第9話 インプット

 よっぽど憔悴しきって見えたのか、出会ってすぐに祐里は決意いっぱいに宣言する。

「凛、今日は私がしっかり食べさせるからね」

「お母さんみたい」

「凛のお母さんからも、よろしくって言われてる」

 住み始めて一月半、この街のたくさんの飲食店で入ったことがあるのは数カ所だけだ。でも、体力をつけるために良さそうなお店はそこかしこにある。いったいどこに連れて行かれるのだろう。

 凛は自分では何も考えないと決め込んで、祐里が歩くのに仔鴨のように付いて行く。

「弱ったときに食べるべきものってのはね、カロリーがあることは必須なんだけど、それだけじゃなくて美味しくなくちゃいけないんだよ」

 そう言いながら繁華街を抜けて路地に入ってゆく。

 街を後にして隠れた場所に向かう、歌のイメージにいいかも知れない、秘密感。

 ずんずん進む祐里。

 こうやって誰かに盲目的に付いてゆくってのも面白いかも。携帯にメモしておこう。

「さ、ここだよ。よかったすいてる」

 それは小汚い中華料理屋、所謂中国料理ではなくて、ラーメンとチャーハンの世界。「七恵」と看板にある。

 十席ほどのカウンターのみで、おじいちゃんとおばあちゃんが二人で切り盛りしているようだ。

「凛、奥行きなよ」

 祐里の顔は自信と期待に満ち溢れている。

「チャーハン。チャーハンが美味しいんだよ。ね、凛、チャーハンだよ」

 いつになく浮かれた様子の祐里に言われるがままに、チャーハンを大盛りで頼む。祐里は普通盛り。

 店に染み込んだ油の香りと、目の前の調理の音、食欲が自分にあったのかどうかさえ怪しくなっていた凛の腹が、ぐー、と鳴る。その音を聴いて、自分が空腹だったことを理解した途端、お腹が空いた実感が強烈に生まれる。もうすぐ完成の料理の匂いによだれが出る。我慢出来なくて、水を飲む。

「はい」

 ぶっきらぼうに置かれたチャーハン。女将さんが持って来てくれるスープ。

「いただきます」

 この言葉がこころから出るときというのは、料理に期待をして体が備えているときだ。

 レンゲで掬って、口に入れる。

 香りが通り、噛む程に味が出る。食感はほどよく軽く、三者が絶妙のバランスを生み出している。

 思わず祐里の顔を見る。きっと大きく目を見開いて、口角が上がってる、私。

「超おいしい」

「でしょ」

 そこからは会話なく、ただただ食べる。

 絶品というものが存在するのだ。もしかしたらこの店の雰囲気、香り、音、見えるもの、そういうもの全部が美味しさを規定しているのかも知れない。だとしても、単品であったとしてもこのチャーハンは滅茶苦茶美味しい。まとまりを持った一つの料理だからなのか、感想を要素に分析することが困難。チャーハンは一つの作品だと思う。

 凛は一瞬食べるのをやめる。が、すぐに食べ始める。

 そうだ。チャーハンも作詞も同じなんだ。そして歌を歌うことも。チャーハンのように出来上がった作品の要素を分析出来なかったとしても、作品としての力はあるのだ。

「凛、歌詞のことは今は忘れようよ」

 祐里に優しく咎められて、初めて自分が考えていたことに気付く。

「祐里、不思議。歌詞から離れたつもりになって、チャーハンに溺れたら、枯れたかと思った私の歌詞のあれこれが、あべこべに湧き出るの」

 ふーん。祐里はスープを飲む。

「インプット不足だったのかもよ」

 凛もチャーハンを飲み込んでから答える。

「そうかなぁ。歌とか聞いてたよ」

「違うよ。歌以外のインプットだよ」

 凛もスープを飲む。これも美味い。

「どうして? 歌作るのに歌以外が必要なの?」

「何言ってるの? 作文書くときには体験が必要じゃない。それと同じで、世界にある全てのものが歌の素になるんじゃないの?」

 凛は二の句が継げない。凛の中にあった「素人考えの常識」の殻が衝撃で割れる音がする。自分の中で起きている現象が理解出来るまで、チャーハンを食べよう。

 祐里も黙ってチャーハンを食べている。スーツの二人組が店に入って来て、女将さんが愛想を振りまいている。

 その二人の注文が決まったと同時に凛の中の状況も整理された。

「祐里。君、天才だと思う。歌の素は、歌だけに非ず。そうだよ。私が行き詰まったのは、歌だけで完結した世界にしようとしていたからなんだよ。全ては歌に通じる。そういうことなんだよね。だから、私はもっとたくさんのことを思い切りやるべきなんだ」

「そう思うよ。陸上するのとは訳が違う。コーラスで部分であるのとも違う。凛は自分の表現をしようとしているんだから、それは凛自身を反映するものだし、凛を素敵にするのはとっても必要なんだと思う」

 凛は深く、何回も頷く。そして祐里の目を見る。

「歌だけじゃなくて、色々な体験をしてゆくこと、きっと何も感じないのでは変わらないけど、きっと私なら多くを感じ取る、そういうことを重ねていくのが大事なんだ」

「とは言っても、しなくていい経験もあるからね」

 そんなのあるのか? 凛は首を傾げる。全てが糧になりそうなのに。

 祐里は、これだから凛は危なっかしい、と呟く。

「例えば、援助交際をするとか、暴力をする、されるとか、お酒でドロドロになって酷い目にあうとか、そういうのは、要らない。要らないからね!」

「おお。全く想定してなかった。でも、そういうのも芸の肥やしになりそうだけど」

「そういう例もあるのはある。でも、望んでするべきことではないと思うし、凛に苦しい思いをしては欲しくないんだよ」

 祐里の吐息にはチャーハンの香りと一緒に、切実さが含まれていた。

「大丈夫だよ。しない。そう言われてみれば思い出すな、恵美子が言ってた話」

「どんなの?」

「芸術家は不幸でなくてはならないか、と言う命題だったんだけど、結論はこう。不幸が芸術を作ることはあっても、芸術をするために不幸になる必要性はない。恵美子はその後にひまわりみたいに笑って、『私は世界一幸福な芸術家になるんだ』って言ってたよ」

 祐里は頷いて、凛の背中を優しく叩く。

「凛も、幸福な芸術家になってね」

「うん。でも今日の午前中は悲劇のヒロインになってた。多分今後も苦しい時はあるんだと思う。でもきっとそれは不幸とは別のものなんだよ」

「そうだね」

「でさ、と言うことが分かったので、今日、この後デートしない? 日曜日のデート、いいでしょ?」

 言葉を受けて、祐里が悪戯っぽく笑う。凛がちょっとだけ驚く。

「いつも凛の好きなところ行くから、今日は私が決める。それでもいい?」

「美味しいところ、ここだけど、に連れて行ってくれることの延長線、ってことだね。よろしくお願いします」

 お腹いっぱい、胸いっぱいになって「七恵」を出る。横目で見たスーツの二人も美味しそうに食べていた。


 その日はラクーアデートとなった。凛は遊園地など普段行かないから、新しい体験ばかりだった。アトラクションに全部乗り、初めて「ズンドゥブ」を食べ、ショッピングをして、アイスクリームを食べて、閉園するまで遊んだ。そこから東京ドームホテルのバーに行く。目玉が飛び出るほど高いカクテルを一杯ずつだけ注文して、夜景をツマミにずっと喋っていた。

 凛は遊びながらも、どんどん入って来るものの結果だろう、歌と歌詞についての多くのことを思った。でも、努めてそのアイデア達と格闘しない。メモだけ取って、あとは放置した。今日は考えない日。出て来てしまったものだけ、書き留める日。それを貫いた。ふと、こう言う時間が歌詞を書きたい欲求を溜めるのかも知れないな、やりたい気持ちに溢れる自分にするには、こうやってインプットをすることが必要なんだ、そう思った。

 だから、家に帰っても約束通り歌詞は書かずに、シャワーを浴びて、寝た。

 月曜日、学校に行くのが久し振りのように感じた。きっと歌詞を書いている間は学校と言うものがただ時間を使うだけの、こなす作業になってしまっていたのだろう。だからなのか、授業が面白かった。昨日も会った祐里が私の顔を見て「かーなーり、ベターになってるね。でも今日もしっかり食べて寝よう」とお母さんを継続していた。

 今日は歌詞についてはやらない。そう決めているからやらない。既に、勃発的に歌詞のことを考えてしまうくらい、欲求は高まって来ている。まるで、最高のパフォーマンスを発揮するために禁欲をしているような感覚だ。

 明日のライヴを見た後から、解禁にする。今から自分がどんな作品を作るのかが楽しみだ。日曜日に泣いていたのが御伽話のように遠くて、でも胸の中にそれは確実にあって、近い。

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