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ドタバタと音を立て、トラクターのように大ぶりな毛むくじゃら。綿菓子を思わせるその姿を見た私が「ひつじ……」と悠長に呟く間にも、巨大羊の大群は騎兵隊のような勢いで突撃を仕掛けてきた。
思わず瞼を閉じた私は、両手で頭を抱えながら地面に伏せた。
「……あっ。……うぁ……」
直前で左右に割れた巨大羊の行軍は、走行中の列車を間近で感じるような凄まじい轟音と風圧だった。地面を激しく殴打する足音に混ざり、周囲の木々をなぎ倒す音が響き渡る。
今にも吹き飛ばされそうな恐怖と隣り合わせの状況にも関わらず、私の頭はさらに回転を増す。
どうして、こちらを避けるのか?
私は勇気を振り絞り、激しい揺れに耐えながらゆっくりと顔を上げた。
目の前には両手を天に掲げながら足を開いて立つ小さな後ろ姿があった。指先には太い木の棒が伸び、頭上に見えるのは橙色の光。それは、熱く燃えたぎる本物の炎だった。
羊の群れは矢のような勢いで我々の横を通過すると、瞬く間に遥か遠くへ去ってしまった。
私は身体を伏せたまま、恐る恐る周囲を伺った。炎の揺らめく薄明かりの中、視界に映るのは無残に踏み散らされた立派な大木たちばかり。もしも彼らが避けてくれなければ、今頃は私も……。
目の前に立つ人物はこちらに背を向けたまま大きく深呼吸すると、息を吐きながらゆっくりと腕を下ろした。その動きに合わせ、周囲の淡い温もりも揺れる。
可愛らしく丸みを帯びた革靴に、足首までくる赤いワンピース、そして、背中を覆う長い髪。よく見ると、まるで子供ではないか。
「だいじょうぶ?」
幼い声と共に、彼女はこちらを振り返った。恐ろしく端整な顔立ちをした少女だった。例えるなら、それは――。
「……お姉ちゃん」
と、私は小さく呟いた。
「たてる?」
少女は両手で抱えていた松明を左手に移すと、私の方に右手を伸ばした。
私が目の前に差し出された小さな手を反射的に掴むと、少女はいとも容易く、片手で引っ張り起こした。
大人の私をこんなにも軽々と……などと思いながら立ち上がった私は、改めて少女を眺めた。
その姿はやはり、子供の頃の姉とそっくりだった。
子供。それにしては、意外に背が高い。目線の高さは大人の私とほぼ同等で……。
「夜にはひつじさんたちの通り道になるから来ちゃいけないって、ママに言われたじゃない! あたしがタイマツを持っててよかったわ。ずいぶん探したんだから」
「なん、で……?」
気づくのがあまりに遅すぎた。
「え、私……」
あの河川敷で私は、リクルートスーツを着ていた。
「あっ、手が」
それが今では、薄汚れた白いワンピースに変わっている。それどころか――。
「……小さい」
私の身体は、目の前の少女と変わらぬ大きさに縮んでいた。
「ねぇ、きいているの?」
私は面食らった表情で少女を見つめ、目を見開いていた。
「ねぇ、しらゆき。あなた本当にだいじょうぶ?」
そう言うと、姉の姿をした少女は私の顔を覗き込み、「ひどい顔してるじゃない! まるで去年のクリスマスに会ったパームじいさんみたいよ」
「パ、パーム? しらゆきって誰の……」
「おなかでも痛いの? ほら、早く行こ。ママが心配するわ」
彼女は私の腕を引き、松明の灯りを頼りに暗い森の中を歩き始めた。
道なき暗闇を、少女は迷いなく進み続けている。周囲の木々、雑草、それに花も。突然変異を起こしたようにそれらが巨大化した理由は、私の視点が低くなっていたからだった。歩幅も狭く、思うような速度で前に進むことが叶わない。
長くて柔らかな茶褐色の髪、フード付きの赤いワンピース、話し方や表情、仕草まで、彼女は少女時代の姉とまるで瓜二つだった。
蔦の蝶々結びは、彼女の仕業だろうか。
「道は、分かるの?」
「だいじょうぶ、あたしにまかせて!」
私たちは長い間森の中を彷徨っていた。この絶望的な疲労感はどこか懐かしい。私の手を引く姉の後ろ姿。森を通り抜ける湿った空気。それに、”しらゆき”という愛称。まるで風に乗って、昔の記憶が私の中になだれ込んでくるようだった。
しらゆき。
幼い頃に姉からそう呼ばれた時期がある。私たち姉妹は、とある童話に影響を受けていた。それは二人の大好きな童話で、色違いのワンピース姿で手を繋ぎながら外出した姉と私は学校の裏山や森林公園、そんな樹木の生い茂った場所に訪れては童話のごっこ遊びに勤しんでいた。
童話の名前は確か”しらゆきと――”。
「……べにばら」
「ん。なぁに?」
私の声に応じながら、前方を進む少女は立ち止まってこちらを振り返った。
「あぁ。えっと……」私は混乱する頭を必死に働かせ、「あの、突然変なことを聞くけど。あなたは、べにばらなの?」と少女に尋ねた。
「うん、そうよ!」
「それで、えっと。本当は私のお姉ちゃんなの? 背が縮んだだけ?」
「しつれいね! これでもあなたより二センチは高いんだから!」
彼女は怒ってそっぽを向いたが、すぐにこちらへ向き直り、「ねぇ。それ、なんのお遊び?」と首を傾げた。
……嘘でしょ。
「お姉ちゃん、だよね?」
声が震えていた。祈るような想いで、私は尋ねた。
けれど目の前の少女は無垢な表情を浮かべたまま、小さな手のひらを私の額に当て、「うーん。お熱はないよねぇ? もう少しでおうちだから、一緒にがんばろ!」と子供っぽい口調で励ましの言葉を寄越すと、首に巻いていたマフラーを外して私に巻き始めた。
「はい、これで寒くないからね!」
この子は、私のお姉ちゃんじゃない。本当に、ただの子供だ。
私と同様の現象が姉にも起きたのではないかと薄っすら期待したものの、そうではなかった。そもそも姉は今入院中のはずだし、身体が縮むなんて現象が現実の世界で起こりうるものだろうか。
あぁ。……そうか。
「なんだ、夢か」
少女の手に引かれながら、私はため息を漏らした。縮んだ身体も、姉にそっくりな少女も、これは私が作り出した悪い夢。それなら、なるようになれば良い。
「何か言った?」
前を向いた少女は再び立ち止まろうとしたが、「何でもないよ」と私が速やかに答えると、軽やかに歩き出した。
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