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熊に見送られた私は、再び森の中を歩き始めた。一人で森を歩くのは随分と久々のことだった。彼女が近くにいることでどれほどの安心感を得ていたのかと思い知らされる。
仮に彼女が雑草地帯を一人で抜けたと考えるならば、次に向かったのはこの森だと思った。
半信半疑で歩き始めた道のりだったが、それもすぐに確信へと変わる。森に入って少し行った所には、彼女が残したと思われる目印が見られたからだ。
人為的に結ばれた蔦は、綺麗な蝶々の形をしている。私は次の目印を探しつつ、先へと進み始めた。
印を追ってしばらく行くと、森を遮るようにして左右に川が延びていた。十分に助走をとった大人が跳躍すれば、何とか飛び越えられそうな幅ではあった。
川の淵を覗き込むとそこは垂直に切り立ち、崖のようになっている。通り雨でもあったのか、周囲の木の葉や地面に真新しい水滴が見られ、川の流れも異様に激しかった。
私の身体でこの川を飛び越えるのは、恐らく不可能だろう。とすると、べにばらも飛び越えようとは考えなかったはず。
どこかに渡れそうな箇所はないかと見渡していると、草陰から川に向かって釣竿が伸びているのが見えた。釣り糸は川の流れに勢いよく揺り動かされ、とてもではないが魚が釣れそうな状態には思えなかった。
茂みの陰から顔を出し、釣り人の姿を見た私は思わずぞっとした。
「なんだよ、まったく。――ちっ、こいつは」
ぶつぶつと吐き捨てるように独り言をしていたのは、あの醜悪な姿をした小人だった。
私たち姉妹を罵倒し、私の大事なブローチを奪って逃げた張本人がこんなところで呑気に釣りを……。
人相の悪い小男は釣竿を手に持ち、魚が取れないことに対して苛立ちを見せている。斧が見当たらないところを見ると、一旦住処に帰ったのかもしれない。足元には鞄のような荷物も見えた。
このまま背後に近寄り、草陰からこっそり荷物を奪ってしまおうか。けれどそれでは奴と同じ非道を働くことになってしまい、心の奥ではどこか抵抗があった。
できれば円満に解決し、堂々とべにばらを探したい。あいつも一応は人間だ。もしかすると、きちんと話せばすんなりと返してくれるかもしれない。
私は草むらから姿を現すと、真っすぐに小人の方へ歩いていった。気配を感じ取った小人は突然身構え、荷物を掴んで辺りを警戒し始めた。
私の姿を目にした彼は、初めのうち誰だか分からないようだったが、やがて大きく口を開くとこちらを指差し、「……オ・マ・エ・ハ」と口を動かしているように思えた。
彼は荷物を両手に抱えながら逃げる体勢を整え、私を睨みつけている。
「危害を加えるつもりはありません。ブローチを返して欲しいだけなんです。あれは私にとって大事なものなんです。どうか返して頂けませんか」
私は誠意を持ってぺこりと頭を下げ、「お願いします」と付け加えた。
小人は警戒した姿勢のまま顔を歪めていたが、やがてそれも憎たらしい笑みへと変化し、「はっはっは」と声を上げて笑い始めた。
「お前、馬鹿だろ」
「馬鹿……」
「あん時も言ったけどよ、地面に落ちて拾ったもんは俺のもんだ。それに俺はな、自分の物を人にあげたりなんてしないんだよ。絶対にな!」
そう言い放つと、小人は釣り竿を放り出して一目散に逃げ出した。
「待って!」
私は小人の後を追い、走り出した。せっかくここまで来たというのに、あいつを逃がす訳にはいかない。
小人は下流に向けて川沿いを走っていた。荷物を持っている割にすばしっこく、とても私の足では追いつけそうになかった。
けれどあいつは、どういうわけか水溜りがあるとそれらを飛び越えず、一度減速したのちに用心深く迂回して走った。そのため水溜りが来る度に私は距離を詰め、あと少しで手が触れられそうなところまで追いついた。
焦った小人は走りながら一度地面に片手をつくと、私の顔に勢いよく砂を投げつけた。
「痛っ……!」
声を上げながら目を擦ったところで、私は泥濘に足を滑らせた。
バランスを崩した身体は一瞬のうちに宙を舞い、やがて右半身に衝撃を受けると、突然自身が水中にいたことに驚いた私は、上下の感覚も分からぬまま大慌てでもがき始めた。
光輝くものが滲んで見え、そちらに向けて泳ぐとなんとか水面から顔を出すことができたが、川に流されていた私は思うように身体を動かすことができなかった。
パニックに陥った私は呼吸を荒げ、手足をバタつかせた。崖の上で呆然と立ち尽くした小人は、口を開いたままこちらを見つめている。「助けて」と叫びたいのにそれすらも叶わず、私は息を吸い込むのに必死だった。
小人はそんな私をよそに、ゆったりとした速度で先ほど放り投げた釣り竿を拾いに戻っていた。再びこちらへ走ってくると、小人はまた呆けた表情を浮かべてこちらを熱心に見下ろしている。
あぁ。やはり最後には、困った者を助けてくれる。そのために釣竿を取りに戻ったのかもしれない。そんな淡い希望を持った私は、心底愚かな人間である。
小人はけらけらと顔を歪めながら憎らしく笑い声をあげると、流される私を見殺しにし、森の中へ去っていった。
視界の先が徐々に暗闇へと移り変わっていく私は、意識を失う寸前まで、その笑い声が耳にこびり付いていた。
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