sing and die」のときには向こう側が見えなくなった。予定ではその後に休憩を挟むことにしていたのだが、凛が水を飲むだけで次の「プラズマ」を演って、そのまま最後の曲まで行くことに変更する。

 凛は疲労を全く感じない。それが興奮と集中によるものだと自分で理解しながら、自分の状態をこのまま使って最後まで走ることにした。

 拍手が厚くなって来る。

 それは最初のヴォーカル募集のときに比べたら信じられないことなのだが、不思議と違和感なく享受することが出来る。きっと、積み重ねたもののせいだ。

 楽しい。

 今を正しく表現する言葉は後で考えよう。

 歌うことが楽しい。

 三人と曲をやることが楽しい。

 それに結果が返ってくることが楽しい。

 間違いなく人生で最高の瞬間が今だ。

 そう感じ取ると途端にライヴがこの後数曲で終わってしまうと言うのがとても寂しくなる。

 でも、そんな気持ちで歌うのは、魂を失っている。ライヴも今日で終わりと言う訳ではない。

 寂寥から目を逸らせばすぐに、楽しさが優勢になり、また集中する。

 「定義」が終わる。あと一曲だ。

「皆さん、聞いて下さり、ありがとうございます。次で最後の曲です。『歌姫』」

 進化した演奏、この場所で乗らない訳がない魂、受け止めてくれる人達。

 史上最高の「歌姫」。



『姫達が並ぶ、歌を歌わせろ

 次こそは私、歌を歌わせろ

 姫達が並ぶ、歌を歌わせろ

 今、ここで、私は歌姫になる』


 最後のサビが終わる。あとは三人の生み出す世界に揺蕩うだけ。

 それもいずれ、予定通りに、終わる。

 ダン。

「ありがとうございました」

 一瞬の静寂の後、嵐のような拍手が沸き起こる。

 凛は深々と頭を下げる。きっと三人も同じことをしているだろう。拍手が鳴り終わるまではこのままでいよう。

 その拍手を切り裂くように声が聞こえる。

「りんひめー!」

 呼び掛ける声。私達に、いや、私に届けようとして発せられた。

 頭を上げて人垣を探す。拍手が止み、私を呼ぶ声だけが届く。

「りんひめー!」

 おじさんだ。きっとそうだ。

「りんひめ!」

「りんひめ!」

「りんひめ!」

 他の人までコールし始める。

 私は、りんひめなのか。背筋を腹を同時に熱いものが昇ってくる感覚。

 私が今、歌によってみんなの中に生まれた力によって、生まれ直そうとしている。

 体に滾る貰う想いの凝集に浸りそうになって、はたと気付く。締めのM Cをしなくてはならない。マイクを構えるが、声はいっこうに止まない。被せて話すしかない。

「『ファイヤーバタフライ』でした。メンバー紹介をさせて頂きます。ギター、ゲン」

 ゲンが右手を高く挙げる。

 拍手がまた起こる。今日の聴衆の度肝を抜いた演奏をした張本人だ。当然だ。

「ベース、ポチ」

 ポチも右手を挙げる。

 が、どよめきが走る。そう言う名前だ。ひと溜め程の間の後に拍手。

「ドラム、桃子」

 両手を挙げて、その後、いつもの、スタタン。

 拍手。

「そして、ヴォーカルの凛、なんですけど、さっきから、『りんひめ』って声が掛かってます」

 全員が次の言葉を待つ。

 うん。決めた。

 凛はそこに立つ一人ひとりを見回す。

 ついに世界を取った時と同じ笑顔。目が澄みながらも激しく強く燃える。

「だから、今日から『りんひめ』って名乗ります」

 言葉にすると、それが確定して、毛が逆立つように体から抜ける。

 今日一番の拍手と「りんひめ!」コール。

「つまり、私はここで歌姫に、そして、「りんひめ」になった、のです。皆さんの力で」

 繰り返される「りんひめ」の声。

 凛は少し落ち着いて、今度は優しく微笑みながら予定していた内容を話す。

「これから三週に渡って土曜日のこの時間帯にここでライヴをします。ホームページにそれ以後のスケジュールなどは載せますので、ここにチラシがあるので是非持って行って下さい。最後に、今日は本当にありがとうございました」

 もう一度深く礼をする。柔らかい拍手が降り注ぐ。

 さあ、三人と話をしたいと思って振り向くと、三人ともが前を向けのジェスチャー。

 振り返ると、何人もがバンドとコンタクトを取りたいと言う顔で近付いて来ていた。その中にはおじさんも居る。

 若いお兄さんが最初に声を掛けて来た。

「すごかったです。これがライヴなんですね。特に、りんひめの歌がよかったです。C Dとかはないんですか?」

「すいません、まだC Dは作ってないんですよ。作ったらホームページでお知らせしますね」

「分かりました。楽しみにしています。チラシ、頂きました」

 お兄さんは去って、次にこれまた若いお姉さん。多分高校生くらいの二人組。

「りんひめさん、凄かったです。知らない世界でした。C Dはないってさっき言ってたの、残念です。チラシ貰って行きます」

 そう言って二人はゲンのところに行く。え、俺? とやってその後は満更でもない様子。

 十人くらいとちょっとずつ話をして、一区切り付いたところでおじさんがやって来た。

「どんだけ進化するんですか。もう、最高ですよ」

「ありがとうございます。来て頂けて嬉しいです」

 おじさんは、に、と笑う。

「『りんひめ』になりましたね。僕は最初から姫だと思っていました」

「と言うより、凛って名前、どうやって知ったんですか?」

「連れの方に、訊きましたよ。呼び掛けたいから、って言ったら教えてくれました」

「なるほど。でも、最高の名前を頂いたと思います」

 凛は輝く笑顔で返す。

「ホームページも出来たことだし、これからも応援させて頂きますよ。では」

 おじさんは颯爽と消える。

 その頃には人垣だったものはまた散り散りになって、空と人とバンド、になる。

 桃子が撤収するよ、と檄を飛ばす。

 そこに、たたた、と祐里が駆け寄って来る。そのまま凛に抱き付く。

「凛、すっごくすっごく、よかったよ。私、興奮しちゃった」

「ありがとう。私、『りんひめ』になったよ」

「うん。ぴったりだと思う。ファイヤーバタフライの『りんひめ』、最高だよ」

 祐里はそれだけ言って、「また連絡してね」と、まるでおじさんのように去る。

 桃子の車にドラムを載せたら、いつもの喫茶店に向かう。直しと練りをするためだ。

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