『やはり本物は恐すぎる。』
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「……可愛い」
灯りの見えた安心感からか、思わず漏らした心の声はそんな言葉だった。身体はとうに限界を迎えているはずが、呑気な感想である。
「ほら、ついたでしょ!」
少女べにばらが案内してくれたのは、森の中に佇む丸太のログハウスだった。絵に描いたような三角形のお屋根に、もくもくと白い煙が立ち上る煙突、窓や扉の隙間からは暖色の光が漏れ出ていた。
トトンッ、トンッ、トントン。
暗号通信のようなリズムで少女が扉を叩くと、まもなくして鍵を開ける音と共に扉が開いた。現れたのは、まぁ予想通り我々の母だった。それも全盛期とも言える若々しさだ。夢の中だというのになんとも律儀な計らいか。
「あんたたち……」
こちらを睨みつけながら仁王立ちする母の姿は、まるで髪を伸ばした私自身を見上げているような感覚だった。
「お母さ――」と私が口を開きかけたところに、まさしく落雷とでも呼ぶに相応しい怒号が降り注いだ。
母の突然の激昂に、思わず私はその場で跳ね上がった。それに比べ、隣の少女は静かにじっと佇んでいる。隙を見て横目で確認すると、こいつ、両手で耳を塞いでるじゃないか。
小賢しいやつ。
涙がこぼれ落ちそうなほどに恐かった。人に怒鳴られた事などいつ以来だろうか。
ひとしきり母が怒鳴り終えるとべにばらは耳から手を離し、「あたしたちね、ひつじの行進を見に行ってきたの!」と興奮気味に話した。
火に油を注ぐとは、まさしくこの事か。母は再び顔を真っ赤にし、「……なんてこと。あそこには近づいちゃ駄目って、何度言えばわかるの!」と、一度は沈みかけた怒りをぶり返した。
「タイマツを持って行ったから平気よ!」
べにばらは平然とした様子でそう答え、「ちゃんと私たちを避けていったもの。迫力があってすごかったわ!」と大袈裟な身振り付きで解説した。
「通路に、入った……?」
母を包む空気が、ヒリヒリと揺れる。「またべにばらが誘ったんでしょ! こんなにしらゆきを怖がらせて」
そう言い放つと、母は腕組みをしてそっぽを向いた。
「今度こそ、あそこには近づかないって今ここで約束して。でないとお母さん、腹の虫が治まらないんだから」
「はーい」と気のない返事をした少女は、目を瞑って片手を上げた。誓いのポーズのつもりだろうか。
「ほら、しらゆきも」と肘で突かれたので、私も彼女に合わせて弱々しく片手を上げる。横目でそれを眺めていた母は、大きくため息を漏らすとこちらへ向き直り、「よろしい。それじゃ、ご飯にするから二人とも手を洗ってきなさい」と穏やかな口調で言った。
「はーい!」
べにばらは勢いよく返事をすると、「行こ、しらゆき」と言って私の手を引いた。
その手は僅かに震えている。似た者同士は互いの扱い方をよく心得ているものだ。べにばらはきっと、私に向けられるべき母の怒りを自分の方へと誘導するため、あのように挑発的な発言をしたのだと後になって気づいた。
「――でね、でね、あっ。これ使うとすっごいあわ立つよね! なんでだろ?」
あちらへ飛び、そちらへ飛び、無限にお喋りを繰り広げる彼女が手洗い場で手にしたのは、石鹸用の泡立てネットだった。こういった類の道具は邪道っぽくて、私は好きじゃない。手元のネットで執拗に石鹸を泡立てつつ、なおも加速する少女のお喋りを半分以上聞き流しながら、私は石鹸だけで泡を立て始めた。
「ほら、こっちの方がもこもこよ!」と、彼女は自慢げに自身の泡を見せつける。確かに、文明の利器が相手では分が悪い。
「今でこのくらいだから、私がそれを使ったらあなたよりは泡立つよ」
ただの負け惜しみだったが、私は意地悪な表現で少女を挑発してみた。すると彼女は、「違うもん、それでもあたしの方があわ立つもん!」とむきになって根拠のない意見を述べる。やはり子供だな。
「でも、お腹すいたねぇ」
どの文脈に対する『でも』なのか。けれど、確かに私もお腹がぺこぺこだった。扉を開けた瞬間から漂っているシチューのような香りに、何度も喉を鳴らしてしまう。
奥の手洗い場から入口付近の広間に戻ると、薪ストーブの暖かさに身体がとろけそうだった。中央に置かれた木製の机上には食器類が並び、大皿のサラダやフルーツ、カゴに盛られたバゲットなどが見えた。
ほかにも天井から吊るされたドライフラワーに、アンティーク調のランプ、ペルシャ絨毯のような模様のラグなど、こちらの世界の母はなかなか良い趣味をしている。
「あの……」
机の上には、私たち三人分の食器しか用意されていなかった。
「どうしたの?」と察し良く問いかけるお隣さんは相手にせず、私は頭の中で考えを巡らせる。父は帰ってこないのだろうか。
しばらく考えた末に「あっ」と声を漏らした私は、この状況にすぐ合点がいった。姿かたちは私の家族でも、この夢はあの童話が舞台なのだ。確か姉妹には母親しかおらず、町外れの森の家に三人でひっそりと暮らしていた。
「そっか」
若い頃の父は、少し見てみたかった。
「ねぇねぇ、どうしたっていうのよ!」
私の考え事に関心を示す少女はひどく過干渉で少々、いや、かなり鬱陶しい。姉の少女時代もこんなものだったのか。
「何だろうね」と私が受け流すと、彼女は不服そうな表情を浮かべたが、「あたし、ごはんのお手伝いしてこよっと!」と今度は台所に駆けていった。
子供は切り替えが早くて助かる。私も彼女の後に続いて台所の様子を見に行こうとしたが、「コンッ。コンッ」と室内に突然扉を叩く音が響いた。
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