【チョコレート手形】


  ── 8番目の扉へようこそ ──



 以前、仕事用の部屋を探していた時の体験です。


 実家の最寄り駅周辺で物件を見て回っていた私は、1人仕事なためワンルームで十分と考え不動産屋を梯子し幾つか内見をしていたのですが、その中に駅1分という立地のマンションがありました。


 家賃は予算を少しオーバーしていましたが、ただ、ワンルームではなく2DKで風呂場とトイレが別の、どちらかといえばファミリータイプに近い感じでしたのでお得感があり、早速そこに案内をしてもらうと、(ああ、ここ確か・・・・)と覚えのある場所でした。


「ここって以前、普通の民家でしたよね? 塀に囲まれてて広い庭の──」

 5階建てのマンションを見上げなから言うと20代とおぼしき案内の社員が「あ、そのようですね」と軽い返答をし、前のことはよく知らない様子でした。


「お部屋はあそこです」

 指を指された先は東南の角部屋で、日当たりはかなり良さそうです。

「中、ご案内します」

 そう言うと社員はマンション正面向かって右側の通路に進んで行きました。


「珍しいですね、正面に玄関がないというのは」

「そうですね、道路側に普通はありますもんね」

「ですよね・・・・」


 玄関エントランスは一般的には道路に面した正面側にあるものですが、そのマンションの場合はぐるっと回った真裏に位置してありました。

 右横の通路を抜け左折するとそこには、正面とは別の場所かと錯覚をするほどに雰囲気が違う、やけに暗く湿っぽい陰気な空間が広がっており──


「ここ、夜は照明あります? 常夜灯というか」

 隣の敷地との間はコンクリートの高い塀で仕切られており、日暮れ後にライトがなければ真っ暗になってしまうことは容易に想像がつきました。

「えーと・・・・外にはないですがエントランス内は夜でも点いてますから」

「はあ・・・・」

 微妙にずれた感の返答に不安気味になりつつエントランスに入った瞬間、ぞわり、とする感覚が私の背中に走りました。

 

(何かちょっと・・・・)


 ハッキリどうとは言えないものの、その感覚は"良くない何か"であることは確かでした。


「はい、こちらです!」


 最上階でエレベーターから出ると該当の部屋は目の前でした。

 ドアを開けてもらい中に入ると、真っ直ぐ伸びる廊下の突き当たりの部屋にまずは案内されました。


 角部屋なだけあり、昼下がりの室内は明るく、フローリングも綺麗です。

 次に横の部屋を見、続いているキッチンを見せてもらったあと、社員が「ベランダも広いですよ」と言い、スリッパのままでいいとのことで私は外に出てみました。


 が、何かおかしい──


「平ら、ですよね?」

 自分でも変なことを口走った自覚はありましたが、思わずそう言いたくなるほどそのベランダが手すり側に向けて傾いているように私には感じられたのです。

「え? あ、はい、平らです」

 ちょっと面食らったような表情で社員はそう答えました。


 けれど私にはどうしても手すり側の方が下がっているように感じられ、とりあえずゆっくり手すりに近づき下を覗いてみたところ──

 瞬間、何故かふいにぼんやりとした気分に陥り、同時にとんでもない言葉が脳裏に浮かびました。


『落ちちゃおうかな~』

『落ちたら気持ちいいだろうな~』


 あとで思い出しても、自分自身、どうしてそんな言葉が浮かんだのかまったく分かりません。

 ただ、あのベランダに長居をすると、たぶん間違いなく落ちたくなる──という異常な心理状態の感覚だけは今も生々しく残っています。


 が、ここは嫌だ、を結果的に決定づけたのは、次に案内された場所のベランダ以上のリアルな異様さでした。


「こちらが浴室です」


 ガラスの折り畳み式ドアを開け、どうぞ、と見せてくれたその中は浴槽もまだ新しく見え、綺麗にクリーニングしてあるようでした。

 脱衣場に出てドアを閉め、ふと左側に目をやると洗濯機スペースがあります。

(?!)

「10キロの洗濯機も余裕で置けますよ。あ、ちょっと失礼」

「はい・・・・」

 ケータイが鳴り中座を詫びる社員に上の空で生返事をした私の目は《あるもの》に釘付けになっていました。


 子供の手形──


 床から3,40センチほど上の位置にペタペタペタと、小さな手形が3つ付いています。

 壁のカラーが淡いパステルグリーンなため一見では分かりませんが、よく見るとチョコレートをじかに持っていてベタついた手で付けたような生々しさがあります。


(気持ち悪い・・・・)


 他は綺麗にクリーニングされているのに、何故これだけそのままにしてあるんだろう──そんな疑問が沸きました。

 前の住人の子供のいたずら? にしては場所が変です。

 洗濯機を置いてある時は隠れている位置なのにどうやって付けたのか・・・・。

 そして、他には? と見回してみた時、「わ・・・・」と小さく声が出ました。


 自分で閉めた風呂場のドア──そのガラスにベットリ! 

 小さな手形が3つ、ありました。

 浴室側に付いているようで、ガラスのせいか壁のそれよりもベタベタ感が強烈で、やはり溶けたチョコレートのような色でベットリしています。

 掃除に入った業者が気付かないはずがありません。


(駄目だ、ここ。無理!)


 そう思い廊下に出ると社員は何かトラブルでもあったのか、部屋の方でまだ通話中です。

 その様子を見ながら私は、何故か手形のことは口に出さない方がいい気がし、ただ1点だけ、確認的に尋ねてみることにしました。


「前の住人はファミリーだったんですか?」

「あ、新婚のご夫婦です。転勤とかで半年くらいで退出されました」

「新婚さん、ですか。じゃ、お子さんいなかったんですね? だから綺麗なんですね」

「そうですね。まあまだ築年数も3年くらいですし。いいですよ、ここは」


(子供はいなかった?!)


 自信ありげな笑みを向ける社員に曖昧にうなずきながら、私は一刻も早く出たい気持ちに駆られました。


「どうですか? 決めますか?」

 期待の口調で聞く社員に、とりあえず出るために、「・・・・あの、この辺りにワンルームはないですか? あればそちらも見たいんですが」と尋ねると、「ワンルーム・・・・あ、ありますね。近いです。すぐ行きますか?」とのことでしたので「はい」と即答しました。


 そして部屋を出て社員がドアを閉める寸前──見てしまいました。

 廊下に立つ、何だか分からないモノ。

 濃い灰色のヒトガタの何か──

 まるで私たちを見送るかのように立っている《何か》。


 それはたぶん私にしか見えないモノだったのでしょう。

 平然としている社員の様子に、見えない分からない感じない、ということの利点を知らしめられた気がしました。


 それから後日、私はあのマンションが建つ前の民家についてを知ることになりました。

 そのマンションの斜め前に中華料理の店があり、母と食べに行った際、そこの店主に何気なく尋ねてみたのです。 

「前のマンションの所、広い民家でしたよね? 今、マンションになってるんですね」と。

 すると店主が言ったのです。

「あー、あの家ね、ヤ◯ザだったんだよね。抗争だか何だかで押し入った奴に親分が殺されてしばらく空き家だったけど、業者が高く買ったみたいだね」

「え、ヤ◯ザ?! あの家で殺されたんですか?!」

「うん、そう。大騒ぎだったよ、あの時は」

 驚きました。

 そんな物騒な因縁があったとは──


 そして店を出て、母に、「あそこ、あの角部屋。すごい気持ち悪かった」と上を指差すと、「あー・・・・何だか分からないけど汚いモノがいるみたいね。あの部屋だけじゃなくて」といかにも嫌そうな表情で言い、「お金もらっても住みたくないわ」と首を振りました。


 汚いモノ─悪霊や邪気などを母は総じてこう呼びます。

 久々に聞いたその言葉と、最後に廊下で見たあの灰色の得体の知れないヒトガタのモノとが私の中で一致し、あらためて寒気が走りました。


 と同時に、ベランダで脳裏に浮かんだあの言葉が蘇りました。


『落ちちゃおうかな~』

『落ちたら気持ちいいだろうな~』


 ひょっとしたら以前あの部屋の住人の中に、アレに誘導され実際に落ちた人もいたんじゃないか──

 考えるとゾッとします。


 ただ、それを確かめるべく、事故物件サイトの[大◯てる]で検索をしてみる気にはなれませんが・・・・。


 とりあえず、犠牲者がいないこと、そしてこれから出ないこと、を祈るばかりです。




 それでは、また次の扉でお会いしましょう。

 

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