『本の読みすぎなのよ!』

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 どうにも、目が冴えてしまった。


 月明かりに照らされたロフトの寝室では、隣で眠る少女が寝息を立てている。私はそっと上体を起こし、身体を伸ばした。


 昼間の薪割りのせいで全身が痛む。階下の二人はすでに就寝しているようで、微かな衣擦れの音にすら注意を払わなければならないほど、辺りは静けさに包まれていた。


「あ」と試しに声を発すると、思いのほか激しい反響を引き起こした。私は慌てて耳を塞ぎ、お隣さんの様子を窺った。


 彼女は起きる気配を見せず豪快に寝返りを打つと、掛け布団を退かした。私はそれを整えてあげながら、彼女の寝顔を眺めた。


 静けさは、時の流れを歪曲させる。彼女の寝顔を眺めている間にどれほどの時が経過したのか、まるで見当がつかなかった。


 長い欠伸をし、再び眠気が訪れたところで私はベッドに横たわった。しかしながら、先ほどまでなかったはずの眩しさが、頭頂部の方から感じられる。


 身体をうつ伏せにしてそちらに目を遣ると、本棚に収まった一冊の本の隙間が僅かに光り輝いていた。本の輪郭に沿って漏れ出る暖色の光を見つめる私は、恐怖心よりもむしろ好奇心が勝っていた。


 気づけば手を伸ばし、光源を塞ぐ本に手を触れている。上部を傾けると光の勢いが増し、思い切って本棚から引き抜いた私は、奥に空間があることに気がついた。


 隙間に顔を寄せ、灯りを覗き込むとそこには見覚えのある部屋が広がっている。簡素な調度品に、涼しげなスカイブルーのカーテン。視線を右に移すと、カーテンの方を向いて蹲る一人の女性の後ろ姿が見えた。


 スーツ姿の女性は長い髪を後ろで一つに束ね、女の子座りをしながらやや斜めに姿勢を傾けて肩を落としている。傍らには赤いノートが見られ、彼女はそれをゆっくり捲り始めると、小声で何かを呟きながら紙の上に涙を垂らし始めた。


 初めは静かに啜り泣いていた彼女だが、やがて嗚咽交じりに鳴き声を荒げると、崩れ落ちるようにその場に伏した。


「泣かないで」


 私は彼女に声を掛けた。そのつもりだった。


 けれど突然声帯を失った私の声は、空気を震わせることができなかった。彼女の涙は次第にノートをふやけさせ、床の上に溢れだし、膝の下に水溜まりを作った。


 流れ出す水量は徐々にその勢いを増し、気づけば部屋を覆うほどに荒れ狂った涙の洪水は渦を巻き、まるでダムが決壊するように本棚からこちら側に流れこんだ。


 涙の渦に飲み込まれた私は、その流れに身を任せながら彼女の言葉を聞いていた。その言葉の裏には、目の前の現実に対する彼女の葛藤や暗然たる思い、自らへの落胆が含まれていた。


「寒かったから、降りるのが面倒になっちゃったんでしょ」


「まぁ、そういう解釈も……」


 庭先で湿った布団を干す母の後ろ姿を眺めながら、私は恥ずかしさに頬を赤らめた。


「やっぱりしらゆきは、まだまだお子ちゃまよねぇ」


 べにばらは私に向かって茶化すようにそう言ったが、「あんたもたまにするじゃない」とすかさず母に反撃されている。


「最近はしてないもーん」と答えると、彼女は陽気に口笛を吹きながら軽い足取りで家の中に去っていった。


「ごめんなさい」


 私は項垂れて謝罪の言葉を述べたが、振り返った母はにこやかな表情を浮かべると、「子供はね、おねしょをするものなの。だから、気にしないで良いのよ」と頭を撫でた。


「もう少し大きくなったら、それも自然となくなるから」


 その大きくなった娘が、目の前の私ですが。


「今日も二人でお留守番よろしくね」


 朝の食事を終えると、母は街へ仕事に出かけていった。私たちは昨日とほぼ同様の手順で家事を進めていく。べにばらは相変わらずサボったり、歌ったりと大忙しだった。


「ねぇねぇ、お昼食べたら岩場までお散歩に行きましょうよ!」


「薪割りは?」


「今日は必要ないわよ」


「ふうん」


 岩場は昨日も行ったので、ある程度の距離感は把握している。正直言って身体は痛いし、眠りが浅かったせいで倦怠感が取れない。


「ねぇ、行こうよ」


「そんなに行きたければ、一人で行ってくれば?」


 そう返した私は、聞き分けのない子供に対する親のような気持ちだった。どのみち強引なあの子のことだから、もうしばらくは食い下がってくるだろうと予想したのだが、彼女は意外にも「……わかった」と呟くと、俯いたまま食器を流し台に運び始めた。


 機嫌を損ねてしまっただろうか。


「べにばら」と小さく呼びかけてみたが、彼女は食器を片付けると梯子を登って子供部屋の方に行ってしまった。


 まずいことをしでかしたと直感した私は、急いで彼女の後を追った。梯子を登りきって室内を窺うと、彼女は窓の近くに佇みながら静かに外を眺めている。


「べにばら」と再び後ろから声を掛けると、彼女は外を眺めたまま、「……約束したもん」と小さく呟いた。


「二人はいつも一緒だって。だから――」


「さっきのは冗談だよ」


 私は次の言葉を待たずして、すぐさまそう返した。すると彼女はゆっくりとこちらを振り返りながら、「ほんと?」と尋ねた。


「ほんと。岩場まで案内してくれる?」


「うん!」


 すぐさま元気を取り戻したように見えた彼女だったが、こっそりと窓の方を振り向きながら「……良かった」と隠れて呟いたのを、私は見逃さなかった。

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