『怖いくらいに静かだった。』

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 一面に枯葉色の草原が広がっていた。


 視界の先には建物一つ見当たらず、確かに存在したはずの巨大なタワーマンションや日本家屋、右手に流れる河川までもすっかり消え去り、周囲に生い茂る草花は異様な成長を遂げていた。車一台、人ひとり、猫一匹として気配を感じられず、怖いくらいに静かだった。


 緩やかな下り坂の先に広がる深い森は、まるで城壁のような威圧感を放っている。


「……寒い」


 あれほどの熱量と光線を放っていた太陽は姿を隠し、分厚い曇天が空を覆っていた。吹き抜ける風は季節を一つ、二つと瞬時に跨いでしまったように凍てつく冷たさだ。今にも雪が降り出しそうだと思い、震える両手を擦りながら正面に目を凝らすと、遥か遠くに聳え立つ山々の頂きには薄らと雪が降り積もっていた。


 すぐに引き返さなければならない。


 そう直感した私は、咄嗟に後ろを振り返った。けれど今しがた潜り抜けたはずの橋は、直径数メートル程はあろうかという大きな洞窟の入口に差し替えられている。


「おーい」「誰かぁ」と、果てしない暗闇に向けて呼びかけるものの、壁面に反響された声は吸い込まれるように奥へと消え入り、再び静寂が舞い戻る。


 私はその場で頭を抱えたまま、円を描くようにぐるぐると歩き回った。


 ここは一体、どこ? 河川敷を歩いていたはずなのに気づけば見知らぬ土地に立っていて、植物は異様に成長している。それにこの肌を刺すほどの寒さ……。


 このままでは凍えてしまう。来た道を戻ろうにも先ほどとは地形が異なっており、どちらに進めば良いのやら見当がつかない。


 目の前の洞窟に入るべきか……。


 立ち止まった私は、横目でちらりと洞窟の入口を見やった。


「…………」


 無理だ。暗すぎて前に進めそうにない。


 私は再びその場で円を描き始めたが、すぐに足踏みを止め、今度はじっと押し黙って耳を澄ました。


 何の音?


 それは坂道を下った深い森の奥から聞こえてくるようだった。丘の上から眺める深緑の壁は不気味にさざめき、予想がつかないほどの奥行きである。もしあの中に立ち入れば、方向感覚の鈍い私は迷子になってしまうかもしれない。


 迷子……。それなら今もすでに目的地を見失っているではないか。ならばいっそ、気配を感じたそちらに赴くべきか。


 そう考えた矢先、森の奥で小さな閃光が走った。


 自然発生した光とは思えない。あれはきっと、――人為的な灯り!


 私は光の方角へ導かれるように、丘を駆け下りた。


「これは、さすがに……」


 首を後ろに反らせ、垂直に近い角度で見上げてもなお、樹木の頂点は遥か先にあった。


 思いのほか距離があった森の入口までようやく辿り着いたものの、いざ中へ足を踏み入れるための勇気が持てない。密集した大木に囲まれた空間は太陽光がすっかり遮られ、これでは先ほどの洞窟と良い勝負ではないか。森へ向かう間に先ほどの灯りも見失ってしまった。


 ここで留まるべきか。それとも進むべきか。


 俯いて頭を悩ませていると、足元に咲く白い花にふと目が留まった。花弁の中央には薄紅色の細い柱が密集して生え、その周囲をゼリー状の黄橙色おうとうしょくが点々と取り囲んでいる。まるで打ち上げ花火のように鮮やかな構成の花だった。


「キレイ……」


 これまでに見たことのない花の存在に思わず心惹かれ、手を触れようと屈んだところで、私は視界の隅に奇妙な結び方をした蔦を捉えた。


 蝶々結び……。これには、どこかで見覚えがあった。


 人の手によって蝶々結びされた蔦を食い入るように見つめた私は、脳内で永い眠りに就いていた記憶の引き出しをがさがさと漁った。苦労して過去の断片を勢いよく掴み取ると、頭の中にある言葉が浮かんできた。


『――ねぇ。かくれんぼしよっか』


 子供の頃、どこかの森林公園で遊んだことがある。この蔦の結びは我々だけのルールで、隠れた人物を探し当てるための手がかりだった。こんな真似をしていたのは……。


 私は蔦に触れ、周囲に目を配った。あるはずがないと理性を働かせながら、同様の仕掛けが近くにあるのではないかと、身体が勝手に探し始めていた。


 先ほどの蔦を中心に周囲を探索するうち、私は蔦の蝶々結びをさらに一つ発見した。本当に彼女の仕業だろうか。けれど、どうしてこんな見覚えのない場所で……。


 不気味で薄暗い、巨木の葉がひしめく森。もし足を踏み入れていれば必ず覚えているはずだ。


 立ち止まると、すぐさま体温を奪われる。あれこれ考えていても仕方がない。もう少しだけ、同じ印がないか探してみることにしよう。


 久美の言うとおり、私は妙なところで大胆なのかもしれない。


 著しく光源が低下しつつある森の中で、私は目を細めながら地面に目を配っていた。印はあちこちに点在し、今ではこの蝶々結びを先導役として進むことに何の抵抗も感じなかった。


 頭上はどこまで行っても木の葉の天井に覆われ、隙間から微かに覗く空は初めに見上げた灰色に比べ、明らかに黒へと近づきつつあった。


 このまま日が暮れれば、周囲は完全に真っ暗闇だ。そうなれば頼みの綱も探せなくなる。逸る気持ちを抑えつつ、私は丁寧に一つずつ印を追い続けた。


「――ない。ない!」


 とうとう、目印が途切れた。周囲は暗闇に覆われ、これ以上の探索は困難だ。途方にくれた私は、その場に膝をついた。すると――。


「……地震?」


 足元から振動が伝わり、立ち上がって辺りを眺める間にも揺れは激しさを増していく。


 またそれとは別に、地面を激しく打ち付ける騒音が遠方から聞こえてきた。


 これは地震ではなく地響きだと、雪崩のように低い轟音で予想がついた。何かがこちらに近づいてくる。それも、無数の足音。


 音によって引き起こされる振動が、身体中にびりびりと響いた。気を抜くとその場に倒れ込んでしまいそうだ。


 逃げなければ……。


 頭では理解出来ても、身体が言うことを効かない。私は恐怖のあまり足が竦んでいた。


 ……来る! と思った瞬間、私が目にしたものはあまりにも意外な生き物だった。

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