二週目

「そろそろ外とか歩いてみようか」


 政俊にそう言うのは、この個人病院の中年女医だ。


「マサ、大丈夫なの?」


 夏愛が本気で心配そうに政俊の顔を見る。


「この島に流されてきたときはどうなることかと思ったけど、外傷は無いし、体の痛みはないんでしょ?食欲も戻ってきてるし」


 先生がシャーッとカーテンを開ける。


「キミに必要なのは休養だったのよ。あんまり寝てると、ホントに起きられなくなっちゃうから。リハビリがてら散歩してきたら。天気もいいし」


 政俊が来てから、この島は毎日天気がいい。日差しも強く、明らかに南国である。


「夏愛も心配なら、二人で散歩してくれば」


 それを聞くと、夏愛は本当にうれしそうな笑顔を見せた。


「いいね。行こう。マサ。散歩」


 夏愛が政俊の手を握って外へ連れ出した。女子の方から手を握ってくれた。政俊にとってはじめての経験であった。


 二人は手をつないで浜を歩いた。夏愛の腰まであるような長い黒髪が風でよく揺れる。政俊が打ち上げられた浜。どこまでも続くように見える白い砂浜。雲ひとつ無い真っ青な青空と、夏愛が時々食べさせてくれるフルーツの味とともに、ここはこの世の楽園なんじゃないかと思った。


 いや、そもそもここはこの世ではなく、天国なのかもしれない。だが、夏愛の手から伝わる感触が、これは現実なのだと明瞭に、明瞭につたえてくれていた。

 夏愛は政俊より頭ひとつ分くらい身長が低いので、ふざけて揺れながら歩くと、すぐに夏愛の頭が政俊の肩にあたる。そのことでも、政俊は生きているという実感を得た。


「マサ。そういえば、マサはどこから来たの」


 先生にも細かいことはほとんど話してない。


「東京だよ。船に乗ってたら、事故で海に放り出されて、この島へ流されてきたみたい」


 嘘である。

 高校を出てすぐ働き出した倉井政俊は、最初の会社で無能と罵られ退職に追い込まれて依頼、どこの職場へ行っても上手く働くことができなかった。原因のほとんどは、他の社員たちと上手くコミュニケーションがとれなかったことと、仕事覚えの悪さだ。努力して仕事を覚えようにも、先輩社員たちとのやりとりに常に齟齬が生じて相手を怒らせてしまい、針のむしろに耐えられずに辞めたこともある。二十代はそんなことばかりだった。

 二十代最後の歳、何もできない自分、誰の役にもたてない自分のような人間は生きていてもしょうがないと考えることが増えていった。

 そして二十九歳最後の日、東京からどこか遠くの島へ行くフェリーに乗り込み、誰かに愛される経験の無いまま、どこかの遠い海に身を投げたのである。

 だが死ぬこともなく、流され打ち上げられたのが、この島だった。


「ナツはね」


 夏愛は自分のことをナツと言う。


「よく覚えてないんだ。この島に来たときのことを。気がついたら、先生が看病してくれてた」


「島に来る前のことは」


「わからないの。忘れたのかな。でも今は、先生のところでお手伝いして、島の人も仲良くしてくれるし、今とっても……なんて言うのかな、こういうの。シアワセ?」


 夏愛は、はずかしそうに前開きワンピースのボタンをいじりながら、政俊を見てニコっと笑った。

 その仕草。その笑顔。

 政俊は、あまりの愛おしさに涙が出そうになるのを必死でこらえた。

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