第15話 都立美術館

 背よりも高い銀の球。穴が上の方に開いていて、頑張れば覗ける。

「リンーー」

 穴の奥からふわふわと歪んだ祐里の声、もう少し頑張ってみたら穴の反対側、地面に近いところから祐里が首を突っ込んで笑っていた。

 都立美術館の入り口の手前にあるオブジェだ。いや、彫刻だ。

「きっとさ、こうやって遊ぶことまでを含めて作品なんだと思う」

 地面に伏していた祐里に駆け寄る凛。掛けられた言葉に起き上がり膝の辺りをはたく祐里。

「こうやって遊んでいる人を含めて、作品なんじゃない?」

「確かに」

「もしかしたらここで見てるのかもよ? アートする人間なのか、それとも通りすがりの鑑賞者か、を」

 凛達の後には誰も同じことをしていない。それを見て凛はニッと笑う。

「私達は合格ってことで、よろしいでしょうか」

「大合格でございます」

 エスカレーターを下って、地下の入り口から入る。人が居なければきっと落ち着いた雰囲気なのだろうけど、うじゃうじゃ居るから駅のホームみたいだ。

「特別展を二枚」

 何の説明もなくチケットを購入する祐里。流石に何か教えてくれてもいいと思うんだけどな。

「すぐに説明するから」

 祐里の超能力その二、私が拗ねていると気付き、何故拗ねているのかも当てる。

 企画展の方に向かいながら祐里の言葉を待つ。

「ここ都立美術館の最大の特徴が、特別展のみではなくて他の企画展をたくさん並行ですることなのね。それを全部合わせて、今日凛に見て貰いたいのは特別展の「現代アート、限界とその向こう側」と、企画展の「天童芸術学院卒業制作、受賞作」の二つ。それ以外は興味に従って見て」

「卒業制作って、もう六月になろうとしているよ」

「だから、その中で賞を取ったものだけがまだ展示されているんだよ」

「分かった。まず見てみる」

 祐里の先導で特別展の列に並ぶ。そんなに長くもないし、進むのも快調。

 最初の部屋。

 凛は絶句した。巨大と言うことがこんなに迫力があるのか。

 部屋の奥側、壁から天井にかけて巨大な顔が斜めに展示してある。凛の立つ位置で丁度目が合う。部屋の左右には半分壁に埋もれた体育座りの大きな脚。その上に手がだらんと垂らされている。

 顔は笑顔で、不気味で生理的に嫌悪感を感じるような男で、この部屋に入ると言うことは彼の空間に触れると言うことで、最初の目線による圧迫感とは違う、操が汚されるような抵抗感を次第に感じる。

 手の爪は薄汚く伸びている。足の爪も。毛も生えている。

 この位置関係だと、奥のドアを開けるとそこには股間が位置することになる。不快な空想に自然に誘われたことが逆に小気味いい。

「凛、入らないの?」

 さっさか進む祐里の言葉を脇に置いて、私は巨人の体育座りとじっくりと対峙しようと思った。しかし、それ以上の感情の動きも、思考の流動も起きない。

「入るよ」

 不愉快な空間だ。抵抗感が作者によって作られたものであり、本当の危機が起きている訳ではないことを頭で理解しながらも、今にも痴漢行為をしそうなおじさんとかに感じるような反吐の出る感触が拭えない。

 部屋の中央は何もない。

 顔や手がギミックで動く訳でもない。

 何の説明もなく、扉だけが股の間にあるだけだ。順路はこの部屋の入り口から出て次の部屋、なので進むのには必要のないドアだ。そしてそれを開こうとする人は居ない。

 違和感を感じないのだろうか。

 それとも感じているけど開けると言う行為にまでは考えが及ばないのか。

 もしくは、勇気が足りない。または予測されるものの卑猥さに、避けられているだけなのか。

 脚を検分している祐里を通過して、ドアの場所まで近づく。

 躊躇せずに、開く。

 すると、ドライアイスなのか、煙がブワーっと出て来た。

 咄嗟に息を止めたらすぐにそれは流れて消える。後ろがざわついている。

 扉の先は小部屋になっていて、横も前もギッチリと本が詰め込まれている。背表紙に題名のない本だ。ノートなのかも知れない。

 中央には、ベビーベッドが置いてあった。

 まるでさっきまでそこに赤ちゃんがいたのかのような、気配の残るベビーベッド。人間のサイズ。

 吐き気がする。

 凛は踵を返して直線で部屋を出る。出口の横の、中が見えない位置の壁に寄り掛かってしゃがむ。

 慌てて追いかけて来た祐里がいったん凛を追い越して、は、と気付いて引き返して来る。

「どうしたの?」

「気持ち悪い」

 喋るのも辛いと言った表情で黙り込む。

 祐里は首を傾げようとしてやめて、凛の横にしゃがむ。

 二人の前を人々が通過してゆく。

 足ばかりが見えるのに、凛と同じような反応をしている者は居ないと言うのは分かる。誰もが平熱のままに作品を通り抜けて、それはまるで作品が存在しないかのよう。誰かにとっての重要な作品が、他の人にとっては取るに足らないものであることは普通のことなので、この作品に対しての反応に温度差があっても何も驚かないけど、皆が皆平熱だと言うのは違和感がある。本当に作品を享受しに来ているのだろうか。

 奥のドアを開ける音もずっとしない。

 でも開けない方が楽に過ごせる。

 赤ちゃんが巨人にさせられた。それは誰かの悪意。だからあんなに不潔で不快な巨人になる。

 それは知らなくてもいい秘密でありながら、作者の意図か想いかを知るには必須の情報。それを鑑賞者に自ら暴かせることも含めて作品。

 そのように作ること自体、そして作品の発想も、作者のこころと感性の歪みを見事に反映している。

 彼に会ったことはないし、話したところでこんなに伝わらないだろう。でも、今私は彼のこころの形がひどく歪で、それが私に迫っていることが限りなく嫌で、気持ち悪くて、不快で、生理的にダメだ。絶対に彼を愛せない自信がある。彼女かも知れないけど。

「この人の作品は二度と見たくない」

 全霊の嫌いだ。ジャズの比ではない。ジャズが頑張れば食べられるピーマンだとしたら、この作者の作品は食べると確実に嘔吐するひじきだ。

「分かった」

 先に祐里が立ち上がって、凛の手を引っ張って起こす。最初少しだけよろけたが、その後は足取りはしっかりとする。

 次の部屋は、大小色々なものがたくさん並んでいた。小学校で使うような椅子を何パターンかに並べたり積んだりして「ベッド」「バベル」「ブリッジ」と銘打っているだけのものや、何を作っているのか想起できない失敗作ではないかと思われる彫刻、デジタルと点描画の合いの子のような絵、など、琴線を掠らないものばかりだ。

 中には悪ノリとしか思えないような作品もあり、それでプロだって言うのだからアートの定義って何なんだろうとしばし首を捻る。

 だからさっと通過した。

「凛って、説明読んでる?」

「読まないよ。何で」

「えらい早いから、観るの」

 特に哲学があって説明を読まない訳ではない。読みたいと言う気持ちになれば読む、それだけだ。

 次の部屋も似たような感じで、出たらエスカレーターで上の階に進む。

 ブースと言えばいいのだろうか。としたらちょっと大きすぎるかも知れない。

 横幅二メートルくらいの縦三メートルくらい、奥行きは十メートル程だろうか。通過出来る形になっていて、上下左右真っ白。つまり、通れる筒だ。

 それが三つ横並びになっている。

 先に入った人が立ったりしゃがんだり、進んだり戻ったりしているのが見えるが何をしているのか分からない。

『一人ずつ、距離を開けて入って下さい』

 立て札にそう書いてあるので、二人別々のブースに入る。

 何か面白いことがあるのだろう、凛はそれを逃すまいと慎重に歩を進めた。

 何も起きない。

 左右を見る。何もない。

 もう少し進む。

「あーーーーーーーー」

 急に声がした。左右両方からだ。咄嗟に見てみても壁には何もない。もう少し進む。

 何となく胸の辺りに気配を感じたので耳をその高さに持ってゆく。

「いーーーーーーーー」

 声が場所で聞こえる、そう言うことだ。

 探す。

「うーーーーーーーー」

「えーーーーーーーー」

 背伸びしたり、しゃがんだりして探せば、探すだけ声が出て来る。

「おーーーーーーーー」

「んーーーーーーーー」

 登場人物の紹介のように順に出て来た声は、その後ランダムになって、もういいかなと思ったところで床に「ゆっくり、まっすぐ」と表記された場所に着く。

 言われた通りにそこを歩く。

「あーーーー」

「いーーーー」

「おーーーー」

「えーーーー」

「んーーーー」

 と言われて出口。

 あいおえん、と口の中で言って、そっか「愛を得ん」ってことだと気付く。ちょっと分かり辛い。

 指向性の高いスピーカーを並べただけのもの。でもちょっと好きだ。

 祐里の方は「上青い」で、空の写真が出口出たところの上に一面にあったらしい。でも一回で十分かな。

 次の部屋はまたアラカルトな感じで、特にこれと言ったものはなかった。

 またエスカレーターに乗って上の階に。最初が地下でそれから上昇志向のままゴールってのはそれ自体がコンセプトのある作りのような気がする。

 『A→B→C』と立て看板。壁にA、B、Cの大きな文字。その壁に張り付く人々。

 Aに並ぶ。三人くらいしか居ないからすぐだ。

 壁に至ると、そこには玄関にある覗き穴があった。

 覗く。

 その中には、何かを覗いている女性とその後ろに他の人。いや、これ私と後ろの祐里達だ。

 つまり、私が覗いている姿を後ろから覗くと言うことだ。要するに後ろからカメラで撮っているだけでしょう。

 凛は期待外れにモチベーションを下げながら、Bを覗く。

 今度は凛一人だけだった。

 どうやってるのだろう。C G? 分からない。けど、Bの穴の中では確かに凛が独りで何かを覗いている。

 ぞわっとする。前言撤回。さっき、人が居たから今のぞわがある。

 Cの穴。凛は一人だ。何かはあるだろうと思って待つ。そうしたら、穴の中の凛に、後ろから男の子がたったとやって来て、覗いている凛を下から覗き上げる。

 穴の中のことなのに、自分の右下に男の子が居るような気配を感じる。しかし、穴を覗きながらその男の子を確認することは出来ない。穴の中の男の子はただじっと凛を見ている。覗いている筈の自分が覗かれている。いや、それは最初からそうだった。私が覗いていたのに私が覗かれていた。それは現実でも同じで、覗いている最中の私を列の後ろの人は覗いているのだ。

 そこまで考えが至り、男の子を確認する。居ない。

 その右下を見ると言う行為を、次の人もするのか、見ていたい。祐里、さあどうする。

 穴を覗いた祐里は暫くして、右下を見た。それまでの間、私はずっとその行為を覗いていた。

「祐里、今のは感服した。覗くが何重奏にもなっていて、コンセプトへの極限までの接近を感じたよ」

「男の子、居そうだったもんね」

「そうじゃなくて、覗くを重ねて重ねて重ねまくってた」

「そうだね。冗談。覗くことについて人生一番考えた」

「これを作った人の名前を知りたい」

 祐里は入り口の近くを指差す。

「あのへんに書いてあったよ」

「サンキュー」

 列を「すいません」と切って、表題のところに辿り着く。

『題:覗く、作:空姫』

 あまりにシンプルで、説明も何もないその表示にキュンとする。スマホにメモを取る。

「祐里、私なんか物凄い疲れた。だからお昼にしない?」

「同感。鑑賞ってパワー使うね」

 連れ立って館内のレストランに向かう。

 凛の中ではまださっきの「覗く」の渦が回っていた。

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