第1章:ビュラン家の娘

第1話:いつもの朝

――ポメラニア帝国歴259年5月15日 ゼラウス国:宗教兼学術都市:アルテナにて――


 エイコー大陸の西にはポメラニア帝国という、この大陸で一番大きな帝国があった。その帝国の南の領土:土の国:モンドラの先にはダンガーン山脈があり、その山脈を超えるとバンカ・ヤロー砂漠が広がっていた。


 そのバンカ・ヤロー砂漠のさらに南東のステップ地帯:ガダール平原には都市群が互いの力を合わせ、ひとつの国を創り上げていた。


 その国の名はゼラウス。その国には商業都市:ヘルメルス、工業都市:イストス、宗教兼学術都市:アルテナが存在している。


 その宗教兼学術都市:アルテナにはビュラン家という代々、司祭長チーフ・プリーストを輩出する一族がいた。当代においてその司祭長チーフ・プリーストには半兎半人ハーフ・ダ・ラビットの美しい2人の姉妹がいる。


 姉の名はココ=ビュラン。妹の名はナナ=ビュラン。


 彼女たちの肌はまるで本物の白兎のように白くキレイな肌である。


 そのキレイな肌をさらに磨くかのようにナナ=ビュランは、朝からお風呂場で丹念に洗っているのであった。


「今日はヨンさまとデートだし、しっかり身体を洗わないと……」


 ナナ=ビュランは薄紫色の絹製の手ぬぐいで左腕の先から二の腕を通り、肩先までをなぞるように、撫で上げるのであった。そんな念入りに身体を磨かなくても、16歳の彼女は十二分に魅力的であるのに。


「あんまり朝から長風呂をいただくのは感心しませんわよ?」


 脱衣所から声をかけるのは姉のココ=ビュランであった。彼女は寝汗をさっとお湯で洗い流すだけで、風呂場から出ている。脱衣所で彼女は乾いたタオルで、胸当たりまである明るい銀色のセミロングヘアを丁寧に拭いている。


「お姉ちゃんには彼氏が居ないから、あたしの気持ちがわからないんだよ」


「大体、ナナはいくらキレイに洗っても、ヨンさんに見せることが出来ないんでしょ? じゃあ、わたくしと変わりありませんわ?」


 ナナ=ビュランは姉の言葉により、まるで鋭い刃物が胸に刺さったかのような気分になってしまう。ナナの明るい褐色のショートカットの上にあるウサ耳は気分が落ちたことを表すかのように、へなっと垂れてしまうのであった。


「そんなこと言われたって……。あたしもここまで制約が厳しいって知ってたら、あんな誓約、ヨンさまと交わさなかったわよ……」


 ナナ=ビュランは婚約時に恋人であるヨン=ウェンリーと『結婚するまで清い仲でいましょ?』と神前で誓約したのであった。それが制約となり、ナナ=ビュランとヨン=ウェンリーは、いやらしいことが一切許されない間柄になってしまったのである。


 もちろん、キスや恋人の腕に自分の腕をからませる行為も、いやらしいと神に判断されるようで、婚約を交わした後から、彼女たちはほとんど肌の触れ合いが出来なくなってしまった。


 誓約を破れば、神は怒り狂い、今生では2人の縁の全てを切るとまで言われている。


(神様のいじわる……。愛し合う男女が唇と唇を重ねるのなんて、当たり前のことまで禁止しなくて良いじゃないの……)


 ナナ=ビュランとヨン=ウェンリーが、婚約を交わした後、幸福感に包まれた彼女らは唇を重ね合おうとした。だが、今まさにヨン=ウェンリーの唇がナナ=ビュランの可愛らしくぷっくりした唇に触れようとした時、ヨン=ウェンリーの身体は何か得体の知れない力によって、足が地面から離れることとなる。


 そして、宙に浮き上がった彼は、うわあああ!? と素っ頓狂な声を上げたまま、神殿の入り口の木製のドアを突き破り、通りにあった果物屋の屋台に頭から突っ込むといった大惨事に見舞われることになったのだ。


 通りを歩く人々は、ああ、また『誓約と制約』の犠牲者が出たんだなっと、妙に納得した顔つきであった。



 さて、そんな2人の事情はともかくとして、肌と肌の触れ合いや、裸体を相手に見せることを神たちに禁止されているものの、それでも身体をキレイにしておきたい年頃のナナ=ビュランであった。


 とりあえず、身体を洗うことに満足したのか、ナナ=ビュランはお風呂場から脱衣所に移り、水に濡れた明るい褐色の首筋までのショートヘアを乾いたタオルでやや乱暴に拭くのであった。


(どうせ、あとでブラシでセットするんだし、今は髪を乾かすことのほうが先決よねっ!)


 ナナ=ビュランはそう思いながら、荒っぽく髪の毛を拭きつつ、先に脱衣所から出ていった姉のココ=ビュランに今何時か聞く。


「えええっ!? もうそんな時間なのっ!? 待ち合わせまで30分も無いじゃないのっ!!」


「わたくしに怒鳴られましても……。わたくしがお風呂から上がってから、30分以上も身体を洗っているナナが悪いと思うんですわ?」


 姉のココ=ビュランは食卓で既に朝食の半分以上を食べ終わっていた。今日の朝食は焼きたてのトーストと目玉焼きサニーサイドアップ、それとマカロニサラダであった。ビュラン家の朝はパンと決まっている。彼女らの父親であるアルセーヌ=ビュランが『パンは始祖神:S.N.O.Jさまの身体。コーヒーは始祖神:S.N.O.Jさまの血液だ』と、米派の娘たちの意見を却下しているのである。


 アルセーヌ=ビュランは法王庁に勤める司祭長チーフ・プリーストたちのひとりであった。そのため、朝は始祖神:S.N.O.Jさまに感謝するためにもパンとコーヒーであらねばならぬと頑なに米を拒んできたのである。


 一度、娘たちが父親に意地悪をして、パンとコーヒー豆を切らしてみたところ、アルセーヌ=ビュランは肩をがっくりと落として、何も食べずにその日の朝は法王庁に出勤してしまったのである。


 これはさすがに悪いことをしたと娘たちも思ったのか、二度とそのようなイタズラをしなくなってしまったのであった。


 脱衣所でドタバタと大きな音が鳴る。食卓の席に座るアルセーヌ=ビュランは渋い表情だ。


「まったく……。まだ16歳だと言うのに色気づきおってからに……」


「あらあら? パパはまだヨンさんのことを認めてなくて?」


 ココ=ビュランが少し意地悪な笑みを浮かべながら、父親を質問するのであった。アルセーヌ=ビュランは面白くもなんともないといった表情を顔に浮かべる。その表情が雄弁に物語っていた。


 それもそうだろう。5年前に妻を亡くした後、男手ひとつで娘2人を育ててきたというのに、どこの馬の骨とも知らぬ聖堂騎士が、ココ=ビュランさんをわたくしの妻にしたいのです! と3カ月ほど前に突然、ビュラン家に現れたのだ。


 もし、その男が自分の眼の前で『土下座』さえしなければ、アルセーヌ=ビュランは、その男を家から追い出し、玄関に塩をぶちまけていただろう。


「ふんっ。立派な職に就いているだけ、ヨン=ウェンリーくんはマシだったかも知れん。だが、結婚まではまだ1年半以上ある。それまで、精々、制約に苦しめば良いのだ!」

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