第14話 嫌い

 携帯の音をモゾモゾと掴んで布団の中に引き入れる。

 ピントの合わない目、画面には「祐里」の文字。何だろう、出よう。

「凛、おはよう、今日暇だったら都立美術館に行かない?」

「ん? 今何時?」

 声はほぼ寝ていて、不明瞭だが、祐里にはちゃんと伝わったようだ。

「十時半。さすがに起きてると思ったけど、まだだったか。今日はやっぱりいいや、よく寝てね」

 電話を切る勢いの祐里に慌てて声を飛ばす。

「待って! 起きるよ。起きるから、もうちょっと詳しく聞かせてよ」

「疲れてないの? 大丈夫?」

 凛はベッドの上に座って、自分の体を調べる。何の問題もない。頭も、眠いと言えば眠いけど、疲労でどうこうなっているような状態ではない。

「疲れは食べて寝たから、取れてる」

「分かった。じゃあもう一度言うよ、都立美術館に行こうよ」

「どこにあるの?」

「上野公園の中だから近いよ」

 凛は美術館など子供の頃の遠足以来行ったことがない、だから退屈なイメージしかない。それでも行こうと言うのだから、何かしら理由があるのだろう。

「よく分からないけど、行ってみる」

「じゃあ、三十分後にいつもの喫茶店で集合ね」

「了解」

 電話を置いたら、さっさか用意をする。化粧がないので早い。鞄は歌詞セットが入る奴しか今は使わないし、歯を磨いて、服を着て、髪型を整えるだけで出発出来る。


 自分の歌を口ずさみながら、駅前広場の喫茶店に向かう。十分前なので先に入ることにする。

 コーヒーと、サンドイッチを注文する。食べるとエネルギーが体を巡り、もう起きていたと思っていた頭がさらに覚醒してゆくのが分かる。

 ガラス越しに祐里。軽く手を振り彼女がコーヒーを購入するのを待つ。

「おはよ、凛、昨日はどうだった?」

「おはよう。私は、もう一段階深いところで、バンドのメンバーになったよ」

 祐里は、そっか、と当たり前のように受け止める。それは、ありがたくて、嬉しくて、そして少しだけ不思議だ。でもだからこそ私は前に進める。祐里とバンドの間を行ったり来たりすることで、前に進める。

「祐里、いつもありがとう」

「どうってことないよ」

 優しく軽く、笑い合う。私が国際レベルのヴォーカルになっても、同じように接してくれるだろう。

「私の歌詞は、受け入れられた」

 祐里は頷く。言葉を待っているのが分かる。

「曲をどうやって曲にして行くかの考え方もバンドのメンバーと共有して、採用された」

「それってどうやるの?」

「歌詞スタートだとしても演奏スタートだとしても、その曲のイメージをちゃんと練り上げて、それをバンドのメンバーで共有して、それを元に歌詞も演奏も練り直して、それを繰り返すことで曲の魂を掴んで、かつそれをバンドの全員が、同じものをイメージでいて演奏をする。そう言う努力を細部に渡ってまでやる、そう言う曲の作り方」

 祐里は一単語毎に順に追って、凛が言い終えた後も咀嚼に時間をかけて、たくさんの食べ物を一気に口に入れたときのようにじわじわと凛の言葉を飲み込んでいった。全てが彼女の中に入ってから、口を開く。

「それって普通のように思うけど、実際やるのはめっちゃしんどい、そう言うやり方だよね?」

 凛はニヤリと笑う。正確に伝わっていることが嬉しい。

「そう。普通なんだ。でも、その普通を気が付けばしていない。それぞれの音楽性とか自主性とかを言い訳にして、総体で一つの、合奏をしていることをおざなりにしてしまう。私達がファイヤーバタフライになるまでのやり方ってのはバンドの三人は演奏をして、私が歌詞と歌をする、別々だった。だから、このままで進んだら、乖離がどうしようもないことになってしまうと思ったの。だから敢えてそのことを伝えて、受け入れられて、そう言う努力を一緒に始めたんだ」

「しんどいのは?」

「それはもう、大変だけど、面白いよ。時間も膨大にかかる。結局昨日はイメージを固めるので一日を使って、実際に演奏をするのは二週間後になった。その間に、イメージを育てつつ、それとやりあえる演奏なり歌詞なりを磨くってことになったんだ」

 凛は最高のおもちゃを手に入れた子供の目をしている。それなのに同時に命がけでことに臨むときの輝きがそこに含まれている。大剣豪が好敵手と対峙したときにきっと、同じ目をするだろう。

「じゃあ、本当は今日も歌のことやりたいとか?」

「いつも歌のことはやりたいけど、それ以外の時間も大事だって、祐里が教えてくれたんだよ、チャーハン」

「全部の他の経験が役に立つかは分からないけどね。でも、きっと意味が生まれると思う、今日のも」

 スタスタスタタン。

 窓の向こう側からスネアの音。今日も誰かが駅前広場で演奏をするのだろう。まさかヴォーカル募集とかではないだろうけど、ちょっと興味が惹かれる。

「祐里」

「今日の本命は美術館だからね」

「分かってる」

 手早く食器を下げて、店を出る。小走りで音の元まで行くと、大きなウッドベースを抱える人、簡素なドラム、ヴァイオリン、ギター、サックス。そうだ。バンドにはそれぞれの型があり、一様ではない。その音楽も。

「はじめまして『kanzaki quintet』です。最初の曲は『fly me to the moon』おなじみの奴です」

 凛も聞いたことがあるメロディー。ロックバンドが他の人の曲をやるときにはカヴァーでなければコピーと言うのに、ジャズバンドと言うのはどうして人の曲をするのが当たり前なのだろう。それとも私が知らないだけで新曲を書いている、演奏しているジャズバンドもいるのだろうか。

 曲が入って来ても、エモーションよりも思考が流れる。別に嫌いではないし、むしろ綺麗なメロディーだと思う。ソロもそれはそれで面白いけど、ベースとドラムは余計なんじゃないかな。でも、やっぱりノリと言うのかな、テンポではない、スゥイングのせいなのか、そうだ、呼吸が合わない。私は多分ジャズの人ではない。

 祐里の手を取って、行こう、と引っ張る。

 演奏を邪魔しないくらいの距離まで来て、振り返ると祐里が顔をパンパンにして笑いを堪えていた。

「何、どうしたの?」

 プハァー。……アハハ!

 最初こそ淑やかだったがその後は腹を抱えての大笑い。ポカンと見守るしかない凛。通行人もじろじろ見ている。バンドの目の前でなくて本当によかった。

「いったい何?」

 祐里はちょちょぎれる涙を指で拭いながら、苦しそうに応じる。

「だって、凛が、プフ、演奏聞きながら、すごい顔してるんだもん」

 そうだったのかな。

「それで、手、引っ張って、そこから逃げるみたいに、ね、だから、本当に嫌だったんだなんて、思ったら」

 堪え切れない様子で笑い続ける。それを見ていたら、凛まで笑えて来た。最初は微かに、次第に明瞭に笑いの渦に入ってゆく。二人して、もう何故笑っているのかも分からない感じで、大笑いを繰り返す。

「だって、しょうがない、でしょ、顔に出やすいんだ、もん」

「うん、いいよ、いいんだよ、それが凛、だもん」

 周囲の目などお構いなし。息を切らして、熱病が去るのを待つように、二人はその場所に留まって、笑い続ける。

 いずれ、ふ、と憑いていたものが抜けるように祐里の笑いが収まり、引き摺られるように凛も落ち着く。呼吸を整えた祐里が、凛も自分と同じように抜けたことを確認する。

「行こっか」

 祐里の先導で上野公園に向かう。

「凛は、ジャズじゃないんだね」

「そのよう。あの曲も好きなんだけど、何故かダメなんだよね。呼吸が合わない、ってさっきは思ったよ」

「きっとそれだよ。もし、ファイヤーバタフライであの曲をやったら、全然違うかもよ」

 凛は眉を顰める。

「何か、そう言うのじゃないと思う。もう、曲の魂が呼吸しているから、合わないままだと思う」

 音楽をしていると言うことに対しての敬意はあるし、技量も分かる。でも好きじゃない。いつか見たバンドの「クミン」がそうであったように、表現をしている以上はそう言う合わなさと言うのは避け得ないものなのかも知れない。

「でもさ、凛。何が好きかを知ることも大事だけど、何が嫌いかを知ることも重要だよ」

「うん。好きなものを好きって言うのって、割りかし簡単だけど、嫌いなものを嫌いって言うのって難しい」

「別に相手に伝えなくてもいいと思うけど」

 凛は首を振る。

「そうじゃないんだ。自分の中で『嫌い』のシールを貼ってしまったら、それはもう二度と自分の『好き』には含まれない、何て言うか、二度と再検討されないと思うんだ」

 上野公園の入り口が見える。ここはいつ来ても人が居る。座っていたり、タバコを吸っていたりだけど、皆何を求めてこの場所にたむろしているのだろう。凛はそれでもこの場所を「好き」から「普通」の間に置いていた。

 しばらく景色を見ながら歩く。公園に入ってゆく。

 大きな階段を登っている途中で、祐里が、凛、と覗き込んでくる。

「一度『嫌い』に分類されても、再検討はされるよ。もし凛が『好き』に本当は分類すべきものがそこに入っていたら、必ず再分類するチャンスが来る。だから安心して『嫌い』に入れていいんだよ」

 その理論には根拠がなかった。ないのにも関わらず、それでいいような気がした。もしかしたら私自身が感覚的にそれを知っていたのかも知れないし、事実としてその再検討は行われて来たのかも知れないし、私がそう言って欲しくて、そうであって欲しいと思っているからかも知れない。どうであっても、それを信じてみようかなと思った途端に、信じられる理由が何であるかが分かった。

 祐里が、何かしらの方法の結果、辿り着いた真理として、私に伝えている。だから、根拠もないのに私にその言葉は託宣のように響いて、届いて、そして納得させられるのだ。きっと祐里以外の人から同じことをされてもこうはならないだろう。誰ならぬ祐里だからこそ、私の大切な親友だからこそ。

「分かった。そうする。私はジャズが嫌いだ」

 嫌いだと言い切ると、その反作用なのか、自分の自分達のやっている音楽への愛が深まったような気がする。

「私も、ジャズは、嫌いだ」

 祐里がそれを宣言することに意味があるのかは不明だが、こころ強い感じがする。

 階段を上り切る。台地の広場を進む。

 「嫌い」をすることは「好き」をすることに必要なことなのかも知れない。でも、「好き」がなくて「嫌う」だけは不毛だ。これは分かる。何かを愛している人の批判と、愛を知らない人の批判が別のものだと聞いていて分かるように、「嫌う」責任は「好き」で果たさなくてはならないのだろう。それとも、「好き」があるから初めて「嫌って」もいいのだろうか。

「人間が最初に覚えるのはyesじゃなくてnoなんだって」

 祐里は前を向いたまま。それはnoってのが「嫌う」ことと同じようなものだと言うことだろう。祐里は続ける。

「原初のnoで止まっているのは幼稚な人で、yesを知って一人前になって、その上でのnoってのがもう一段上にあるってことじゃないのかな」

「私が考えるのとは全然違うロジックだけど、noと「嫌う」を受け入れるには必要な考えだと思う」

 そこから二人は黙ったまま広場を突っ切る。

 言葉達が浸透していき、「嫌い」を言うことがいつしか当たり前のことのように感じ始める。「好き」に出会うことがとても尊いことのように思える。

 都立美術館が見えて来た。

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