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「あん? どこ見てんだよ!」
私たちは驚きのあまり目を見開き、その場に立ち尽くした。隣に立つ彼女は興奮したように私の手を強く握り返す。
「ほう。仮にお前の言い方を借りれば、道端に落ちた小人を拾った僕がどうしようと、文句はないという事で良いのか?」
小人の真後ろに立つ巨大な獣、そして、私たちの友人は、凄まじい殺気を纏いながらそう呟いた。
「はぁ……? この俺様に何言ってやが――」と叫びながら後ろを振り返った小人は、一瞬のうちに絶句した。身体をがたがたと震わせ、地面に尻餅をつく。
仁王立ちした熊は小人を見下ろし、ゆっくりと顔を近づけた。喉を鳴らし、体毛は逆立ち、その姿は我々の知る温厚な彼ではなく、紛れもない獣の姿だった。
「ひぃっ!」
悲鳴を上げた小人は地面に跪きながら「お、お助けを!」と命乞いを始めた。
「そ、そうだ! あそこの女どもを好きにして構いません。だからだから、私のことはどうか、どうかお見逃しください!」
恐怖に怯えながら筋違いな願いを口にする小人を見た私は、そこでようやく童話の重要なシーンを思い出した。
『――熊は呪われた生き物を手で吹き飛ばし、小人は二度と動きませんでした』
このまま物語の通りに進めば、熊が小人を殺してしまう。そんな非道な役目をあの優しい熊さんに負わせてしまって良いのだろうか。べにばらや私は、そんな無残な光景を目の当たりにして、素直に喜べるのだろうか。
小人をじっとりと睨みつけていた熊が大きく一度鼻息を鳴らすと、風圧で小人の顔面は後ろに仰け反った。
「ま、待っ……!」と私が訴えようとしたその時だった。
鋭利な鉤爪の一本を小人の目の前に立てた熊は、「お前に一度だけチャンスをやろう。僕も殺生は嫌いなんだ」と言った。
「一度しか言わないよ」
小人は醜い頭を上下に激しく振りながら息を呑み、続きを待つ。
熊は素早く爪先を小人の喉に突き立てると、「今後一切、他人に迷惑をかけるな。僕やここにいる姉妹、それにこの世界に生きるすべての者に再び危害を加えてみろ。次はどうなるか、分かっているね?」
唾液や汗、鼻水、涙、それら全身の汁を垂れ流した小人はひどく呼吸を荒げ、飛び出るほどに見開いた瞳で熊の方を凝視していた。
圧倒的な殺意と圧力に何度か口をぱくぱくとさせた彼は、自身の首元に突き付けられた鉤爪を一度見遣ると、再び怯えた目つきで熊の方を見る。
やがて小人が首を小さく縦に振ると、熊は爪の先を引っ込め、「分かったなら行け。振り返るな」と命令口調で言い放った。
小人は何も言わずによろよろ立ち上がると、こちらには目もくれず森の中に走り出した。奴が茂みの中に消え行く後ろ姿を見送った熊は、それが視界から消えるとこちらを振り返った。
「……王子、さま?」
振り返った彼の姿に私は目を疑った。
なぜなら彼は、いつの間にか人の姿をしていたからだ。柔らかな金髪をなびかせ、透き通るように白い肌をした男性は神々しく輝きを放っていた。
甘い笑顔を私たちの方へ送った彼は、ゆっくりとこちらへ歩き出す。
「くまさん!」と叫ぶ声を聞き、私はべにばらの横顔を見遣った。彼女の頬には涙が伝っている。
「もう大丈夫だよ」
王子の方に視線を戻すと、彼は先ほどと同じ熊の姿に戻っていた。松明を置いて勢いよく走り出したべにばらは熊の懐へ飛び込み、わんわん声を上げて泣き始めた。彼はいつものように、頭を優しく撫でている。
「探し物は見つかったかい?」
熊はべにばらを抱きながらこちらを見遣り、笑顔でそう問いかけた。私が一度こくりと肯いて彼女を見ていると、熊はそれに答えるように何度か頷いている。
すると突然、べにばらのポケットの中が光り始めた。
涙を拭った彼女がポケットから赤い宝石を取り出すと、それは手のひらの上で温かな赤い光を放ち、周囲を照らしだした。
「君たちが見つけてくれたんだね」
宝石を眺めた熊は、続けてべにばらと私を交互に見て微笑んでいる。
「もしかして、これがくまさんの探しものかしら?」
べにばらは首を傾げながらそう尋ねた。熊がゆっくりと首を縦に振ると、彼女は手のひらに乗せていた宝石を差し出し、「よかったね、見つかって」と答えた。
「ありがとう」
宝石を受け取った熊は、私たちを優しく抱き上げると両肩に乗せた。
「さぁ、家まで送ろう。きっとママが心配しているよ。もう一日だけ、君たちの家に泊めてもらっても良いかな?」
「一日だけ?」
反対側の肩に乗ったべにばらは、泣き声交じりにそう尋ねている。
熊はゆっくりと歩き出しながら、「僕もそろそろ家族に会わないといけないから」と答えた。
「でも、旅は今日で終わりだから、今度はいつでも遊びに来られるよ」
「ほんと? じゃあ約束ね!」と言うと、べにばらは小指を立て始めた。
熊は私たち二人に向けて小指の鉤爪を見せると、それぞれと指切りをした。
「本当は王子様なんでしょ? 小人を殺さないと元の姿に戻れないんじゃなかった?」
べにばらが寝息を立て始めたところで、私は熊にそう問いかけた。熊は大きな歩幅で森の中を歩き進みながら、小さな声で答えてくれた。
「君が望むなら、僕は今からでも王子様の姿になって構わない。でもね、君はこのままの姿の方が好きだろ? そういうことさ」
……どういうことか。
「ふむ」と鼻息を鳴らした熊は肩を竦めたつもりのようだったが、私たちが乗っているせいか動かすことは叶わないらしい。
「じゃあ、しらゆき。君が今一番見たいと思うものを想像して、目を瞑ってごらん」
「見たいもの……」
私は熊に言われた通り、目を瞑った。今一番見たいものは何だろうか。
私はふと目を開いて握り締めたブローチを見やると、再び目を瞑って一角獣を想像した。彼女がいつか見てみたいと願った、幸せを呼ぶ架空の獣。もしこの森のどこかに存在するのなら、私も一度は見てみたいと思った。
「いいよ。目を開けてごらん」
ゆっくりと目を開いた私は、不思議なことにべにばらと肩を寄せ合っていた。規則正しく寝息を立てた彼女は、気持ち良さそうな表情を浮かべている。
つい先ほどまで熊の頭部を挟んだ反対側で眠っていたはずの彼女が、どうやってここまで移動してきたのか。そう思って下を眺めると、私たちは宙を舞っていた。
「あなたが、一角獣だったの?」
つい先刻まで熊の姿をしていた彼は、今では白馬に変化して私たちを背中に乗せたまま夜空を飛び交っている。
ブローチの装飾と同じ金色の鬣、額には立派な一本角が伸び、まるでバレリーナのように軽やかな足運びで音もなく森の中を駆けていった。時おり地面に足がつくと、調律を済ませたピアノの鍵盤を叩いたように美しい音色が周囲に響いた。
「君が望んだから、この姿になれたよ。早く走れるのは楽しいもんだね」
彼は宙を舞うように森の上空を飛び回った。月の光に反射した純白の肉体は、金色の鬣と共に輝きながら辺りを照らし出している。
頬に当たる風の感触が、とても気持ちよかった。
宙を舞った彼は、あっという間に我が家に辿り着いてしまった。べにばらを起こした私は、寝ぼけた彼女の手を引きながら玄関の扉を叩く。
勢いよく姿を現した母には、またしてもこっぴどく叱られた。今までに見たことのない形相で怒った彼女は、その後見たことのない悲しげな表情で私たちを抱き寄せた。後ろを振り返ると、彼は熊の姿に戻っていた。
確かに。熊は熊の姿のままが一番良い。王子様や一角獣より、くまさんがいてくれた方が彼女は喜びそうだ。
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