第17話 公式練習

 凛は日記を綴り始めた。意識的に増やした体験の種類と量を、自分に定着させるためだ。

 映画を観ればその感想を書き、本を読めば想うものを記す。美術館、ライヴ、散歩、何でも体験したものを題材に書いてゆく。体験と関係がなくても考えたこと、思ったこともテーマになる。


『2020年6月12日

 明日はいよいよ歌詞と演奏がそれぞれ練ったものを重ねて、曲にする日。

 曲の魂はイメージは、共有出来ている筈だから、きっと混じり合ってすごいものになる。

 渡した歌詞にも曲が付いてくる予定だから、それも楽しみだ。これってぶっつけでやるんだよね、多分。とは言っても、歌姫だってぶっつけでやってあの盛り上がりだったから、大丈夫だろう。

 歌詞は限界まで直した。歌の練習も散々やった。

 きっと前よりもずっと、ヴォーカルになっている筈だ。ゲンさんの十段階評価で、六以上は欲しい。でも何となく厳しく付けられるような気もする……。


 休み時間に向田邦子の話になったときに「簡潔・省略・余韻」と言う言葉を残していたと聞いた。それは歌詞にも繋がる構えだと思う。でも、それが全てではないとも思う。文字数の限られた詞だからこそ、どこに焦点を当てるのかが重要であるのと同時に、書き込みにも意味があると思う。ただ、こっちが持っているイメージを全部伝えようとすると書き過ぎるから、「簡潔・省略・余韻」くらいにしておくと丁度いいのかも知れない。


 七恵でレバニラ炒めを食べた。レバーってこんななんだ、本当は、って思った。今まで食べたのと全然違った。歌って本当はこんななんだ、って思わせれたらいいな。問題は他のレバニラを食べたくなくなることと、その後にチャーハンを食べると味が薄く感じてしまうことだ。塩分での味の感じ方単独での勝負だからそうなるのであって、歌ならば、色々な味を巡ることが出来る。小説もそうだと思う。映画も。もしかしたら、味覚との勝負と言うのは他のモダリティーに比べて、シンプルで、だからこそ困難なのかも知れない。


 高三の夏以来、恋をしていない。過去の恋で歌詞を書くのもそんなに悪ではないと思うけど、今恋をしたらもっと言葉が溢れ出すような気もする。かと言って、恋愛に割ける時間が殆どない。そんなことしている暇があったら歌いたい、歌詞を書きたい、今はそう思っている。それでいい、いや、それがいい。熱中している私が好きだ。


 凛』


 その日の終わりに自分の名前を記すのは、歌詞にサインが出来ないからかも知れない。

 ペンを置く。伸びをする。

 世界の静かさを感じたら、自分の鼓動がほんの少し急いていることに気付く。

 明日だな。ようやく、だし、もう、でもある。きっとこれからもこんな気持ちに何度もなるのだ。新鮮と幾度も出会えるのは嬉しいけど、もう少し余裕が出るようになりたい。

 凛はストレッチをして布団に潜り込む。


 集合は喫茶店、いつもの。

「みんな、準備は万端?」

 桃子は一人ずつの顔を順に見る。もちろん。大丈夫です。はい。三人共気合の入った顔で応える。

「オーケー」

 桃子はスマホを出して電話を掛ける。それを三人は黙って見ている。

「よし。私達の前の枠、空いてるって。今から行けるけど、どうする?」

 三人はそれぞれに顔を見合わせて頷く。

「分かった。じゃあ店長、よろしくお願いします」

 一同は「音楽広場」に向かう。

 空はもう一絞りしたら雨が降るといった重い灰色をしている。空気は既に十分湿気っていて、冷気を孕んで皮膚にまとわり付く。

 誰も何も喋らない。

 でもそれが気になる訳ではない。凛は凛で言葉を発しない理由がある。それと同じ理由で彼等も黙っているのだ。

 頭の中で曲のおさらいをしている。あの歌はこの場所がどうだ、とかを順次行っている。どれだけ体に付いたとしても、完全ではない。いつかはそうなりたいけど、まだ今は意識しないと間違えるところ、上手く出来ないところがある。しかも、私達はオリジナルの曲をしているのだ。間違えたらそれが正解になってしまう。そんな情けないことにはしたくない。だから練習をする。だから今もイメージを固める手続きを踏む。

 でも、ふと、外から見たら私達は一つの集団として、一つの塊として見られるのだろうな、と頭に浮かぶ。何度かバンドのメンバーになったと感じた場面があったが、今こうやって一緒に歩いている姿と言うのもバンドらしい一カットなのだと思うと、笑みが零れる。

 スタジオはもう目の前だ。


「店長、無理言ってごめんなさいね」

 あの大きな人は店長さんだったようだ。高いたかい声が返って来る。

「いいですよ。うちとしても空き部屋を埋めて貰うのは有り難いことですし、他ならぬ桃子さんの頼みですから」

 前に来たときも知り合いっぽいことを言っていたが、どう言う関係なんだろうか。いずれもっとフランクに雑談とかをするようになったら、そのときには訊いてみよう。今は、まだそのときではない。

「Cスタだって」

「了解」

 どやどやとこの前と同じ部屋に向かう。店長さんも付いて来た。

「マイクの設置の仕方、覚えてますか?」

 凛はちょっと考える。

「概ねなので、私がやるのを見て、訂正して貰ってもいいですか?」

「覚える気満々ですね。もちろんです」

 店長さんはキラキラした笑顔で私の準備を見守ってくれる。結果的には訂正されることなく完遂した。

「バッチリですね。じゃあ、私はこれで」

 そんなやり取りをしている間に他の三人は準備を済ませている。流石にベテランなだけあって、早い、と前回と同じことを思ったことに自分で気付いて、ちょっと笑う。どんだけ私は自分のことで手一杯なんだろう。

 閉じられたドアの圧力で、空間がパッケージされる。

「はい。ファイヤーバタフライ、公式練習第一弾、これより開始するよ」

 桃子はそう言って、スタタンとスネアを叩く。

「万端と言うことだからどの曲からでも行けると思う。さて、これがやりたいってある?」

「『歌姫』から始めたいです」

 ポチが即答する。それでいい? と桃子。ゲンと凛が頷く。

「じゃあ、凛ちゃん、始めて」

「はい。では、まず最初の曲は『歌姫』!」

 カッカッカッカッ。

 おなじみのベースラインとリフが始まる、が。雰囲気が違う。これまでが土っぽい赤だったら、今はもっと、燃える赤だ。ベースの感じが平だったのが音程とリズムに揺れが生まれたこと、それに加えてギターのリフのシャープさが増していること、さらに、ドラムに小さな刻む音のようなものが加わったこと、三者がみんな、同じ方向を向いて音を練って来ている。

「かっこいい」

 マイクを通して漏れ出た感情を言ってしまう。

 ゲンがニヤっとしたのが見えた。

 もう少しリフは続く。

 さあ、私の番だ。


『霹靂のドラム、私を抱き寄せる

 塗り替えられた世界、戻らない前に進むよ


 姫達が並ぶ、歌を歌わせろ

 そこに立つのは私がいい

 姫達が並ぶ、歌を歌わせろ

 なのに私をいらないって言う』


 サビの最後のメロディーは勝手に変えた。次の小節に入ってからも伸ばしたかったから。だから、どうだ、ってゲンを見た。ソロをこれから弾くゲンを見た。さっきと比べ物にならないニヤリ感で、ソロが始まる。

 でもその前に、サビのベース。ボッキンパッキン、跳ねまくり、ポチさん、腰が浮いて、観客と一体に動いているヴィジョンが出た。きっとポチさんも、どうだ、の顔をしている。

 そしてソロ。正直なところ、前までので完成されたソロだと思っていた。私が甘かった。曲は進化の余白を常に持っているのかも知れない。でも、そこに突入出来るのは、それをしようと覚悟して切り込んだ人だけ。ゲンさん。

 変態がさらに変態になっている。ハードな部分とキュユユってソフトにエロい部分の切り替えが瞬時過ぎて行為として何をしているのか追いかけられない。でも音としては伝わって来るから、ギャップが強く、激しくなり、その分、その両極が映えている。堪らない。


『交わるギター・ベース、私を抱き締める

 磨き上げた私、この手に掴んで見せる


 姫達が並ぶ、歌を歌わせろ

 そこに立つのは私がいい

 姫達が並ぶ、歌を歌わせろ

 今、ここが、私のステージ


 姫達が並ぶ、歌を歌わせろ

 次こそは私、歌を歌わせろ

 姫達が並ぶ、歌を歌わせろ

 今、ここで、私は歌姫になる』


 ベースの飛び跳ねが、最後のサビになると疾走に変化する。信じられない快感が私を襲う。どこまでも高く、高く、昇ってゆくような。サビの最後は再びロングトーンにしている。だから、それとリフが重なる。それも気持ちいい。

 そのどれもが桃子のドラムの上に成り立っていることは分かっている。目立たないけど正に縁の下の力持ちだ。

 ああ、これ、スキャッティング、後奏に入れたいな。

 ダン。

 曲が終わる。そうだ。歌詞と歌と演奏が交わって、曲になったのだ。明らかにレベルが違う。これまでと。

 ほかほかしたボディー、それぞれの達成感、そして演奏しながら聞いていたことに対しての気持ち。誰もがそれをお互いに伺うような素振りで、でも、目を合わす度に少しずつ、評価がどうであるかが共有されて、ついに笑い出す。

 ポチが、最初に言葉を発する。

「どうでしたか、新しいベースラインは?」

 凛に訊いていた。どうして自分なのか分からない、だけど、言いたいことは溢れている。

「最高です。前奏の時からシャープネスと言うか、激しさと言うか、があって、土臭かったのが炎のようになってます。何よりも、サビの最後以外のところが跳ねまくっていて、それがもう、ノリが世界を席巻するような気持ちになって、なのに、サビの最後で走る感じになったら、もう、昇天しそうでしたよ」

 ゲンが横から入って来る。

「概ね凛ちゃんと同じだけど、加えるならソロのところで、お前、俺と戦ったよね。その戦いが最高だった」

「そうですね。ソロは主役と脇役ではなくて、主役と主役のつもりでやりました。私も、最高でした」

 三人で桃子の方を見る。

「うん。よかったよ。でも、ポチは跳ねてる時にちょーっとだけもたつく音があったから、そこを直した方がいい。ゲンは、ソロは相当弾き込んでるね、とってもよかった。サビを歌っているときの裏で弾く和音をもう少しシャープに、リフとソロのときと同じテンションでやった方がいい」

 それぞれに返事をする。前回の喫茶店練成のときもそうだったのだが、桃子さんの指摘は細かくても的を射ていて、言われれば確かにそうで、きっと完璧に近付くには必要なものなのだと思う。水の宮はきっと、そう言うことを丁寧に重ねたのだ。だから、私達は桃子さんの言葉をちゃんと咀嚼して飲み込まなければならない。

「桃子さん、私は?」

「歌詞は、前よりずっといい。まさかこの曲も歌詞を変えて来るとは思わなかったから、興奮しちゃうよ。歌の方も前よりずっと良くなった。演奏と絡み合って、もう一歩進化したって思うよ」

「サビの最後を伸ばしたのはどうですか?」

「あれはすごくいいと思う。ソロと重なり、リフと重なり、でハーモニーになってたからね」

「何か改善点はないですか?」

 自分だけ褒められてばかりで不安になる。そう言う不安の形は生まれてから初めてだ。

「多分、ゲンとポチみたいに、ここをこうすれば、ってのはないんだよね。全体のレベルをさらに上げて欲しいとは思うけど、正直私ではそこまでは指摘出来ないんだよ」

「ゲンさん、今の私の歌のレベルはどれくらいですか?」

「六弱くらいかな」

 ほぼ予想通りだ。

「あと三ちょい、私は上手くならなくてはならない。そう言うことですよね」

 桃子は首を振る。

「違うよ、凛ちゃん。上手さだけではないんだよ、必要なのは。例えば感情の乗り方とか色々な要素がある。でもね、凛ちゃん。全部が『燐姫』のレベルで歌えるなら、もう実戦投入可能なレベルに君は居るんだよ」

 凛はゲンをキッと睨めつける。

「だから、世界最高が十、の場合だろ。でも、俺としてはライヴをするまでには七半くらいまではレベルアップして欲しいと思ってるよ」

 ポチが、す、と手を挙げる。

「それを満たすためには、凛さん、曲に感情を乗せましょう。まだ一曲ですが、巧緻性にこだわり過ぎているように思います。確かに、技術は上昇しています。しかし、一番最初に『歌姫』を歌った時のような、自分そのものを乗っけるような歌い方、それが出来れば、ゲン尺度の二くらいは軽く突破出来ます。逆に言うと、それ抜きで六と言うのはものすごいと言うことです。私は歌が技術的に上手いだけの歌い手の歌は嫌いです。最初に凛さんに惚れたのは、魂を乗せる歌い方をしていたからです」

 さっきまでの興奮の分だけ、足元が崩れるような気がした。

 半分は褒められていたのだが、ポチの批判の部分、「嫌いです」に激しく頬を打たれた。

 私はいつの間にか、感情のない、技術ばかりの歌を歌っていたのか。いつからだ。分からない。歌っている期間が長過ぎて分からない。でも、言われたら確かに、あの日私は全てを乗せて歌った。でも、今日は技巧に走っていた、そして生じた快感に身を任せていた。それじゃダメだ。その快感は聞き手が感じるべきもので、つまり、私は上手なカラオケにまた成り下がっていたと言うことなのか。いや、ヴォーカルではある。ヴォーカルだけれども、こころのない歌を、歌っていた。

 悔しい。

 磨いた分だけ、こころが抜けていた。

 そのことに気付けなかった。

 曲の魂とイメージに、そうだよ、私のこころが乗っからないと、ダメなんだよ。

 涙が出る。

 でも、すぐに拭う。

 みんなを見る。

「もう一回、お願いします」

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