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「わぁ!」と私が声を上げると、ブタ鼻をしたその巨大な生き物は鼻をひくひく動かしながら、「あぁ、ぶたないでよ」と声を発した。
「喋った……」
私がじっと見つめると、長い爪で顔を覆い隠したそれは、身体を震えさせながらその場に屈み始めた。「――もう行っちまったと思ったのにさぁ」
巨大なモグラだ。と思いながら目の前で怯える彼を見つめた私は、その言葉に疑問を持ち、「もう行った? 誰があなたをぶったの?」と尋ねた。
すると爪を退かしてこちらをゆっくりと見上げたモグラは、「ぶたない?」と小声で尋ね返した。
「ぶたない」と私が答えると彼はほっとため息をつき、「またあいつが来たのかと思ってびっくりしちゃったよ」と言った。
「あいつ?」
そこで上から「ねぇ、しらゆき! どうしたのよ?」と問いかける声が聞こえ、私はそれに応えて手を振ってから、「あいつって、髭を生やした小人のこと?」と彼に尋ねた。
モグラは反射的に爪で顔を隠すと、「あいつは僕の作った道を勝手に使うんだよ。そのうえ暴力をふるうし。僕は痛いのはきらいなんだ」
やはり小人はこの穴の中を通ったようだ。しかしながら、穴は左右前後にいくつも横穴が掘り進められており、どちらに進めばよいのか分からない。
「ねぇ、私は痛いことしないから教えて。小人はどっちに行ったの?」
「ほんとに? 君も痛いの嫌い?」
「うん。嫌い」
「分かった!」
顔を見せたモグラは鼻をくんくん鳴らすと数歩先に移動して地面に落ちた白い糸のようなものを拾い上げ、「あっち」と一つの横穴を指差した。
彼が拾った糸は、よく見ると小人から抜け落ちたであろう髭の一部だった。これほど硬くて長い髭にはそうそうお目にかかれない。
「ありがとう」と私がお礼を言うと、モグラは爪の先で器用に身体を掻きながら、「あいつには関わらない方がいいよ」と言った。
「え? それって、どういう……」と私が言いかけたところで、べにばらが穴の上から滑り落ちてきて私の背中に身体をぶつけた。何とも無茶をする子供だろうか。
「しらゆき、だいじょうぶ? ――わ、何こいつ!」と狭い穴の中で騒がしくするべにばらにモグラは再び怯えはじめ、「あぁ、また増えた。……勘弁してよ」とぼやいている。
この道を小人が通ったみたいだと私が説明すると、べにばらは途端に元気を取り戻し、「やっぱりこっちだったのね! 早く追いかけましょう!」と言った。
だが、私はそんな彼女をしばし引き留め、「ねぇ、あの小人には何かあるの?」とモグラに尋ねた。
彼は長い爪をばたばたと動かしながら、「あいつはひどい奴なんだよ!」と言った。
「これは隣森の友達に聞いた話なんだけど、巣の近くで暴れまわる猫を退治してくれるって言うから、奴らも信用して横穴を使わせていたらしいんだけど、あいつは食料に取っておいたミミズを釣りの材料に持ち逃げしたんだってさ」
「あぁ、そう」
あの狡猾な小人なら、それくらいはやりかねない。
「ひどい話ね!」とべにばらは彼の話に同情するように勢いよく頷いている。
「おまけに猫が出た時には奴らを盾にして真っ先に逃げ出すし、巣の中には匂い薬を投げ込んだらしいんだ!」
「最低!」
べにばらがさらに同意すると、モグラは途端にクックックと奇妙な笑い声を上げ、「ほんとに可哀そうな話だけどさ、あんな奴を信用した友達連中も間抜けだよなぁ」と言い始めた。
「ミミズを取られるなんて、僕だったら絶対ありえないし。みんなでまとめてかかれば、あんな奴なんて全然恐くないのにさ」
「…………」
それからも次々に他人の不幸話を面白おかしく語る彼の姿は、どこかナルミハルタを思わせた。小人の被害にあった彼らを同情するどころか、この男は他人事だと思って無責任なことを言うものだ。
それならお前は、抵抗をしたのか。
一人だからという理由で友人と同じように見て見ぬふりをして、それを何とも思わないのだろうか。
「それでさ――」
「あぁ、もう大体わかったから」
私は彼の言葉を遮ると、早くその場を離れたくてべにばらの手を引いた。
「ねぇ、放っておいていいのかしら?」とべにばらはこちらに向かって問いかけたが、私はそれを聞き流しながら教えられた横穴を進む。
モグラは私たちが視界から消えそうになると、焦ったように背後から「あ、もっと面白い話があるんだ!」と叫び、「王子さまの宝石もあいつが盗んだよ」と続けて言った。
その瞬間、頭に響くその言葉に反応して足を止めた私は、急ぎ足で彼の元に引き返した。「――その話には、少し興味あるかも」
モグラの話によれば、とある日に王子が城下街に繰り出した際、そこで偶然出会った小人が良い水浴びどころがあるからと紹介したのち、森の奥で身につけていた宝石を一時的に彼が外した隙を伺って盗み取ったらしい。
その後王子は城に一度も戻らず小人を探し続けているという噂だが、その姿を見た者はいないようだ。
王子、小人、宝石……。
その言葉は私が読んだ童話の中で重要な役割を担っていたはずだが、未だに詳しい内容が思い出せない。どうにも頭の中がむず痒い感覚だった。
ひとまず私たちの目的は小人の後を追い、ブローチを取り返すこと。童話の物語に沿ってこの世界が動いているにせよ、そうでないにせよ、やることは変わらない。
再びモグラに礼を言った私たちは、改めて横穴を進み始めた。
「私が前を歩くからね。しらゆきはついて来て!」
小人の足取りも分かり、すっかり元気を取り戻したべにばらに私は一安心をしたが、以前よりも僅かに背中が頼りなく感じられるのは、気のせいだろうか。
「次はこっちね!」
横穴も道はいくつか枝分かれしていたが、こちらは進むべき道が明白だった。一方は蜘蛛の巣が張り、ここしばらく利用された痕跡がない。べにばらは迷いなく道を選び進み、やがて穴を抜けると久々に外の空気を吸うことができた。
「なによ、これ!」
横穴を出たべにばらは声を上げると、一人で前を駆けていく。後を追った私が前方を見ると、そこに広がっていたのはまるでとうもろこし畑だった。
密集して生える雑草の高さは先ほどまで通って来た森の比ではなく、道らしき道も見当たらない。
おまけにいつの間にか天候が悪化し始めており、頭上には分厚い雲が覆っている。太陽光が遮られるばかりか、辺りには濃霧まで発生していた。
「い、行くよ……」
べにばらは毎度のごとく先陣を切って雑草の中に足を踏み入れるものの、明らかにペースが落ちており、当初の勢いはすっかり失われていた。
彼女は恐怖に怯えている。
本質的には脆く、か弱い子供なのだ。物怖じしない性格や、堂々とした後ろ姿は端から幻想だった。
完璧な姉? ただの繊細な少女ではないか。
ようやくそれを悟った私は、自分にひどく腹が立った。他人に弱味を見せまいと必死に姉の皮を被る彼女に、見え透いた虚勢にも気づかず、目を向ける努力もしない私自身に。
大事なことに限って一人で抱え込み、感情を押さえ込むのはもうよして欲しかった。誰かに頼って、素直に泣いて、我儘を言って、そんな当たり前のことが彼女には欠けていた。
そんな当たり前を表に出さないよう追い込んでいたのは、私自身だった。
私は速度を上げ、彼女を追い抜いた。
「ちょっと、どうしてしらゆきが前を行っちゃうのよ!」
べにばらは私を後ろから追いかけながら叫ぶものの、ひどく息が上がっていた。限界を迎えてもなお無理を通し、私には頼らず平気な振りを続けてばかり……。
「怖いんでしょ? なら我慢せずに言えばいいじゃない!」
そう叫んだ私は、素早く後ろを振り返った。
そこに彼女の姿はなかった。
私は彼女の体温を感じていたはずの、自身の右手を見遣った。その手をいつの間に離してしまったのか、今では思い出せない。
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