第2話 コピー

「もう一回お願いします」

 凛はバンドの前に立つ。三人共が、獲物を見付けた猫のような顔になった。その顔のまま、ギターが出てくる。

「曲は昨日と同じのでいいですか?」

「同じでお願いします」

「じゃあ、早速始めましょう、歌詞カードは?」

「必要ないです」

「グレイト」

 ドラムがカウントを取り、始める。今日はオーディエンスの数が少し多いように思う。昨日と違って観客の顔が見える。余裕と自信から来ているのだと自分で、分かる。

 ギター。やっぱりカラオケよりずっといい。リズム隊の時間、これもいい。

 そして私が歌う。

 頭に歌詞が入っているのは、リズムとメロディーが入っているのと同じくらい必要なことだ。

 私は昨日は下手くそなカラオケをした、今日は、下手かも知れないヴォーカルをしている。これは決定的な違いだ。

 手拍子は流石に起きないが、座っている人立っている人の中に私の歌を聴いてくれている人、聴衆が発生しているのが分かる。私を見ろ。もっと、もっと。私を聴け。もっと、もっと。

 歌が終わった時に、歌い足りないと思った。拍手が、儀礼的ではない本物の拍手が何人かから私に飛び込んで来る。その人にとって私がこの数分間、本物の主人公になったんだって理解が、波のように襲って、少し涙が出そうになった。

 堪えながら一礼して、振り返る。最初はギターと話すのに、歌った後はベースとやり取りすると言うのも不思議だなと思う。

「今日は連絡先は……?」

「下さい。一晩で滅茶苦茶上手くなっていますね。何をしたのですか?」

「あの後カラオケに行って、ずーっとあの歌を練習しました。声自体には自信があるので、後は曲の読み込みだけじゃないかと思って。あと、こういう場面で歌うこと自体が今日が二回目。生まれて初めての昨日とは場数が違うのだと思います」

「マインドって言うのでしょうか、歌の考え方すら変わったように思いましたが」

 鋭い。そこまで分かるものなのか。

「昨日は何も考えずにカラオケをしていました。でも今日は色んなことが一つの歌に乗っています。昨日のこと、たくさん練習したこと、でもそれ以上に誰のために歌っているのかが、一番違います」

 なるほど、とベースが頷く。横で聴いているギターとドラムもそれぞれに頷いている。

「連絡はここで出会う全員が終わってからさせて貰います」

「はい!」

 待つよ。クリスマスみたいに待つよ。

「明日も来ませんか?」

「え?」

 何のために?

「別の曲、歌ってみませんか? そうですね、リストの中から、ハリネズミの『蝉』なんてどうでしょうか」

 何を言っているのだ。オーディションは一回じゃないのか。その曲は知らないよ。

 凛の顔が凍り付いている。ベースが慌てた素振りで両手を振る。

「あ、別に強制とかじゃないですから、考えてみて下さい」

「分かりました。では」

 踵を返して、アリーナ席よりちょっと後ろの位置に陣取る。全部は流石に見るつもりはないが、もう少し敵の実力を知ってもいいだろう。

「お姉さん」

 若めのおじさんがちょっと向こうからわざわざやって来て、声を掛けて来た。東京はナンパが多いから気を付けなさいと言うお母さんの言葉と、人には礼儀正しくしなきゃダメだよと言うお母さんの言葉が綱引きをして、礼儀が勝つ。

「はい」

「いい声してるね。技術的なことは俺、分かんないんだけど、何て言うのかな、あんなトゲトゲの歌詞なのに、君の歌が胸をズドンと貫いたんだ。きっとこれって君に伝えないといけないと思ったんだ」

 凛は目を瞬かせる。意味が浸透するのに時間がかかる。知らない人の言葉なのに、私の琴線に触れる。

「ありがとうございます。歌をそうやって褒められたのは生まれて初めてです。あの、あの、すっごく嬉しいです」

 おじさんはニカっと笑うと、よかった、言ってよかったよ、と言い残して、じゃ、と去っていった。

 それが東京のせいなのか、歌のせいなのか、おじさんが特殊なのか、分けることは出来ないが、凛は自分が世界に働きかけた結果が帰って来たと理解した。おじさんに伝えた言葉で消費した分があっという間に補われるくらい、こんこんと喜びが湧いて出て来る。

 もう座って居られなかった。

 うずうずに身を任せて街を徘徊していた一昨日までが嘘のように、今彼女を突き動かすのは歌。もっと歌を歌えるようになりたい。もっと歌が上手くなりたい。いや、もっと歌いたい。

 家に帰る。

 動画配信サイトで、「蝉」を見る。歌詞を書き出す。

 エンドレスで「蝉」を流す。

 クラッシックピアノをずっとやっていた恵美子と以前話したことがある。


 帰り道。

「作曲家の意図を汲み取って、弾くのってつまらなくないの?」

「つまる、つまらない以前に、意図を汲み取るのは不可能だよ」

「え?」

 私は驚きのあまり歩くのをやめた。恵美子がそっと止まってくれた。

「じゃあ何をやってるの?」

「だって、楽譜しかないんだよ? その曲についての書簡とかが大量にあれば多少は違うのかも知れないけど、それでも一旦作品として結晶化しちゃったものってね、作者の意図とか無視して一人歩きをするんだ」

 全然分からなかった。

「絵とか小説とかだと、作者と受け手の間に作品があるだけだけど、クラッシックの場合は作者と受け手の間に演奏者が入る。だから、受け手に作者のやりたいことをちゃんと伝えられるように、演奏者は作者の意図を汲むべしって言われるんだけど」

 恵美子は言葉を切った。とても同じ十七歳が吐いている内容とは思えなかった。

「演奏者の立ち位置って、結局作品の最初の受け手なんだよね」

「絵を見る人と同じってこと?」

「そう。絵だって何だって、作品って受け手は限りなく自由に、それこそ作者の意図なんて全然関係なく受け取るじゃん。だから演奏者が作者の意図を汲み取ってると思ってるのって、全然違って、自分がどう受け取っているかを理解してるだけなんだよね」

 遠くが夕映えに、徐々に彼女の姿よりも声だけが記憶に残る。

「それで演奏して、また受け手が好きに解釈する。勝手に感動する。一回渡すだけでも無限に近いのに、それが二回なんて、宇宙のどこに着地するか全く読めない」

「それじゃあ作者は、元ネタって言うのかな、土台って言うのかな、それを提供するだけなの?」

「作品自体の素晴らしさとは別の軸での話だよ。あと、ソリストか指揮者の発想であって、オーケストラのパートをする人とかは多分違う考えをしていると思う」

 確かに、指揮者に従うことが仕事の音楽家は居る。

「じゃあ、恵美子は作者を無視しているの?」

「そんなことはないよ」

「意図を汲んでるの?」

「私は、自分がその曲を作るならどう考え感じ演奏するか、ってのをやってる」

 恵美子が曲を作ることは知っていた。もし私も作る側に立ったら、そう考えるようになるのだろうか。

「もしかしたらこれが一番意図を汲むことになるのかも知れないけど、私は、最初の受け手としての自分と、作曲者気分での自分とで、立体的にその両方を大事にしているよ」

 全然ピンと来なかった。

 でも、夕陽が終わるまでの間、私に響いた彼女の声は、しばらく取れなかった。


 私は、曲をコピーしようとしている。もちろん全てのカラオケがそうなので、これまでもずっとしていた。違うのは、今までは好きで聴いた曲を自然と覚えて歌うようになったのに対して、今日は知らない曲を最初から自分にインストールすると言うこと。

 これは楽譜のないクラッシックピアノだ。

 「蝉」を聴いて私が最初に感じた感情と、「蝉」を自分が書くならどんな思いで書くのか。計らずとも私は演奏者になった。恵美子と同じことをしようとしている。

 「蝉」は、恋の歌だ。

 蝉の人生よろしく、ずっとずっと秘めていた想いが、羽化の後に相手に届けられ、死ぬ。

 歌詞をまとめるとそう言うことになる。

 最初に決めなくてはならないことは、この歌が悲恋なのか成就するのか、だ。

 意図的にであろうけど、歌詞からは分からない。曲調からも分からない。

 聴いた印象は開放的に終わる先にハッピーエンドの未来を想像した。作るなら物語は、成就させたい。

 次に、男か女かも不明。しかし聴いたときにもそうだし、作詞するとしてもそうだから、女視点とする。

 なるほど、行間が歌詞だとかなりあるから、そこを受け手が自由にイメージ出来る訳だ。だからこそ、私はこうイメージしている、と言う具体的なものを決める必要性が生まれる。丁寧にそれをしなくてはならない。

 蝉はどの蝉か。ミンミンゼミがいい。十七年ゼミとかだと長すぎて私なら次の恋に行くから。作者としても長すぎるストーリーではない。

 場所はどこ? 長年の想いだから、大学四年間と言うことにして、場所はキャンパス。東京。日本。これは恣意的でいいだろう。

 季節は? 夏。でも晩夏。聴いたイメージがそうだから。書くとしても同じにするだろう。

 一つひとつ書き並べて行くと、イメージがどんどん明確になってゆく。その反面、イメージに関係のないものが排除されるのも顕著だ。虫眼鏡で見てるような感じ。

 その状態で、「蝉」を聴く。

 もう、作り上げたイメージにしか聴こえない。

 何となく、本当に理由が分からないのだけど、イメージが固定するまで歌ってはいけないような気がして、今まで聴くだけだった。しかし、このイメージなら行けるだろう。

 動画に合わせて、歌ってみる。

 八割のメロディーは入っている。歌詞はまだカードを見ないとダメ。でも、イメージは100%自分のものだ。

 既に覚えていた曲を練習する昨日とやり方を変えたのは、正しいやり方をすればもっとずっと早く正確に、そして歌唱として意味のある形に持っていけるのではないかと考えたからだ。

 このやり方が正しいかは、まだ答えは出ていない。だけど、イメージ先行作戦は手応えがある。

 凛は歌が入るまで家で練習し、その後にカラオケでひたすら歌い続けた。


「来ましたよ」

 ベースはちょっと驚いてから、破顔する。

「ありがとう」

 ギターとドラムも笑顔だ。ギターが訊いてくる。

「早速、やりますか?」

「もちろんです」

 それぞれが定位置に収まって、カウントが始まる。

 前奏の間に、少ない観客に向かって初めて歌以外の声を飛ばす。

「ハリネズミの歌で、『蝉』です」

 何だか昨日よりも三人との繋がりが強くなっているような気がする。

 音の粒が自分に降り注いでいる。

 私はイメージを、自分の作ったイメージを全開にして、歌い出す。

 それは私の声という媒体を通じて、歌声ではなくイメージを伝える行為のようだった。

 生のバンドの気持ちよさ、空が抜けていて祝福されているような感覚、観客のあの人この人に歌が届く実感。

 みんな、蝉の恋を一緒にしている。声の届く限りの空間が一つの色に染まる。

「ありがとうございました」

 終わると、昨日よりは拍手が多い。でもパラパラなのは相変わらず。その中に混じる本物の拍手はあるけど、微量。

 始めたときより少しだけ、通行人が観客に変わっていた。

 自覚的な手応えと目の前で起きてる現象の乖離が不思議でならない。

「いいね」

 今日はギターが話しかけて来た。

「昨日と全然違う」

「ありがとうございます」

 どうして伝わらないのか。届かないのか。いや、届いている人はいる。少しだけど。でも、昨日と今日は別物の出来だった。なのに、リアクションは大きくは変わらない。

 ギターの話を聞き流している風に映ったのか、ギターが凛の顔の前で手を振る。

「聞いてる? すごくよくなってるんだ」

「でもお客さんが全然……」

「そこにはタイムラグがあるから。落ち込まなくていい」

 そうなのかな。でもずっとバンドやってる人が言うなら、そうなのかも知れない。

 頭で考えても、気持ちがスカッと切り替わる訳もなく、凛はしゅんとしたまま立っている。

 ベースが来る。

「では、次は√4の『自由の右手』で如何でしょうか」

 またやるの?

「いえ、もちろん強制じゃないですよ」

「やります。明日、待ってて下さい」

 どこからそれが来たのか分からないけど、自分に怒りの色が含まれていることに声を出して気付く。かと言ってそれを訂正するのも嫌だったので、一礼してその後は他の人の歌を聞かずに帰ろうとした。

 すると、昨日のおじさんがまた居て、呼び止められる。

 自分の苛立ちを関係ない人に見せてはいけない。そう思って歯を食いしばる。

「はい」

「そんなにイライラしちゃダメだよ。せっかく素敵な歌を歌ったんだから。今日もよかったよ」

「ありがとうございます。でも……」

 おじさんは昨日と同じ笑顔をする。

「一晩で明らかに進化してる。それなのに反応が俺くらいしか居ないのが不満なんだろ?」

「不満って訳じゃ」

「いいのいいの。気にするなよ。今は俺しか君の良さに気付いていないだけだから。もっとたくさんの人を惹き付けるにはずっとずっと努力をしなきゃいけないのは確かだけど、君はそうなるから、大丈夫だから」

 根拠が分からない。と言うかこの人がどれくらいロックを理解しているのか音楽を知っているのか分からない。

「あ、こんなおっさんに何が分かるのかって顔してるよ」

 図星こそ顔に出る。繕い切れない。

「ごめんなさい」

「いいのいいの。実際俺は音楽はクソ聴くけど、理論とか分からないし、演奏も出来ない。でもね、アートを理解するのはこころだよ。どんなバックグラウンドがあるとかじゃない。相手のこころを震わせるのがアートで、こころが震えるのがアートを享受するってこと。だから、君はそれを達成したのだから、たった一人にしか届かなかったんじゃなくて、一人にまで届いたことを誇るべきだよ」

 それも二日目、三日目で、だ。

「一人にまで届いた……」

 私は何も出来なかったんじゃなくて、小さくしかし確かに成し遂げていた。

 その証明を、おじさんが、わざわざ言いに来てくれている。それだけ、届いたってことなんだ。

 私がやったことには意味があったんだ。

 急激に自信が回復する。抜けた空気が一気に膨らまされるように、屈み気味になっていた姿勢すら戻る。

「おじさん、ありがとうございます」

「いいってことよ」

 深々と頭を下げた凛を置いて、おじさんはどこかに消えた。


 √4の「自由の右手」はこれまでの二曲と違って恋の歌ではなく、タイトルの通り自由を掴む右手の話であり、自由を表現する右手であり、自由を象徴するものとしての右手の歌だ。先だっての曲といい、選ばれている曲は全てロックで、凛の趣味にフィットしている。

 「自由の右手」を自分にインストールしながら、意地とか根性とか、面白いからチャレンジするとかではない感情が自分とバンドの間に生まれていることを、徐々に見付ける。

「この歌で自由を掴み取るように、あのバンドのヴォーカルの座を自分のものにしたい」

 言葉にした途端に、二つのものが固まった。

 一つは、「自由の右手」のイメージ、もう一歩進んでストーリーが、今の自分と同じだと決まった。

 一つは、自分があのバンドのヴォーカルになりたい、それが今一番の願いだと言うことを理解した。

 現実の想いとシンクロして、曲はさらに自分のものになる。進んでみると、昨日のレベルがまだ低かったことが容易に理解される。

 一度クシャッとなった自分が読み込みと練習と、そのために多くを感じ考えること発見することで立て直される。いける。今度こそいける。

 次の日、バンドとまた対峙する。

「来たね」

 ギターが果し合いのガンマンみたいな顔をして出迎える。

「今度こそ、です」

 ドラムのカウント、まばらな観客、息を吸い込む私。

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