第2話:コーヒー

 脱衣所から食卓に向けて、ドタバタとした足音が鳴り響く。ナナ=ビュランが下着姿のままに脱衣所を飛び出し、食卓の席に急いで着席する。そして、左手を握りしめ、その上から右手を覆いかぶせるように両手を合わせ、神に祈りを捧げる。


「始祖神:S.N.O.Jさま……。今日も美味しいご飯を食べられる幸せに感謝します」


 祈りを終えた後、ナナ=ビュランは皿の上に乗っている焼きたてのトーストをひとつ掴み、それを食べやすい一口サイズに千切って、ナイフを器用に使い、トーストのこげ茶部分にイチゴジャムをたっぷりとつける。


 そして、それを口の中に放り投げ、幸せな笑顔のままにもぐもぐと行儀悪く豪快に食べるのであった。その姿を間近に見ていた彼女の父親であるアルセーヌ=ビュランが、はあああと深いため息をつく。


「ナナ……。もう16歳なのだから、女性らしく、おしとやかに食べれないのか?」


「ひょんなことひわれたって、デートまでの時間が迫っているんだみょん。ひゅっくり食べてる時間が無い方が問題だと思ふひょ?」


 口の中に食べ物を入れながらしゃべる娘に、アルセーヌ=ビュランはまたしてもため息をついてしまう。妻が亡くなってから早5年。男手ひとつで育てたのが悪いのかもしれないと思ってしまうアルセーヌ=ビュランであった。


 彼は渋い顔をしながら、マグカップに注がれているコーヒーに口をつける。挽きたてのコーヒー豆から抽出したコーヒーは、ほどよい酸味と苦みを舌に伝えてくる。アルセーヌ=ビュランはコーヒーには砂糖を小さじ1杯分入れるのが好みだ。


 ミルクは邪道と豪語してやまない彼である。しかし、砂糖は好きなだけ入れても良いとそこは妥協していたりもする。コーヒー派のアルセーヌ=ビュランであっても、場所によっては、とてもでは無いが、そのままで飲めるようなシロモノでは無いものがたまに提供されることがある。


 出張などで地方の神殿に赴いた時に、それはよく起きるのだ。コーヒー豆の保管状態が十分でなく、豆がとてつもなく熟成されて、さらには途方もない酸味がこれまた渋味に成り代わってしまっている、通称『泥水』と揶揄されるモノだ。


 ゼラウス国一帯は気候としてはステップ地帯であり、紅茶葉よりもコーヒー豆のほうが産地として適している。大昔、コーヒー豆をポメラニア帝国に輸出した際に、保存状態が悪かったのか、時のみかどがコーヒーを飲んだ時に漏らした感想が『泥水』であった。


 それがあって、ゼラウス国は泥水を好んで飲む国民だという屈辱的な風評被害に見舞われることになる。しかし、ゼラウス国も黙って、この風評被害を受け入れることは無く、コーヒー豆の保存状態を高める工夫を繰り返し、今ではそのような『泥水』という汚名からは脱せられるようになったのだ。


 しかしだ。先人たちが苦労に苦労を重ねてきたというのに、ゼラウス国所属の神殿がコーヒー豆の保存に関して、疎かになってしまっていることにアルセーヌ=ビュランはこめかみに青筋を立てそうになるのだが、そもそも神に仕える者たちは、食事に関して、割と無頓着なことが多い。


 コーヒーが不味い神殿で提供される食事は決まって、味気の無い芋スープ。冷たく硬くなったパンパーン。へなっととした歯ごたえを感じない野菜サラダ。そして、極めつけに『泥水』だ。


 別に地方の神殿に金が回っていないわけではない。ただただ、無頓着なのだ、彼らは。神を信奉する余りに、自分の生活を改善することに知恵が回らないだけなのである。


「パパ、どうしたの? コーヒーが美味しくなかった?」


「あ、ああ。違うよ? コーヒーはとっても美味しいんだ。だが、ちょっと思い出したことがあってだな?」


「ふーーーん? じゃあ、眉間にしわを寄せなくても良いじゃない?」


 娘のナナ=ビュランにそう言われ、アルセーヌ=ビュランは左手の人差し指で自分の眉間を軽く触ってみる。言われた通り、眉間にしわが寄っており、アルセーヌ=ビュランはやれやれと思いながら、顔に知らぬ間に入っていた力を抜くのであった。


(ちょっと、ナナとヨン=ウェンリーくんとのことで神経質になりすぎていたかものしれんな……。それでコーヒーに飛び火してしまったんだろう)


 アルセーヌ=ビュランはそう思ったあと、んんっ! とひとつわざとらしく咳をし、娘に一言告げるのであった。


「いいかい? ナナ。20かそこらの男というのは、頭の中は『スケベなことがしたい』でいっぱいだ。だから、あまりスカートの丈が短くないようにするのはもちろんとしてだ。さらに肌が透けてしまうような薄手の服を着ていくんじゃないぞ?」


「はいはい。パパは本当に心配性よね。ヨンさまが誓約を破ってまで、あたしにそんなことしてくるわけがないでしょ? ヨンさまは紳士なんだから、別に誓約がなくたって、あたしが嫌がることをしないと思うわよ?」


 それなら心配はないがな? 結婚前に赤ちゃんがで来ちゃったとか聞きたくないぞ? と言いかけて、喉の奥にひっこめるアルセーヌ=ビュランであった。最近、口うるさく言い過ぎたのか、娘たちからの視線が明らかに冷たいことを察している彼である。


 これ以上、娘の想い人に対して、非難を続ければ、村八分の状態に陥ってしまうことは明白だ。言いたいことはやまほどあるが、聖堂騎士の少ない休日をわざわざ娘を喜ばせるために費やしてくれるというのだ、ヨン=ウェンリーくんは。


「ところで、ナナ。今日はヨンさんとどこに行くつもりなのです?」


 朝食を食べ終えたココ=ビュランがコーヒーが注がれたマグカップを片手に持ちながら、妹にそう尋ねる。尋ねられたナナ=ビュランは食べる動作を一旦止めて、やや斜めに首を傾げて、これからの予定を思い出す。


「んとね。街の大通りに最近オープンした服屋さんの前で待ち合わせなの。そして、そのまま、服屋さんに入って、ヨンさまのわたくし服を見繕うかなって。で、その後はクレープ屋さんとか、甘いモノ巡りって感じー」


「あらあら。そう言えば、ヨンさんって、騎士の恰好ではよくお会いしますけど、私服姿は見たことがありませんわね……」


 ココ=ビュランは今まさに気づいたかのようにやや驚いた表情を顔に浮かべる。ココ=ビュランは司祭プリーストの資格を取るために、法王庁の横に付随する神殿に出入りしているのだが、そこで度々、ヨン=ウェンリーと顔を合わせているものの、彼の私服姿が思い出せないのだ。


 思い出せるのは、聖堂騎士のあかしである蒼と白のブレストメイル姿、もしくは儀式の時にくる黒と青を基調とした制服姿のみであった。


「そう。問題はそこなのよ……。ヨンさまって、実は寝巻以外は仕事服しか持っていないのよ……。だから、今日はヨンさまの私服を何着か買おうねって話なわけよ」

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