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 台所にいたはずのべにばらは瞬く間に私の前を走り抜け、「帰ってきたぁ!」と叫びながら玄関の扉を開いた。


 扉に視界が遮られた向こう側で「ただいま」と彼女に応えたのは、穏やかな男性の声だった。それは聞き覚えのある、あの紳士的な声。


「……えっ」


 と、思わず私は息を飲んだ。


 扉の外から少女に向けて伸びた手は、腕全体が焦げ茶色の体毛に覆われていた。指先から飛び出た漆黒の鋭い鉤爪は、まるで少女の頭を鷲掴みにしているようだった。そのまま部屋の中に招き入れられた男の姿に、私はみるみる顔が青ざめていく。


「やぁ、こんばんは。ママ、しらゆきも」


 私と母を交互に見遣りながら挨拶を寄越したのは、恐ろしく巨大な熊だった。声の調子からジャンの姿を期待していた反面、驚きも大きかった。扉の高さを優に超える二足歩行の巨大な獣は、こちらに向かって気さくに片腕を上げている。


「寒いでしょ。早くお上がんなさいな」


 それに応じる母もまた、怖がる様子を一切見せず気軽に挨拶を交わしていた。


「…………」


 何事も平常心。これは夢の中で、きっとあの姿にも意味があるのだ。私は頭を働かせるため、強く目を瞑った。熊、熊……。熊さん……。


『――とある冬の間、寒い夜に暖を取るため、我が家に一頭の熊が訪れました』


 そんな冒頭の語りを、姉が読み聞かせてくれた場面がふと蘇る。やはりあれは、童話の登場人物のうちの一人。この家族とは、一体どういった関係性だったか。


「しらゆき。どうかしたのかい?」


「えっと……」


 夢の中とはいえ、やはり本物は恐すぎる。眼前の巨体に恐れ戦いた私は、慌てて後方に退くとその拍子に机に身体をぶつけ、準備してあった卓上のスプーンを床にぶちまけてしまった。熊は素早く巨体を屈めると、鋭い二本の鉤爪で器用にそれらを拾っていく。


「はい、どうぞ」


 私にそれらを手渡した熊は、こちらを見つめて鼻息荒く頷きながら、べにばらにした時と同じように私の頭に手を置いた。


「あ、ありがとう」


「どういたしまして」


 触れられる瞬間つい肩が強張ったものの、その感触は驚くほどに柔らかで温かかった。


「くまさん、寒いでしょ。こっちおいでよ!」


 べにばらは彼の手を引くと、薪ストーブの方に向かって歩いた。熊は彼女に続きながら、「良い匂いがしますねぇ」とくんくん鼻を鳴らす。


「今からご飯を食べるところなの、一緒にどう?」と母は尋ねた。


 熊は床の上にどすんと腰を下ろしながら、「いいえ、今日は外で済ませてきましたので。お気遣いありがとうございます」と答えた。


「よろしければ、食後の蜂蜜を少々いただけますか?」


 何とも、紳士的な受け答えか。本当はあれも着ぐるみで、中にジャンが入っているということは考えられないだろうか。


 熊の背中にそっと手を触れると、もじゃもじゃの体毛の中には柔らかな皮膚の感触と、体中に血が巡る生々しさが感じられた。


「なんだい、しらゆき?」


 後ろを振り返った熊の眼圧に、私は思わず顔を背けながら「……別に」と答えた。


 いつの間にか隣に移動していたべにばらは耳元に顔を近づけると、「牛乳にハチミツ入れて飲むとおいしいよね。あとで一緒に飲もっか」と呑気なことを口にしていた。


「――あ、懐かしい味」


 またしても、心の声が漏れ出てしまった。


「三日前にも同じの食べたじゃない」


 机の向かいに腰掛けた母からはそう言われたが、私にとっては懐かしき母の味だ。一人暮らしを始めてからは、実家にも滅多に帰っていなかった。姉も仕事で忙しかったため、家族揃って(父は熊とすり替わっているが)食卓を囲むことなど久々の事だった。


「くまさん、今日はなにしてあそぼっか!」


 隣に座るべにばらは、あたかも親戚のおじさんが泊まりにやってきたように無邪気な様子で尋ねている。


「先にご飯食べちゃいなさい!」と、落ち着きのない長女に向けて母は一喝した。


「はは。べにばらはいつも元気だね」


 床に座った熊はそう答えると腕組みをしながら、「そうだなぁ。できればこの間のお馬さんごっこは遠慮してもらえると有り難いな。あれは腰に悪いから」


 木製のジョッキに湯を入れ、そこに大量の蜂蜜を投入したものが熊の前に置かれている。ひょっとして、あれを犬みたいにぺろぺろ舐めるのかもしれないと私は想像したが、熊はどこまでも紳士的にコップを掴み、上品に口元へ運んでいた。

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