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「〈しらゆき――〉なんだったかしら? そんな名前のアニメか何かにハマって、二人でよく真似して遊んでたでしょ」
しらゆき、姫……?
「いっつもお洋服汚して帰ってきて! 洗濯するの大変だったんだから。あんた、覚えてないの?」
はっきりとは覚えていない。だが今の母の話を聞き、私の頭の中には少しだけ過去の情景が思い浮かんだ。姉妹でよくどこかの茂みの中を徘徊していたような気がする。なぜそのようなことをしていたのだろうか。
私は幼い頃、姉によく遊んでもらった。けれどそれも小学校に上がるまでの話で、学校に通い始めてからは互いにそれぞれの友人達と過ごすことが多くなっていた。
「あぁ、そうだ。お花の水取り替えとかないと。またジャンさんにやらせちゃ悪いものね」
立ち上がった母は椅子を叩きながら、「あんたは座ってなさい。ヒールで歩き回って疲れてるでしょ」
私は言われるまま、椅子に腰かけた。生暖かい感触は、母が今までそこにいた証だ。
線の細い母の後ろ姿を見送りながら、私は小さくため息を漏らした。姉が会社を辞めたことを、母はすでに知っているに違いない。私には就職活動の負担にならぬよう黙っているのだろうか。
上司との件は、果たして知っているのか……。
私は赤いノートに写真を戻し、じっと目を凝らしていた。すると突然手元に風を感じ、ページがぱらぱらと捲れ始めた。
窓が、開いていただろうか。
顔を上げると、先ほどまでベッドに横たわっていたはずの眠り姫は、いつの間にか上半身を起こしていた。
「お姉……ちゃん?」
不気味な角度に首を傾けた彼女は、目を見開いて執拗にこちらを見つめている。
「…………」
私は目を瞬かせ、彼女の姿をじっと見つめ返した。先程までの艶やかな肌は嘘のように乾き、目も虚ろで、生気の感じられない青白い表情をしていた。
「――どうして、来てくれなかったの」
と、彼女が言葉を発したように感じた。
私は椅子を倒しながら、咄嗟に立ち上がった。彼女から視線を逸らさぬように見つめ合ったまま、じわりじわりと後退る。
後ろ手に扉の感触を感じたと同時に素早くスライドして振り返ると、そこには今にもノックをしようと右手の拳を握りしめるジャンの姿があった。
私は思わず、「はっ」と息を飲んだ。
彼の左手には、真っ赤な花束が抱えられている。
「葉流さん! お久しぶりです」彼は柔らかな表情で挨拶を寄越す。
「……こんにちは」
血の気の引いた私の表情を、彼はゆったりとした動作で覗き込みながら、「どうかしましたか?」と深刻そうな声で尋ねた。
私はそれに応える余裕もなく、手に持った赤いノートを強く握りしめたまま恐る恐るベッドの方へ振り返った。そこには、静かに横たわる眠り姫の姿があった。病室を訪ねた際と変わらぬ、瑞々しくも美しい姿。
「……なんでも、ありません」
それだけ答えるのが、精一杯だった。私は早足に病室から去ると、無我夢中に廊下を進んで屋外に出た。
お姉ちゃんは、私のことを責めてる? ……私が悪いの?
ぶつぶつと独り言を呟きながら足早に歩を進めた私は、気づけば近くの河川敷を歩いていた。殺人的な日差しにさらされた川沿いの道を歩く者の姿は自分以外にはなく、まるで砂漠の中を延々と一人で歩き進むような心地だった。
河川の水面に太陽光が反射し、上質な宝石のような輝きを放つものの、それもちらりと眺めただけで私は必死に足を動かし、俯いたまま砂利道を進んでいた。
日差しが痛いほどに眩しく、熱い。このまま歩き続ければ、いずれは干物になれるかもしれない。皮膚の水分は蒸発し、老婆のように干からびてげっそりとした自分を想像すると、周囲の猛烈な暑さにも関わらず、首筋から背中にかけ冷たい汗が噴き出した。
大きな橋の下に入ると、幾分か暑さがしのげた。このまま太陽に見つめられて老婆のように干上がるのも、干物になるのもお断りだった。しかしながら、足を止めれば何か良くないものに追いつかれてしまうような焦燥に駆られ、私はなおも地面を見つめて歩き続けた。
「――川上先輩と遠藤先輩が付き合ってたのは、確かだと思うよ。誰にも内緒にしてたみたいだけど、休みを取る時期も良くかぶってたし」
ナルミハルタにそう言われた私は、疑問に思った。
「職場恋愛が禁止されていたんですか?」
なぜ二人は関係を隠す必要があったのだろうか。それを聞いた彼は声を潜めながら、「あの人さ、実は既婚者なんだよ」と答えた。
「既婚者……」
姉が、不倫をしていたということだろうか。
確かに年上が好みだと以前に話していたような気もするが、それにしたって、あの清廉潔白な姉にはどうにも似合わないように思えた。
「これもあくまで噂なんだけどさ」
勿体ぶったようにそう話すナルミハルタは、どこか面白がっているように見えた。傍観者はどこまでも気楽で、卑劣だ。
「遠藤先輩を振った川上先輩が、良からぬデマを流して自主退職を促したんじゃないかって」
「どうして、そんなことをする必要があるんですか」
仮にも恋人であった相手なら、そんなひどいことはしないはずなのに。
「それはもちろん、不倫がバレたら困るからだよ。奥さんや役員に話されないよう、手切れ金とかも渡したんじゃないかって。ほら、川上先輩はそろそろ役員にどうかって上から打診されてたところだからさ。足手まといは早い所縁を切っておきたかったんじゃないのかな」
「足手まとい……」
「あっ! これはあくまで、周りの奴らが噂してることであって、俺の気持ちではないからね。俺は遠藤先輩の事すげー尊敬してたし、今でも、大丈夫かなって心配してるっていうか」
それでも、手は差し伸べなかった。声は挙げなかった。
ほんの少しだけ、肩を貸してくれたあの人。その彼に崖の上から突き落とされた姉は、誰かに助けを求めることができたのか。社内の人間すべてから痛々しい目で見られ、不信感に陥り、その上で信頼のおける人間が何人残っていただろうか。
『私ね、あんたにちょっと聞いてもらいたいことが――』
その言葉がふと、脳裏に蘇った。姉は一人きりで二か月以上も暗い気持ちを抱えたまま心を痛め続け、言おうか言うまいか迷った末にこの話を打ち明けようとしたのではないか。もしそうなら、私はあの時どうしようもなく彼女を傷つけるような発言を……。
「あれ……」
二の腕の辺りに、ひんやりと冷たい風が触れた。両腕を交差し、手のひらでさすりながら、私は白い吐息を吐いた。――寒い、どうしようもなく。
私は役立たずの妹で、戦力外通告をされる娘で、永遠の不採用人材。
そんな私を頼り、僅かな信号を送った姉に自身が返した言葉を反芻する。
『お姉ちゃんなんて、いなければ良かった』
あの人を最後に追い込んだのは、……私だ。
歩を進めると、前方に柔らかな光を感じた。ようやく橋を抜けられる。先程までは憎くて仕方がなかった太陽を今では心から欲していた。少しでも暖まりたかった。私は冷え切った心まで届く、強烈な光を求めていた。だが、その光は――。
「…………」
橋の下を潜り抜けた私の頭上には、燦々と輝く太陽光など存在していなかった。
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