ep7.『欠落したコンパス』

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指針が揺れ動き、振揺している。指し示す方向は一概性のない情報でただただ止まることなく揺れている。


正解を導き出すことができない方程式のようで、一向に答えがわからない。


メトロノームのようにチクタクと針は動く。誰かの心象を表すが如く。一つの指針が延々と、延々と動き続ける。



は今もずっと動き続けている






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3月12日金曜日。午前11:30分丁度。卒業式前日。


お昼間近ということもあり、現在、4時間目の授業である国語は自然と緩んでいた。


机の上には、小学校3年生の時から使っている黒い筆箱に森鴎外の「舞姫」のページを開いた教科書と一緒に参考書と開かれたノートが置かれている。


それでいて先生の死角から机の下に右手で持たれたシェイクスピアの「オセロー」に目を通していて教科書なんかには目も向けていなかった。


「豊太郎にとって母とエリスと相沢謙吉はどのような存在でしたか?」


先生が質問を投げかけてくる。それに対してこの教室のどこからか声が上がる。


「エリスは愛おしく感じるだけの存在で、相沢は昔の自分?みたいな存在で母は…恐れている存在…だと思います」


「二つはそうだね…でも、お母さんについては難しいね」


「先生なんでですかー?」


教室の一角から男の声が響く。


「豊太郎はお母さんに一人で育てられて、最近でいう教育ママだったから神童なんて呼ばれたよね?だから、ある種感謝もしてると私は思うの。まぁでも、このあと母の手紙と死について縛られるんだけどね、あはは…因みにテストには出ないから安心してね」


たしかに高校のテストでは出ないだろうけど…大学なら出そうな気がする。


舞姫の母の死と手紙についての見解はたしかに難しいと思う。けれども、豊太郎の出世が母にとっては一番だったのだから。けれど聞いてみてはどうだ。エリスと付き合い、免官になる。母にとってこれは恥辱以外のなんでもないだろう。


だから自殺した。こんな説が一番濃厚だろう。


明確に作中に書かれていないのだから仕方がない。教科書をペラペラとめくっていく。手元の読んでいたオセローは偶然にもオセローが妻デズデモーナを殺してしまうシーンだった。






♦︎


卒業式の前日ということあり、学校が終わったら先輩に会いにいくと言う者が大半でそれ以外の人はすぐに帰宅していた。


「先輩との関係なんて持ってない俺には関係ないしな…」


校舎裏に男女ともにして、見えなくなる背中を見てそう呟いた。おそらく、告白。

結果は良いにしろ、悪いにしろ、関係が変わる瞬間が告白だ。いい方向に進むのかはたまた悪い方向に進むのか…その結末はすぐ近くの未来に転がっている。


今日は、後輩が先輩と話をするチャンスだ。卒業式が終わった後の校門前でも話す機会はあるがそれはもう後はないと言う寂しい最後の会話。


会うは別れの始め。ことわざにもある通りであったらいつしか別れも来ると言う意味のことわざだ。


「はーい。いいよ。一本先行!」「オーライオーライ、おっしゃ、ナイス!」

「ヘディングヘディング!パス回して!違う!あーくそっ。ドンマイドンマイ!」


それでも部活の声援は止まらない。先輩が託して出て行った物を胸に抱えてそれを声に出す。そうやって受け継がれていくんだ。吹奏楽部の色とりどりの音が聞こえてくる。


「パーカッションの音がよく聞こえてくるなぁ…耳をよく傾ければトロンボーンとかも微かだけど聞こえる」


バレー部だろうか、いち!、に、さん!とテンポよくスパイクを打つスパンという音が聞こえる。学校の周りを陸上部が声を上げて懸命に走っている。汗を垂らして重い足を動かし、荒い呼吸を繰り返して。


水泳部はプールに入れないからか、肉体強化に専念している。バドミントン部や、バスケ部は何をやっているんだろうか…外からだと室内の体育館は全く覗けない。


ドリブルをつく音は、弾みよく聴こえてくる。



今、この瞬間がなんだろうなぁ…



部活もやらず、恋愛もやらず、友達も作らずこんな美しい空間に相応しくない自分がいていいのだろうか…いや、ダメだろう。だからこそ、逃げるようにして校舎に背を向けて歩き出した。






♦︎


郷愁が漂う茜色に染まった空。さっきまで群青色に染まっていたのが嘘みたいだ。

そんな空の下、ぼやけた視界でいつも通り電車に揺られていた。そう、いつも通りのはずだった。


「おい、外国人がなんで日本にいるんだよ!ここは日本だぞ」


突如上げられた怒声に、うわっと驚いた。

瞬きを繰り返して視界を取り戻して、視界に入った光景は高齢者が静かに座っていた外国人に対して絡んでいる光景だった。


絡まれている外人さんはいい判断で無視を貫き通している。


そんな態度に癪に触ったのだろうか。高齢者の方が外国人に身を寄せて胸ぐらを掴もうとしたところでもう既に、俺は動いていた。


「やめてください!ここは電車の中ですよ?しかも、静かにしていた外国人に対していきなり何をしてるんですか?あなたのその障害じみた行動のせいで日本の評価が落ちていくのがわからないんです?日本の恥ですよ…本当に…」


「うるせーよガキが!生半可な口を聞いてんじゃねぇよ!」


「明らかにあなたが悪かったので止めに入りました。だって、胸ぐらを掴みに行こうとしたのをこの目ではっきり見たので」


吐き気がする…。相手である高齢者の顔をずっと見ていると、胸が苦しくなってきて恐怖が体を支配しようとしてくる。


それでも、必死に我慢していた外国人の方のためにもう一つだけいうことにした。


「外国人だからなんだっていうんですか?同じ人間じゃないですか。その人が何もしてないことは後から乗ってきた僕が証明できます。それとは別で、あなたはその方よりも後から乗ってきましたよね?自分の価値観でいちいち文句言ってんじゃねぇよ!」


気がついたら、怒鳴り上げていた。高齢者はチッとだけ言って別車両に移って行った。そんな俺を絡まれていた外人さんは申し訳なさそうに頭を下げてこう言った。


「ありが、とう。たいへ、ん。助かりました」


たでたどしい日本語で笑ってそう言ってくれる外人さんを見て何故だか、胸がとても


周りに「お騒がせして申し訳ありませんでした。と頭を下げて自分が座っていた座席にまた落ち着いて座った。それでも、腹の中のモヤモヤとした感情はうまく解消できなかった。


「頭が痛い…」


それから家に着くまでずっと、俯いたままだった。

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