『手を離さないでね。』

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「何だか、じめじめしてる」


 小人の消えた草むらを覗くと、木々の生い茂った薄暗い湿地帯が続いている。小さな足跡は泥濘んだ地面にくっきりとその痕跡を残していた。


 足場が緩く、多少の歩きにくさは感じるものの、細道は一直線に延びていたため「この分だとすぐに追いつくかもね」などと言い合っていたのも束の間、細道は唐突に終わりを迎えた。


「なによ、行き止まりじゃない!」


 べにばらが言う通り、細道は巨木が立ち塞がって袋小路になっている。私は立ち止まって周囲を観察した。あれ……。この壁、何だか。


「ねぇ」


 彼女に声を掛けながら私は樹木の右側に生えた草をかき分けた。それは薄らと被せてあるだけで、行き止まりに見せかけるためのカモフラージュのようだった。奥には狭い道が続いている。


「ねぇ、ここに道が――」


「こっちに道があるよ!」


「え?」


 振り向くと彼女は左側の草をかき分け、私と同じような道を発見していた。どちらも蔦がループ状に伸びたトンネルのような小道で、ひどく見通しが悪い。


 似たような道が二つ。それも左右の反対方向に延びている。


「どっちだろ」


 小人は巧妙に道を細工し、どちらにも進んだように足跡を残していた。思いのほか狡猾な奴だ。それも数歩ほど進んでしまえば地盤が硬くなり、以降はどちらにも足跡が見当たらない。


「きっと、こっちよ!」


 二つの道を順に覗いたべにばらは、勢いよく左側の道を指差した。「どうして?」と私が問いかけると、特にこれといった理由は浮かんでこないようだった。


 どのみち手がかりがないなら勘に頼るほかない。私はべにばらが示す通り、左側の道を進むことにした。


 蔦のトンネルはまるで迷路のような作りだった。通路が次々に枝分かれし、複雑に入り組んでいる。


「手を離さないでね」


 彼女は私の手を引き、狭い小道を果敢に進み続けた。


 ここは私たちの知る森の姿とまるで違っている。不自然な形に絡まった太い蔦は本で読んだ人食い植物の触手を連想させ、時おり奇妙な鳴き声や、喉に痰を詰まらせたように掠れた声、くちゃくちゃとガムを噛む音にも似た響きが周囲を行き交った。


 背中には皮膚を撫でるような冷気が伝い、春とは思えぬほどの寒気を覚えた。


 前方を歩く彼女は平気だろうか。後ろから続く約束をしたものの、やはり心配だった。「大丈夫?」とたまに声を掛けてみるが、彼女は握った拳に僅かに力を込めるだけで、返事は寄こさなかった。


「――また、行き止まり」


 彼女が久々に発した言葉は、ため息にも近いものだった。


 何度も行き止まりに行く手を阻まれ、その都度二人は来た道を引き返した。縦横無尽に続くように思われた道はごく限られた通路を除き、すべて偽物だった。いかに地理感覚に優れた彼女でも、これほどの迷路を一度で攻略するのは難しいようだ。


「……行き止まり」


「じゃあ、戻ろっか」


 こうなれば、地道に潰していくしかない。私は就活で鍛え上げたメンタルを元に、根気よく正解の道を探す覚悟を決めた。


「どうしたの?」


 後方に下がるべく私は手を引いたが、彼女はどうにも動こうとしない。振り向いてみると、べにばらはその場に蹲っていた。


 私は彼女の背中をさすりながら、「どっか痛いの? 大丈夫?」などと声を掛けたが、彼女は俯いて身体を震えさせるばかりで何も答えない。


「疲れたよね、少し休もっか」


 私は彼女の隣に腰掛けた。べにばらは黙って俯いていたが、やがてか細い声で「ごめんなさい……」と呟くと、静かに涙を流し始めた。


 ぽろぽろと流れ落ちる涙を彼女は必死で拭いながら、それでも溢れ出る水滴は止まってくれないようだった。


「何も謝ることなんてないでしょ」と私が言うと、彼女はさらに涙を流し、「だって、これ以上探せる道がないんだもん。私が左に行こうって言ったから」


「じゃあ、右が正解だよ。一回さっきのところまで戻っ――」


「このまま日が暮れちゃったらどうしよう。夜には春でもケモノが出るってママから聞いたことがあるし、今日はタイマツもマッチも持ってきてない。暗闇の中でもし足を踏み外して、崖から落ちてしまったりなんかしたら……」


「悪い方にばかり考え過ぎだよ」


「あたしが街に行こうなんて言い出さなければ、こんなことにならなかったのに」


 沈み始めた彼女の気持ちは、涙と共に止めどなく落ちる一方だった。


「ブローチなんて、最初からあげなければ良かったのかな」


「……なに言ってんの」


 最終的には私が生まれて来たせいだというところまで話が後退しそうだった。悪いのは誰か。決まっている、あの小人だ。


「ほら、立って」


 彼女の手を引き、無理やりに立たせた私はそのまま元来た道を戻ろうとしたが、やはり極度の方向音痴のため、どちらに進めば良いのか全く分からない。


「ねぇ、どっち? こっちかな」


「あっ、違う。そっちは――」


 と彼女は鼻を啜りながら弱々しく声をかけたが、すでに手遅れだった。私の身体は唐突に重力を失い、浮遊感を味わった。その後下半身に衝撃があり、気づけば目の前が真っ暗になっていた。


「しらゆき! だいじょうぶ?」


 頭上から声が聞こえ、見上げるとべにばらが涙目でこちらを覗き込んでいる。どうやら落とし穴に落ちたようだった。それほど深い穴ではなく、藁が敷き詰めてあったおかげで怪我をせずに済んだ。


「大丈夫だよ」と上を向いたまま私は答えたが、前方へ向き直るとそこには大きな二つの手と長い鼻を持つもじゃもじゃの生物がいた。

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