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日暮れ頃に母が帰宅すると、べにばらは昼間の私の奇行について問題に挙げなかった。
「でね、でね、あたしがお茶をいれてあげてぇ――」と、彼女はあれだけ身体を動かしたのに溌溂としている。容姿が変わっていても私はやはり運動が苦手で、すでに筋肉痛が疼き始めていた。
「そうね。何をするにも二人で協力しなくちゃ駄目よ」
母はべにばらの頭を撫でながら、笑顔で応えた。
「はーい」と彼女も素直に頷きながら、私の方を見て微笑んでいる。まるで昔のお姉ちゃんがそうしていたのと同じように。
懐かしい笑顔を見せられるたび、私の胸には奇妙な靄が広がっていく。私がこのまま消えてしまったら、代わりに元のしらゆきが戻ってくるのだろうか。
この子を一人きりにするのは、何か嫌だな。
コンッ。コンッ。
昨晩と同じ、丁寧なノック音が室内に響いた。どうやら彼が帰宅したようだ。
「くまさん、おかえりなさい!」
「こんばんは。べにばら」
べにばらが素早く熊を出迎える様子を、私は今日も少し離れたところから伺っていた。人見知りとはすぐに人と打ち解けられないから人見知りなのだ。
「今日は二人にお土産があるんだ」
何だろ、お肉かな。などと想像を巡らせながら、私は母の後ろに隠れて熊を眺めていた。彼は肩にぶら下げた風呂敷から小さな紙袋を二つ取り出すと、そのうちの一つをべにばらに手渡した。
「わぁい!」と叫びながらお土産を受け取った少女は、すでに袋を破り始めている。
「はい、これはしらゆきの分だ」
「……ありがと」と遠慮気味にそれを受け取った私は、ひとまず臭いを嗅いでみる。生臭さは感じなかった。そうこうするうちにお隣さんは中身を取り出し、「お花だぁ!」とはしゃいでいた。
「髪飾りだよ。二人に似合うんじゃないかと思ってね」
確かに中身は髪飾りだった。蝶々結びの形をした紐の上に、花の装飾がついている。べにばらは赤色、私のものは白色を貴重としたもので、蕾や紐の先端は黄金色に輝いていた。何とも洒落た熊か。いや、それよりも……。
「これ、もしかして街で買ったの?」
つい身を乗り出した私は、熊の前に立ってそう尋ねていた。
「そうだよ。今日は柵の修理を手伝う約束をしていたからね」と彼は軽い調子で答えた。
熊のくせに、街の人間とも交流があるのか。
「街には何があるの?」
「おや、しらゆきは街に行ったことがないのかい?」
熊は私に顔をぐいっと近づけながら尋ねた。威嚇するように見開かれた瞳は、見た目には恐ろしいけれど、きっと驚いた表情なのだろう。
「えっと、その……」
恐れと戸惑いの入り混じった表情で私が言葉を詰まらせると、べにばらが母に髪飾りをつけてもらいながら、「違うのよ、くまさん」と割って入った。「この子ね、キオクソウシツごっこに夢中なの」
「へぇ、記憶喪失ごっこか」熊は鋭い鉤爪で顎に触れ、「そりゃまた斬新な遊びだね」と言って鼻息を荒げた。
「はい、良いわよ」と母からお許しを受けると、彼女は髪飾りを自慢するように「どう?」と言いながらその場でくるくると回転し始めた。
その姿に私は、強烈なデジャビュを感じた。
「とっても似合うよ」と、熊は何度か頷いている。
「それじゃ二人とも、そろそろご飯の用意をしましょうか」
私たちに向けて母がそう言うと、「くまさんのハチミツはあたしが用意するから!」と少女は逆回転をしながら答えた。
「お姉ちゃ――」と私は言いかけたが、彼女はそこで突如回転を止め、「そうだ! 春になったらくまさんがあたしたちを街に連れて行ってよ」と愉快な調子で熊に擦り寄った。
彼女にそう言われた熊は、歯を食いしばるような表情を見せ、「ごめんね。春になったら、僕は旅に出ないといけないんだ」と申し訳なさそうな声で答えた。
「たび……? たびって、何をするの?」
べにばらは首を傾げながら、どこか不安げな表情でそう尋ねた。熊はそんな彼女の頭にそっと手を乗せると、「旅っていうのはね、家を離れて遠くへ行くことなんだよ」と答えた。「しばらくは帰ってこられないと思う」
「…………」
俯いたべにばらは拳を握りしめ、今にも泣き出してしまいそうだった。
「どうしても、行かなきゃだめなの?」
「大事な探し物があるからね」
熊は彼女に顔を近づけると、「でも、もう少し先の話さ。冬の間はここでお世話になるつもりだから、その間にたくさん遊ぼう」と言った。
「うん」
呟くように答えたべにばらはおもむろに顔を上げると、何故だか笑顔を浮かべている。
あの子は、泣いてはいけないと思っている。熊を困らせまいと悲しみを押し殺し、無理やりに笑顔を作っている。子供らしく、素直に泣いてしまえば良いのに。
「それじゃ、あたしはママの手伝いするね」と言うと、彼女はそのままキッチンの方へと走り去った。
「ねぇ熊さん。大事な探し物って、何?」
熊と二人きりになった私は、思い切ってそう尋ねた。童話の中でも、熊は探し物をすると言って春になると姉妹の元を去っていった。その探し物が、私にはどうしても思い出せない。
べにばらの後ろ姿を追っていた彼は私の方に視線を遣ると、これまた歯を食いしばりながら唸り声を上げ、「それはね、まだ言えないんだ」と静かに答えた。
「言えない?」
熊は私に顔を近づけ、「春になれば、いずれ分かるさ」と言うと、暖炉の方へと身体を温めに行った。私はそんな彼の後ろ姿を眺めながら、不思議と胸騒ぎを覚えていた。
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