『……嘘つき。』
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「べにばら! どこ?」
額に冷や汗が流れるのを感じた。慌てて辺りを見回すものの視界が悪く、見える範囲は極端に限られていた。
彼女の名を大声で叫びながら周囲の草を掻き分け、次第に走り始めたが、そんな私の努力を嘲笑うように草は視界を遮り続けていく。
「どうしよ……どうしよ……」
背後でがさがさと草を掻き分ける音が聞こえ、私はすぐさま振り返った。
そこは、姉の病室だった。
昼下がりの午後。窓から差し込む柔らかな陽光が室内を照らし、そよ風にカーテンが揺らめいていた。
周囲には母や父、それにジャンや医師や看護師たちの姿が見られ、ベッドを取り囲んでいる。
後ろから近寄りながら声を掛けてみるものの、彼らは私の存在に注意を払うことなく俯いてベッドを見下ろしていた。
彼らを押しのけて前方に飛び出ると、私は身体を屈めてベッドに横たわる姉の姿を見た。
神々しく輝き、瑞々しい肌をした姉はなぜか息をしていなかった。
触れると冷え切った身体は硬直し、それは精巧に彼女を模して造られた人形のようだった。
胸元に耳を当てるが心臓の鼓動も聞こえず、電極に繋がれた心電図のモニターは平らな線を描いて耳障りな単音を垂れ流している。
不意に背後で母が泣き、父が泣き、ジャンが泣き、室内は悲しみの音階に満たされた。
私は立ち上がり、病室の外へと駆け出した。
廊下に出たはずの私は、スカイブルーのカーテンが掛かった部屋に迷い込んでいた。そこにはスーツ姿の姉がぽつんと座り込んでいる。
背後からそっと近づき、肩越しに覗き込むと、彼女は赤いノートに挟まった私たち姉妹の写真を眺めていた。
「私、この頃は何も心配事なんてなかったの」
彼女は俯いたまま呟くと、赤いノートのとあるページを朗読し始めた。
「あなたのそばにいたい。あなたを守ってあげたい。それが楽しくて、その想いだけであの頃は過ごしてこれた。
でもいつの間にか、周囲の反応が怖くなった。不安と恐ろしさが私の心を満たし、自分らしさを演じることが日常化すると、それは私の手枷、足枷となってあまりに硬く重く私に圧し掛かったの。
いつの間にか本来の自分自身は影も形もなくなり、どこかに見失ってしまった」
やがてノートを持つ手が、僅かに震えだした。
「彼に出会った頃、私の中で何かが解れるのを感じていた。穏やかな水面に心地良く浮かぶように、無重力帯を浮遊するように、身体を失った霊体のように心が軽くなった。
でも、私は甘えすぎた。もたれ掛かり過ぎていた。――押し潰してしまった。これほど醜態な姿を、今さら家族には見せられなかった。
私の本来の姿なんて、誰の目にも触れさせたくはなかった。強靭な心と活力を持った私は単なる見せかけで、本当はただの汚らしい道化者。それならいっそ――」
「そんなことない!」
私は彼女の肩を掴んだ。ゆっくりとこちらを振り返ったのは、べにばらだった。
べにばらは私の顔を見つめ、「……嘘つき」と呟いた。
「大きく息を吸うんだ。ゆっくりで良い」
目を開くと、とても眺めが良かった。
先ほどまで彷徨っていた背の高いとうもろこし畑は眼下に広がり、私は何かに担がれていた。
一定の間隔で地面が揺れ、それに合わせて景色が上下する。俯くと、指と指の間には焦げ茶色の体毛が見えた。
「……あっ」
私が声を発すると、こちらに顔を向けたのはあの紳士的な熊だった。
「大丈夫かい?」
「えっと……あの……」
自身の置かれた状況にようやく気づいた私は、恥ずかしさが溢れて言葉が浮かんでこなかった。
熊はそれに構わず、「ここら一帯の草はね、どうやら悪い幻覚を見せるようなんだ」と口にしていた。
「危険だから始末するようにと依頼されてここまで足を運んだけれど、まさかしらゆきに再会できるとは思わなかったな」
「幻覚……」
私は先ほどの光景を思い出すと思わず身震いをし、「熊さんは、ここにいて平気なの?」と尋ねた。
熊は平然と雑草地帯を通り抜けながら、「僕は背が高いからね。この霧は空気に沈む性質があるのか、草の高さを越える場所では効力を発揮できないようなんだ」と答えた。
「だから君も、幻覚から目覚めることができただろ?」
「そう……」と声を漏らすと、一瞬安堵の気持ちが芽生え始めたが、すぐにそれは取り払われ、「べにばら!」と私は叫んでいた。
「べにばらを見なかった? あの子も一緒に中に入ったの。すぐに助けに戻らないと」
「そりゃ大変だね」
私は慌てて熊の肩の上から飛び降りようとしたが、彼は落ち着いた様子で私の身体を押さえ、「珍しく動揺しているね。また幻覚を見てしまうよ?」と優しい口調で答えた。
「そう焦らなくても大丈夫さ。僕がひと回りしてこよう。それが終わるまでの間、君はあの岩山で休んでいると良い」
熊が指差した岩を見つめた私は、「それは駄目」と呟くと彼の顔を覗き込んだ。
私はあの子との約束を破った。だから、「彼女のことは、自分で探さないと」
「ふむふむ」
彼はどこか納得したように頷くと、「じゃあ、二人で協力して探すのはどうかな?」と言った。
「僕が歩き回るから、君は上から見回しておくれよ。彼女は僕にとっても大事な友人だからね。それくらいの手助けは構わないだろ?」
「…………」
熊から言われた言葉に、私は思い知らされた。どうしてこうも自分の立場でばかり物事を考えてしまうのか。彼のように相手の気持ちを汲んであげられれば、私も少しばかりは姉の手助けになり得たのではないのか。
愚かな妹という立場に、私はすっかり依存していた。
「……うん。ありがとう」
静かに答えた私は、熊が歩く先に神経を研ぎ澄ました。
しかし、いくら探し回っても彼女は見つからなかった。
「――私、本当に最低。結局また、足手まといになっちゃった」
熊の誘導で岩山に腰かけた私は、膝を抱えて涙を流しながらそう呟いた。
隣に座る熊は黙って私の話に頷いていたが、やがてゆっくりとした口調で、「兄弟なんてものはさ、二人で協力してやっと一人前なんだよ」と語り始めた。
「実は僕にも弟がいるんだ。もう随分と会っていないけど。僕には大事な探し物があると話しただろ? それを見つけるまで、僕は家族の元には帰れないんだ」
「どうして?」
「それは、少し話しづらいんだけど」と言葉を濁らせた熊は、気まずそうに顎を撫でつけながら、「あの頃の僕は、きっと意固地になっていたんだな。一人で探し出さなければならない問題だって、そればかりに囚われていた」
私も、そうなのだろうか。姉の気持ちを考えるよりも前に、自分のことで頭がいっぱいになっていた。素直に頼りに出来ていなかったのはお互い様だったのかもしれない。
「僕はね、君たちのように何をするにも一緒の姉妹を見ていると、何だか羨ましかったな。僕ら兄弟は喧嘩ばかりだったから。けれど今では何をしても一人で、どこかで欠落を感じてしまう。また弟に会える日が来るのだろうかと、たまに考えるよ」
そう言うと熊はこちらを向きながら、「僕はもはや、この一人旅に納得がいってるんだ。やれるところまで一人でやってみようと思う。けれど君たちにはまだ、互いに文句を言い合う機会も助け合う機会も、いくらでも残っているじゃないか」
「でも、もしこのまま見つからなかったら……」
「彼女はきっと見つかるさ。君が本気で望めば、必ずね」
熊は微笑みながら、私の頭を優しく撫でた。するとそれに付随するように、一筋の光が足元に延び始めた。
空を仰ぎ見ると、分厚い雲を突き破るように幾筋もの光線が地面に向けて照射されている。先ほどまでの曇天が嘘のように、天候は快晴へと回復しつつあった。
周囲を見渡すと、先ほどまで彷徨っていた雑草帯も今では長閑な田園風景に思えた。
「次に彼女と再会した時には、君はきっと素直に自分の気持ちを話せるようになっているはずだよ。……なんて。今の僕が言っても、何の説得力もないかもしれないけど」
「そんなこと……」
一人になって長く考え抜いた彼だからこそ、分かることもある。そう思った私は立ち上がり、一歩足を前に踏み出した。
「もう、平気みたいだね」
私が小さく頷くと、彼も嬉しそうに笑顔で頷いた。
「一緒に行ってあげられれば良いんだけど、ここを放置する訳にもいかなくてね」
「大丈夫。熊さんも大事な探し物を見つけて、弟に会えるといいね」
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