第16話 ueno trio
企画展は予定通り、「卒業制作の受賞作展」に向かう。
大した作品はないな、とすらすらと通過していたら突然、固められたように動けなくなった。
絵。
画面の左四分の一が荒々しい緑に、下三分の一が燃え盛る赤で塗り潰されている。残りの範囲に、女性が精緻に描かれているのだが、動きがかなりあり、その女性の下半分、右手が塗り潰しで見えなくなっている。きっと日本人。髪は長い。女性の範囲の色味は暗いのだけど、外の塗り潰しが、特に下の赤が、全体のバランスを激しい、そして明るめのものにしている。女性は何かをしているのだけど、きっと塗り潰しのせい、何かが分からない。
凛は絵から受ける迫力と、押し合いをする。負けたくない。足を踏ん張る。
私と同じものを感じる。
それは、何なんだ。きっとこの絵が伝えようとしていることが、そのまま私がしようとしていることなのだ。それは、今感じるのは、この絵はその存在を見る者、私、に刻み付けようとしている。私は私を守るためにその刻み手から自分を守っている。と言うことは、私も私を相手に刻み付けることをしようとしている者なのか。
凛はもう一度絵の全体を見る。
それは私がして来たことと、しようとしていることと、何も矛盾しない。
認めてもいいだろう。
ヴォーカルが、届かせようとすることはむしろ、存在とセットなものだから。
つまり私は何一つ変わっていない。それなのに何故、この絵と対峙するとこんなに身構えるのか。
それもおかしいことではない。
届けようとすることと、届かれることは別だから。
「そっか」
凛は肩の力を抜く。絵が凛の胸に吸い込まれてゆく。
「私はこの絵が大好きだ」
そう呟いたとき、丁度祐里が何周目かを終えて隣に居た。
「そう言うものに会えて、最高の美術館だね」
「ありがとう、祐里」
「でも、この人、凪さんの絵って、どこかで見たことがあるんだよね」
言われてみるとそうかも知れない。ここまで強烈な絵だ、一度見たら忘れない筈だが。
だが二人とも思い出せない。
そこで今日の美術館は終わりとした。凛が疲れ切ってしまったからだ。
上野公園をたらたらと歩く。まだ日は高い。
「ごめんね祐里、でももう限界なんだ」
「凛は一つひとつと真剣にぶつかるから、疲れるのは仕方ないよ」
「今日は『覗く』と凪さんの絵の二つの大好きに出会えてよかった。本当にありがとう」
上野公園は大道芸が多い。都公認のヘブンアーティストと言うそうだが、質の担保もされているのだろうか。
ズダダダダダダン!
ドラムを激しく叩く音。
へろへろなのに、凛はそっちへ向かおうとする。苦笑いの佑里。
「こんにちは皆さん。ヘブンアーティストじゃありません。ゲリラです。私たちは『ueno trio』です。たまたまここ上野公園で出会ったから、上野トリオ。ちょっと芸人風の名前ですけど、ジャズバンドです」
ジャズかぁ、じゃあいっかな。
そのままそこを通り過ぎようとした凛に向かって男がまくし立てる。
「はい、そこ、ジャズだったらいいやって思いましたね。その気持ち、分かります」
名指しされて、凛は止まってしまった。つい、うっかりだ。
「みんな同じ曲しかしない。ベースとドラムのソロは要らない。ノリがタルい。ソロが下手くそ。そう言うの、実はジャズやってる本人も気付いてます。でも、それでもテンプレートから抜け出せない。それはレベルが低いからです。私達は違います。全曲オリジナル。ベースとドラムのソロはあってもちょびっと。ノリはガンガンアゲアゲ、ソロは見てのお楽しみですが、自分で言いますけど超絶技巧レベルです。さあ、ちょっとでも興味が湧いたなら、見て行ってよ、セニョリータ」
どうしてあの男が私を選んだのかは分からない。偶然だろう。それともこの髪型のせい? いずれにせよ、そこまで言うなら聴いてみよう。ただし、座らせて貰うし、いまいちなら途中でも帰る。
「佑里、付き合ってもらえる?」
「もちろん」
凛は最前列に体育座りをする、一瞬あの巨人を思い出して気持ち悪くなる。
「サンキュー、セニョリータ」
男はそう言うとキーボードの前に立った。
「『world tomorrow』」
高音から滝が落ちるような高速。その中から刺が、ピ、ピ、と出る。それに寸分違わぬ精度でスネアが一致する。そして低音から走り抜ける指、継いで和音の刻み、ここでドラムが本格的に参戦する。一瞬その二つが消えて、ベースが短い、ごく短い、ジングルよりも短い、シャープな声、音というよりも声を弾き込む。そして曲が本格的に始まる。
きっと多分分類的にはジャズなのだけど、テンポもノリも全然違う。スィングなんてしてない。
世界のここだけが彼等の描いたtomorrowでカラフルに満たされている。トリッキーなキーボードが飽きさせない。スリーピースでもここまで複雑な厚い音が出るのだ。
最初は音を追っていた部分があったがいつの間にか全体の塊として捉えている。流れるお風呂で気持ちよく揺蕩っているよう。このままどこに流されるのか分からないけど、流されること自体が最高だから、どこでもいい。
パパパン。
サクッと終わる。凛は夢中で拍手をしている。
「サンキュー、セニョリータ。どうです、全然違うでしょ?」
凛は深く頷く。周りの人もみんな頷いている。キョロッと見ると、人垣がかなり出来ていた。「まりも」では起きなかったことが起きている。ファイヤーバタフライで路上ライブをやったら、今ならこれくらいは出来るのだろうか。きっと出来る。今度の練習のときに、完成したタイミングで路上をやろうと提案してみよう。
「O K、次は『luna after』行ってみよう」
今度は静かなオープニング。二曲目だから最初で掴むことを主眼にしなくていい。そう言う組み方なのだろう。彼等は私がヴォーカルだなんて知らない。ただの客と思っている。それでいいのだけど、私の中の真ん中にあるものが、私はこっちじゃない、そっちだ、って言っている。歌いたい。歌いたい。歌いたい。
タッタッタタッタッタタッタ、と言うリズムがメインで、それも早い、背中を押されるような感じで気持ちが逸ってゆく。綺麗なキーボード、メロディアスではない。ベースがイカれてる。どう考えてもイカれてる演奏。この曲はベースが主役の曲だ。私ならここで歌を始める。ああ、でも歌のない方が正解の曲かも知れない。
ダダッダダッダダッダダッダ。最後だけリズムが変わって終了。
「さっき全否定気味だったのもジャズなら、これもジャズです。幅が広いんですよ、知られてないだけで」
認識を改めた。私はジャズのタルい方は嫌いだけど、激しい方は好きだ。
その後五曲やり、休憩するので中締めで、お捻りはどうしてもしたいという方だけ受け付けます、と言う冗談なのか本気なのかといった感じのことを男は言った。
凛はもう少し聴きたい気持ちもあったがやっぱりフラフラなので、帰ろうと祐里に言う。
「セニョール、素晴らしい演奏をありがとうございます。でも私はフラフラなので帰らなくてはなりません。C Dとかホームページの紙とか、もしあれば欲しいのですが」
「セニョリータ、つれないことを言うね。でも、仕方ない。C Dはあるけど千円だよ。その中には私達へのアクセス方法も書いてある」
「では一つ下さい」
「ありがとう。君とはきっとまた会える気がするよ。願わくばライヴ会場で会いましょう。チャオ」
「チャオ。失礼します」
休憩の間になるべく遠くへ進もう。もし演奏が始まったらきっと足を止めてしまうから。
上野公園の出口から見える景色は喧騒の香りが強く、そこでは休めないと思い家に帰ることにした。
送ってくよ、と祐里が来てくれる。
買ったC Dを鞄に収めようと、中にある別のC Dを出したら、さっきの画家の人の絵だった。
「凛、いつも持ち歩いてるの?」
「うん。何となくお守りみたいな感じで」
水の宮のC D。それを見ると洪さんを思い出して、頑張ろうという気持ちが強くなるから鞄に入れている。
ジャケットの絵が凪さんの絵に間違いなかった。中で確認したら、やはりそうだと書いてある。
水の宮は細部にまで本気が行き渡っているバンドだ。だから凪さんなんだろう。どういう繋がりなのか全然分からないけど、両者が持つ緊張感と情熱が、ぶつかり合って素敵な火花になっている。私達もC Dを作るときにはジャケットにも拘ろう。
「面白いね。素敵なものって、惹かれ合うのかな」
「祐里、多分ちょっと違って、自分がいいと思う相手以外が関わりから抜けて行くんだと思うよ」
「それと惹かれるのは同時成立するよ」
う、と短い論破に顔を顰める凛。
「そうかも。何かちょっとビターに構え過ぎていたかも知れない」
「疲れてるのかもね。昨日のこともあるし。凛がやっていることって、すごく真剣で大変で、ビターなところはたくさんあると思うけど、やっぱりスィートなところもいっぱいあるんだよ」
「そうだね。間違いなくそうだ。楽しいときがいっぱいあるもん」
「ね」
「でもそれを享受するためにも、今日はこの後は、休む」
家までは後少し。言葉少なくなっていたが、祐里が、あ、これだけは、と言って話し始める。
「ジャズ、どう?」
「さっき聞いたのは好き。かなり好き」
「ジャズ嫌いって宣言したけど、ちゃんと再評価のチャンスが来たでしょ?」
「祐里ってすごいなって、思った。私のジャズの評価は、嫌いなタルいのと好きな激しいのに、分化した」
祐里はとっても、太陽の最初の煌めきみたいに、嬉しそうな顔をした。
近くのコンビニでおむすびを買って、食べてから横になったら、あっという間に眠りに落ちた。
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