第11話 水の宮、洪
「こんばんは。『水の宮』ヴォーカルの洪(こう)です。洪水の洪、水と共にって書くの。いいでしょ? 私達は結成して一年丁度の若造バンドです。でも、きっとがっかりさせない。聞いて下さい。『雨の止む音』」
ギターのコード弾きから始まったその途端に、会場の空気が冷たくなった。
優しいドラム。静かなベース。
見えないけど、今外はしとしとの雨が降っている。
洪がマイクスタンドの前で曲に乗って体を揺らしている。長い髪が、印象に侵入してくる。
『雨の止む音で目が覚めた
It’s four o’clock AM
Slight ah sleep after drink with her
In our town
一面の銀の空
滴るsquish
眩しくて、眩しくて、目を瞑る、カーテンを閉める
It’s a kind of a promise, sit in cold イス
続きは夢でsaid to myself
But it’s impossible to sleep』
AメロからBメロ。スロウなテンポがヴォーカルの力量を嫌が応にも聴衆に晒す。
凛に洪のこころが流れ込んで来る。それはたった一人で迎えた朝、きっと何かを喪った、きっと誰も温めてくれない。雨が、止んだ。その音に気付いてしまうくらいにすり減っていて、その音に気付いてしまうくらいに求めていて。
サビが始まる。
『I broke my pen
I try to refuse it
But it only to
Harm my hand
I want my pen
あたしだけの
Fill ah all of my
Empty things』
辛い。きっと私にもあっただろう朝、青い朝。
そこで初めてキーボードが鳴る。それは福音のようでいて、やはり雨だった。短い間奏の後は、またキーボードは黙った。
二番が歌われる。それは声のシャワーではなく、イメージのシャワー。伝わるのは音波ではなくエモーション。凛が現状、理想に置いたものそのものだった。
そして曲は終わる。
晒されたのはヴォーカルの力量ではなく、洪の力量に聴衆が晒された。
会場中から拍手が沸き起こる。
「祐里」
凛は洪を見据えたまま、しっかりといた声で呟く。
「今日、私ここに来てよかった。あの人を超えないといけないんだ」
祐里が黙って頷くのを目の端で捉える。
「どうしよう、練習がしたい」
祐里が凛の腕を掴む。
「ダメ。ちゃんと洪さんのステージを最後まで受け止めて。逃げてはダメ」
「逃げるんじゃないよ。……でも、祐里の言う通り、最後まで見る」
マイクを握る洪。
「では次は二曲続けて。『sky dragon』『オードトワレ』、いきます」
洪はマイクを確と握る。
『ああああああーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー』
強い力で胸を押し続ける、ロングトーン。その下でバンドが演奏を始める。
洪の声はずっと続く。ベースが、コードが順次変化していき、出されている音全体の響きを変化させてゆく。
こんなことが出来るのか。
爪の先程の嫉妬が生まれる。凛はそれを無視する。今は、受け止めていたい。
声は尻すぼみなることなく、ピタリと止む。それを待っていたキーボードが激しく鳴り響く。
『人よどうして空を見る
空には何もないぞ
いや、一つだけあるなら
この声だけが響いてる
Sky dragon どこへゆく
Sky dragon 一人きり
Sky dragon 声だけが
俺の存在の証明』
「Sky dragon」の所にはコーラスも入っている。ファンタジーのようでいて、洪の歌への情熱を間違いなく表現した歌だ。
凛の中のジェラシーが育つ。でも、まだダメ、顔を出さないで。
こう言う歌詞の書き方はして来なかった。要するに比喩だ。比喩はリアルを損ねないのだ。
その後はロングトーンはなく、キーボードの超絶技巧としか言いようのない後奏で終わる。
沸こうとする会場を制止するように、ギターがメロディーを奏でる。
ここはスポットライトがないけど、私達には彼の所だけ光って見えている。
メロディーが終わって余韻が抜ける、ここしかないと言うタイミングでドラムが叩き始める。
一気に爆発するバンド。そのパワーを背中に一身に受けるように洪が笑顔になる。ヴォーカルであり続けるならば、気持ち良くなることは悪ではない。その証拠を突き付けられた。
音は激しいながらもポップで、おちょくるように最初にギターが弾いたメロディーが見え隠れする。
『気付いてよ、ね、気付いてくれないの?
あなただけ、ね、気付いて欲しいのに
この時間を逆算したの
オーデコロン、今が、今が、いちばん
素敵な私の、匂い
気付いてよ、ね、気付いてくれないの?
あなただけ、ね、気付いて欲しいのに
消えないように強すぎないように
オーデコロン、今が、今が、一番
美味しい私の、匂い
縮まらない距離を
求めてやまない想いを
今こそ越えるために
気付いてよ、気付いてよ
私のオーデコロン』
かわいい。気持ち、分かるわー。
憧れとか恋とかとは違う、同調することによるキュンキュンした胸の内。
自分にピンクの花が咲いていることに、は、と気付く凛。完全に飲まれていた。ガーリーでポップでキュートな世界にどっぷり浸かっていた。気付かなければそのままで居れたけど、一瞬でも我に返ると客観的な自分が出てくる。
そっちの方がずっと深刻だった。
三曲が、全部違う。しかも、どれも世界観に連れて行かれた。これは曲と歌と歌詞が一体となった、チャーハンと同じパッケージの力だ。歌詞世界がしっかりと形を成している。これぐらい深掘りでいいんだ。使う単語も変えてきているし、日本語英語、オードトワレはフランス語だし、そう言う自由さ、いや、一見自由さに見えて実のところは「これしかない」を探し当てているだけなのだろう。曲との調和は多分、バンドと相当にやりあった結果だろうけど、それ以前に曲と歌詞の魂を一致させると言うことをやっている筈だ。それは私もしてるから、方向性は間違ってないんだ。
『私のオーデコロン
私のオーデコロン
私のオーデコロン
あなたのオーデコロン』
ジャジャッ。
「次で最後の曲です。『灰に果実』、いきます」
キーボードの単独演奏から始まる。ラルゴと言ってもいいくらいのテンポで、一本の緊張感を夜の空に通したような響き。シンプルな和音をベタ押ししてそれが長い音として篭り始めた瞬間に、ドラムが入り、テンポアップする。ギターが泣く。
『真夜中歩くよ
切り絵と握り千切った雲
つめたい
掌構えて
砂つぶ流れ消える
いつまで
灰に果実
胸が
燃えるよ
いつか
君に』
何の話か全く分からないのに、感情が締め付けれられる。胸じゃない。こころでもない。ぎゅっとされて、圧力で何かが出てくるのではなくて、搾るジュースみたいに、感情の中にあるものがポタポタと落ちて、こころに至る。多分、歌詞だけ見てもこんなこと起きない。バンドだけ聴いてもこんなこと起きない。歌だけ聴いたらちょっと起きるかも知れない。でも、合わさると、起きる。
静かなのに激しい歌は続き、終わる。
会場は静けさの中にあって、洪は待っていた。彼女はこの歌が何を起こすのか理解している。
右端の方から拍手が起こると、それは会場全体に伝播した。
凛も、祐里も手を叩いた。
それを満足げに認める洪がマイクを構えたとき、その拍手はピタリと止んだ。
「みんな、ありがとう。『水の宮』でした。入り口の所の物販で今日の四曲が入ったC Dを売ってるので、もしよかったら買って行って下さい。では、本当に今日はありがとうございました」
手を振ってステージを降りるかと思いきや、洪はメンバーの道具の片付けを手伝って、結局五人一緒にステージを降りた。
「祐里、私物販行く」
「私も欲しい。早く行こう、売り切れちゃうかも」
小走りで、と言ってもすぐそこなのだが、物販に向かう。
二人が既に並んでいたが、それだけで、売り切れを心配する程ではなかったのかも知れない。そもそもここには二十人くらいしか人が居ないのだ。
どうも物販の販売をする人が居ないようで、待ちの時間となってしまった。
後ろではトリのバンドが名乗りを上げている。
「どうする、凛?」
「この余韻を他のバンドで濁す必要もないんじゃないかな。売ってるの買ったら、帰ろう」
小声で話していたら、後ろからドタドタと走ってくる音が聞こえた。
「すいませーん。ちょっと手違いで販売担当に隙間が空いちゃってました。私がやりますので、もう少々お待ちを」
高い背。長い髪。青い染め抜き。
洪その人が物販にやってきた。
凛は祐里と顔を見合わせて、え、え、え、と声を上げる。
「なんか、スターと会うみたいな気持ちなんですけど」
「同じく」
洪は売り子の席につくと、並んでいる人数を数え始めた。
「四人ですね。あの、待たせたお詫びに、もし嫌じゃなかったらサインをケースの裏側にさせてもらおうと思うんですけど、どうですか?」
「サイン欲しいです」
「僕も」
次は凛と祐里の番だ。
「私もサイン欲しいです!」
「私もお願いします!」
「はーい、全員ね。よかった、サイン要らないって言われたらちょっと凹んでたから、嬉しい」
洪の笑顔は、歌い終わった直後だからなのか、凛から見ても輝いていて、魅力的だった。
一人ずつ順にサインをしてもらいながらだから時間がかかる。後ろのバンドは一曲終わってしまった。
なんだかすごいプレゼントみたいな気持ちになって、ソワソワする。
前の人が終わって、挨拶をして横に抜けて、洪の姿が目の前に来る。
不思議だ。さっきまでステージで歌っていた迫力からは想像が出来ないくらい、普通に人だ。でもそれでいて、あの歌を歌った人だと言うことが私の中で目の前の洪さんに、ドキドキさせる。
「どうぞ」
呼ばれて、一歩前に出る。
「今日は聴いてくれて、ありがとう」
「すごかったです。たくさん影響を受けそうです」
「それは嬉しいけど、あなたはあなたで居てね」
「はい」
初恋のような緊張感。
「サインの宛名は、何て入れますか?」
「あ、凛、でお願いします」
「カタカナでもいい?」
凛はちょっと考える。
「いいです。お願いします」
洪は頷くと、ジャケットの裏に「リンちゃんへ、水の宮、ヴォーカル洪」と書いた。
「ありがとうございます」
支払いを済ませて、一礼して去ろうとしたら洪が右手を差し出して来た。
「え」
「握手しよう」
ちょっと嬉しかったから、すぐに手を取った。洪の手は大きくて、ふわふわで、暖かかった。
「お互い、頑張りましょう」
洪が真っ直ぐに見詰めてくるから凛も真っ直ぐに見返す。
「はい!」
「じゃあ、またライヴに来てね」
「はい!」
凛はスターとファンのようにほかほかした気持ちで、そのままライヴハウスを出る。
暫くして祐里が追い駆けて来る。
「凛、なんかたくさん話してたね、洪さんと」
「うん。お互い頑張ろうって」
祐里が違和感を見付けた顔をする。
「何を頑張るの?」
「歌でしょ」
「何で凛がヴォーカルって洪さんが知ってるの?」
言われてみると、確かに、変だ。いや。
「もうちょっと非特異的な頑張るってことなのかも」
「あ、そっかそれでもおかしくはない」
「でも、祐里、私は歌を頑張ろう、って仲間としての激励をしてくれたと思うことにするよ」
頷く祐里、興奮冷めやらぬ凛。
「そうだね。そもそも最初はそう取ったんだもんね」
「うん。それが真実だと思う。私は、歌を頑張る。いつか洪さんと並ぶ。いや超えるよ」
凛はすぐにでも歌のことをしたかったが、祐里に「この後の腹ごしらえまでは休みとさせて頂きます」と強硬に押され、しぶしぶ夕ご飯を食べに行った。
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