第8話:月が奇麗ですね
――ポメラニア帝国歴259年6月23日 ガダール平原:名も無き寒村にて――
「寒村に着いたみゃー。いやあ、今日1日、生きた心地がしなかったんだみゃー。みんな、荷馬車から降りて良いんだみゃー」
彼らの荷馬車が近くの寒村に着いたのは夜8時を回ろうとしていた時間帯であった。辺りはすっかり暗くなっており、夜空はきらめく星たちが敷き詰められている。夜空に浮かぶ月は半月状態よりやや欠けたぐらいであり光量が少ないために、いっそうと星々の煌めきがまぶしく感じてしまうほどであった。
しかしながら、ネーコ=オッスゥが声をかけたものの、荷台にいる面々はシャトゥ=ツナー以外、すっかり寝息を立てて眠っているのであった。ネーコ=オッスゥはどうしたものかと思うが、シャトゥ=ツナーの提案でナナ=ビュランは2人で寝室に運んでしまおうという話で落ち着く。
「んじゃ、ぼくは村長さんに客用の寝室を借りれないか聞いてくるみゃー。シャトゥ殿はナナ殿を起こさないように注意しつつ、タイラー殿を起こしてほしいんだみゃー」
「なかなか難易度の高いことを言ってくれるッスね……。それなら、ナナを運んだ後にタイラーさんを起こしたほうが良さそうッス」
「あ、それもそうだみゃー。じゃあ、そういうことで。僕は行ってくるみゃー」
ネーコ=オッスゥはそう言うと、荷馬車から馬2匹を外し、どうどうと小声で語り掛けて、馬を引き連れつつ、村長の家へと向かっていくのであった。残されたシャトゥ=ツナーはただ漫然と夜空を見上げて、星を眺めるのであった。
「んー、むにゃむにゃ、ふわあああ。あれ? シャトゥ。起き上がって大丈夫なの?」
ナナ=ビュランは、うーーーんと言いながら、身体を伸ばし、身を起こす。そして、重たいまぶたを擦りながら辺りを見渡すと、荷台の縁に座って顔を上に向けているシャトゥ=ツナーが視界に入ったのである。ナナ=ビュランがそう声をかけたというのに、シャトゥ=ツナーはこちらに振り向かず、ただ一言
「月が奇麗ッスね」
「そうなの? じゃあ、明日は良い天気ね。ふわあああ、まだ眠いわ」
この返答にシャトゥ=ツナーは苦笑する他なかった。洒落たことを言ったつもりが、ナナ=ビュランには意味がなさないことに気づかされる結果となってしまうだけであった。
ナナ=ビュランは眠い眼をこすりながら、辺りを見回す。荷台から覗き見える風景には、木造の簡素な家々が並んでいるのがわかった。ここはあの寒村なんだと知り、ほっと安堵してしまう。そして、またしても背を荷物に預けて、眠りに落ちてしまうのであった。
シャトゥ=ツナーはやれやれとばかりに両腕を軽く広げる。そんなシャトゥ=ツナーに対して、クククと意地悪な笑い声をあげる者が居た。それはマスク・ド・タイラーであった。
「ふんっ。色気よりも食い気が勝る年頃の
マスク・ド・タイラーもまた、覚醒しつつあった。それゆえ、2人の会話を狸寝入りしつつ、聞いていたのである。そして、若いシャトゥ=ツナーに紳士らしく、恋のアドバイスを
「それこそ要らぬお世話ってもんッス。ナナには既に婚約を交わした想い人が居るッス。俺はちょっとした気の迷いから、ナナをロマンチックな世界へと誘おうとしただけッス」
「そうだな。こんな満天の星空を見上げていれば、そんな気分になるのも致し方ないと言うものだ。しかしながら、つらいモノだな。叶わぬ恋のために自分の身を犠牲にすることは……」
マスク・ド・タイラーはなるべく音を立てぬようにシャトゥ=ツナーの横に座る。男ふたりが荷馬車の後ろの縁に座る形となる。マスク・ド・タイラーもシャトゥ=ツナー同様に夜空を見上げる。
「しかし、良い星空だ。どれ、星占いとしゃれこもうかな? シャトゥくんたちの星はどれだろうな?」
「お? 星占いが出来るんッスか? 見た目、変態にしか見えない割りには芸が細かいッスね?」
「変態ではない、紳士だ。そこは間違えないように。
このマスク・ド・タイラーの台詞に苦笑せざるをえないシャトゥ=ツナーである。だいたい、シャトゥ=ツナーが口説き落としたい女性は、既に神前で誓約を交わした男性がいるのだ。そんな女性に粉をかけようモノなら、自分にどんな災厄がもたされるかわかったモノではない。
ヒトとヒトの約束は大切である。そして、神とヒトとの約束は制約がつきまとう。ヒトとヒトの約束は
「諦めようとすればするほど、心が軋むのは何でなんッスかね?」
「それがニンゲンの
マスク・ド・タイラーはそう言いながら、シャトゥ=ツナーの頭を左手で軽くポンポンと叩く。シャトゥ=ツナーは自然と涙が両目から溢れてくるのであった。
それから5分もすると、ネーコ=オッスゥが荷馬車に戻ってくる。村長との話し合いで、ナナ=ビュランを含む女性陣だけは客間のベッドで眠らせてもらえることになったのである。男連中は馬小屋の藁の上で眠ることになるのは変わらずであった。
ゼラウス国において、こういう地方の寒村では、結婚前の男女が同じ寝室で眠ることを忌避する文化が根付いている。そもそも、結婚前の男女の間柄は清い関係でなければならぬと法王庁自身が広めたことなのだが、法王庁から離れれば離れるほど、その言い伝えが効力を発揮するのは皮肉としか言いようがなかった。
法王庁がある宗教兼学術都市:アルテナには娼婦館こそは無いモノの、若い男女が裸で愛をささやきあうための専用宿:
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