善行

アール

善行

……おこないと書いて善行ぜんこうと読む。


善行と聞いて、読者の諸君はどんな行いを思い浮かべるだろうか。


老人に席を譲る? 


それとも迷子の子供を交番へと連れていくこと?




上記のように、この世の中にはに当てはまる行動パターンが数多く存在する。


だがどうだろう?


もしもその善行が、誰かに採点され、つけられたポイントを通貨として使用することが出来る。


そんな世界があったとしたら、読者の諸君はどう思うだろうか?


嬉しい? それともそんな世界は嫌だろうか?


今から紹介する物語は、そんな世界に生きる一人の変わった男の話である。






















「くそったれめ、面白くも無い世の中だ、全く」


とあるアパートの部屋の片隅にて、主人である一人の男は椅子に腰掛けながら、小声で呟いた。


彼の不満の矛先は、なんといっても腕に取り付けられた、まるで腕時計のような小さな装置であった。


だが、この装置はこの家の為には必要不可欠であり、今や家計を支える重要な役割を担っていた。


善行ポイントを判定し、そして手に入れたポイントを自動でお金へと換金し、口座へと振り込む。


そんな便利な機能がこの小さなには備わっていた。


だが彼は、どうしてもこの装置を好きにはならなかったのだ。


「善行というものは、本来ならば報酬を期待して行う行為ではない。

だが、それでもさも当然のように、困っている人がいたら助ける。

これこそが善行の美学というものではないだろうか。

だが、世界は大きく変わってしまった…………。

この善行ポイント制度が普及してしまったことにより善行の美学は失われ、人々はポイントを狙って善行を行うようになってしまった……」


彼はそう小さな声で呟くと、わかりやすく頭を抱えた。


そんな時、彼の妻がスーパーで買い物をして帰ってきた。


「ただいま。 今日はたくさん買えたわ」

とにこにこして言った。


「……何を買った」

そんな妻を男は不満げに尋ねる。


「化粧品に、お肉に、お魚。 それに貴方の好きなガムもよ」


そう言って妻は部屋にあるもう一つの椅子に腰掛けると、腕についている善行判定器のボタンをパチパチといじり始めた。


「……おい。そのガムも、もしかして善行ポイントで買ったのか?」

そんな妻の様子を眺めながら男は訪ねた。


「もちろんそうよ。

他にも化粧品とお魚は善行ポイントで買えたわ。

ホント、善行ポイントさまさまね。

この制度のおかげで世界の治安も良くなったし、今やこの世界には欠かせない存在よね」


妻は楽しそうに男の問いに答え、そして腕の装置についた小さな画面を男に向かって突き出した。


「ほら! 見てよこれ!

今日は帰り際に道でお金を落とした女の子がいたから助けてきたのよ。

50円分のポイントがもらえたわ。

……途中から割り込んできた知らないおばさんにも少し拾われて、20円分ぐらいのポイントは取られちゃったけれどね」


嬉々として語る妻の様子を見て、男は心の中で

……勘弁してくれ、と呟いた。


今や家計を支える重要なものの一つとなったポイントを獲得できるよう、人々は道に落ちている小銭を拾う為に争うかの如く、善行を我先にと必死になる、そんな世の中である。


治安が良くなっただと? ポイント制度で良くなる治安など、最早ない方がマシだろうよ。


……まるで人間のドス黒く醜い部分が、善行を行うという美徳にまで侵食してきたかのようだ。


男は不意にこみ上げる吐き気を必死に耐えることに精一杯だった。


気分転換する為、男はアパートのドアから出て行った。


その際、妻から

「困っている人がいたら、他の見つけた人に負けないように迅速に、素早く助けてね。

善行ポイントをしっかり稼いできてよ」

と言われたときに、殺意が胸の奥でメラメラと湧き起こったのは内緒の話だ。




「やはり森林は素晴らしいな。

空気がうまい。まるで心が洗われるかのようだ」


雄大な自然が溢れる森林公園を歩きながら男はそう独り言を呟いた。


いつだって疲れたときはここを訪れてしまう。


「この場所がもし近くになかったのなら、俺は今頃発狂してしまっているかもしれないな……」


そんな事を思いながら男は目一杯深呼吸をし、肺の中に新鮮な空気をたっぷりと溜め込む。


誰にも邪魔をされない、至福のひと時であった。


ところがだ。


ふと、前方を見ると、何やらベンチに腰掛ける一つの人影が見えた。


歩いて近づくにつれ、その人影の正体は太った中年の男だと気づくことができた。


何か不幸なことがあったのか、涙を流しながら項垂れて座っている。


そんな深刻な様子を見て、

「まさかそのうち自殺でもするんじゃないだろうか」と心配になった男は、慌てて声をかけることにした。


「おい、どうかしたのか?

涙を流して項垂れて。 タダごとじゃなさそうだ」


「え?」


声をかけられた太った男は、まさかこの場所に人がいたとはという風に驚いた顔を見せたが、すぐにハンカチで顔についた涙の滴を拭った。


「こ、これはお見苦しいところをお見せ致しました。私、アールと申します。

まさか人が通るとは思わなかったもので……」


「いや、いいんだ。

それよりアールさん、と言ったか?

一体何があったんだ? 見ず知らずの俺で良ければ相談に乗るぞ?」


そう声をかけた男の優しさに少し心を開いたのか、アールはポツリポツリと今の自分の置かれた不幸な現状を静かに語り始めた。


「じ、実は私が経営しているビジネスが今、儲からなくなってしまって倒産寸前なのです。

生活もすっかり苦しくなってしまい、妻にも逃げられてしまいました。

それで知り合いに頭を下げ、どうにかお金を貸してもらおうとしたのですが、

100

と断られてしまったのです。

もう私の人生には希望がありません。

だからこうなったら、もう死んでやろうと……」


そう言うとアールは、何やらポケットから一錠の黒い錠剤を取り出すと、手のひらに置いた。


その錠剤を見た途端、薬剤師の資格を持つ男の全身は震え上がった。


なぜならその錠剤は主に安楽死の為に使用される、確実に服用した者を死に至らせる毒薬だったからだ。


「ま、待て! 早まるんじゃない!」


慌てて男は薬を取り上げると、思い切りアールの頬に向かって強いビンタをくらわせた。


「……もう、生きていたって仕方がないんです!

死なせて下さいよ!」


赤く染め上がった頬を押さえながら尻餅をついたアールは男の方に対して涙で滲んだ瞳を向けた。


そんなアールに対して、男は心から発せられた熱い叫びをぶつける。


「バカやろう!そんな簡単に死のうとするな!

死ぬこと以上に苦しい事なんて、この世の中そうそう無いはずだ! 生きろ!

そして出て行った妻を後悔させるぐらい、最高の人生を歩んでやれ!」


その男の言葉は、しっかりとアールの心へと深く突き刺さったようだった。


アールの目から大粒の涙が溢れ出した。


「うう…………、そんな言葉をかけてくれた人は友人にもいなかった。

見ず知らずの貴方だけだ…………。

目が覚めました。 私は生きます!生きて生きて生き抜いて、アイツを後悔させてやりますよ!」


「うむ、その意気だ!」


……確かにこの世の中は腐っている

だがそれでも生きる理由を見失ってはダメなんだ。

アールが立ち直ってくれて、本当に良かった。


男はこの短時間で芽生えた友情と証とでも言うように、アールと熱い握手を交わした。


まるで自分がヒーローになったかのような、そんな誇らしい気持ちが男の胸の中に生まれ、自然と顔からも笑みが溢れた。


男にとって、今この瞬間は人生最高の瞬間だった。








ところがだ。


そんな幸せな時間を打ち砕くかのように、その声は彼の腕から聞こえてきた。


「5000万円分の善行ポイントが貴方の口座に入金されました。

繰り返します。5000万円分の善行ポイントが貴方の口座に入金されました……」


男の瞳から、絶望の涙がこぼれ落ちた。


「……そうだよ、そんなんだよ。

すっかり忘れていた。

この世の中は腐っていた。

今それが証明された瞬間だったな」


そう男は静かに呟くと呆気にとられているアールを尻目に、先程奪い取った一粒の錠剤を思い切り飲み干した。


すぐに体は痙攣しだし、男は地面へと崩れた。


「ちょ、ちょっと!何してるんですか!?

僕の自殺を止めてくれた人が、一体どうして……」


倒れてしまった男に向かって、アールは泣き出しながら訪ねた。


すると彼は、痙攣した唇を必死に動かしながらアールに向かって、遺言にもなる最後の言葉を伝えた。


「……フフフ、本望さ。

胸がスカッとした。

何から何まですっかり腐ったこの世の中に、俺はこれで1発食らわせることが出来たのだからな……」


そう言うと、男は息を引き取った。


と、その時。


感情のこもっていない、小さなその声は男の腕からゆっくり、そしてはっきりと流れ始めた。


「1000万円分の善行ポイントが貴方の口座に入金されました。

繰り返します。1000万円分の善行ポイントが貴方の口座に入金されました…………」


もしも、男があの世から今の声を耳にしていたのなら、きっと目を丸くした事だろう。




















こうしてアールの経営していた葬儀屋は自殺によって生まれた死体で、なんとか倒産の危機を逃れたのであった。

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