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「うそ、あの人が社長……?」
帰宅後、気まぐれにホームページを漁った際に気づいたことだった。我が物顔で会社を語っていたわけだ。
世間ではよく、『現実は甘くない』というフレーズを耳にするが、私にとってのそれは、苦い。ルッコラやゴーヤ、残り僅かとなったビールのように、初めから甘さが求められるべき代物ではないのかもしれない。
競争社会とは何とも非情なものだ。強者の発言は絶対であり、弱者は容赦なく切り捨てられる。今まで勝負事を避け続けてきたツケが、ここへ来て一気に回って来たわけか。
苦い食べ物は嫌いでもないが、苦い思いを延々と繰り返したいとはどうにも思えない。かといって、早急に終わらせられるだけの資格が私にはないのだろう。
ドライヤーでベリーショートの髪を乾かすと、ひとしきり郵便物を眺めた。本日も変わり映えしないチラシばかりだった。
マンション、水道工事、ポスティングバイト、またマンション。売値が高額過ぎるためか、名前も知らない小国の財政事情と同じように自分とは全く縁のないものに思えた。
他には光熱費の払い込み用紙に、美容室からのハガキ、子供向けのサバイバル体験チラシなどもあった。こんなワンルームの安アパートに子供が住んでいるとでも思ったのだろうか。仮にいたとして、それこそがサバイバル体験のようなものだろう。
悠長にコーヒーを啜りながら目覚まし時計に目を遣ると、先端の付近でくるりんと一周円を描いたデザインの長い針は、家を出るべき数字をすでに通り越している。
私は急いでワイシャツのボタンを留め、ジャケットを片手に部屋を後にした。
大学は自宅の最寄り駅から電車で二十分ほど。本当はもっとキャンパスから近い部屋を借りたかったが、その辺りは家賃が高いうえに、学生たちが縄張り争いをする猫のごとく勢いで毎晩騒ぎを起こすため、私は少し離れた街で暮らしている。
古本屋、古着屋、リサイクルショップ。安い物や古い物がこの街には多い。居酒屋は時間帯によってビールが一杯五十円なんて破格の店もあった。
日暮れ時には駅前でギターを片手に野外演奏する人々をよく見かけるものだ。聞いた話によれば、バンドマンに憧れのとびきり有名なライブハウスが近くにあるらしい。
この街でまともな格好をした大人はめったに見かけない。ヒッピーのような服装をした連中か、私みたいにお金のない学生、あとは小汚い商売人が大半を占め、住人は昼間から安酒を煽りながら鼻歌交じりに裏路地をほっつき歩いている。
およそ悪意のこもった紹介文に思えるかもしれないが、私はこの街のことが案外気に入っている。周囲に無頓着な連中は誰もが陽気で、何より人々に対して無干渉な空気が居心地よかった。
大学の最寄り駅に着くと、徒歩五分ほどでキャンパス内に入ることができる。正門までは一本道のため、嫌でも大学前の賑やかな雑踏を歩くことになる。
大抵はサークルなどの団体様が屯しているので、通れる道幅はかなり狭い。時おりこの近辺に無知な車が迷い込むと、彼らは決まって凱旋パレードのような速度まで落とす必要があった。
今日の講義は午前中に一つだけ。去年取りこぼした分を再度受講している。一学年下の学生が多いなか、黒いスーツ姿で講義を受ける私は四年生であることが周囲からすぐに見分けられ、自然と遠巻きに扱われていた。
退屈な午前中の講義を終え、就職サポートセンターで更新情報を眺めていると定刻通りにスマホのメッセージが鳴り、私は近くのカフェへ向かった。
「あんた、もしかしてまた落ちた?」
陽子にはどうやら、一息ついた際の呼吸がため息に映ったらしい。
「ハルちゃんはすぐ顔に出るよねぇ」
久美からは毎度そう言われるが、私自身でも分からない本心を、彼女らはよくも見抜いたと思えるものだ。
「お察しの通りです」と私が答えておくと、二人は自分事のように肩を落とした。
「なんだかねぇ」
「また次があるよ」
お昼時だというのに、カフェの店内は比較的空いていた。木の色を基調としたシンプルな内装はいかにも洒落た造りだが、長い足のスツールは正直言って座り心地が悪い。
丸テーブルを囲む私たち三人は、大学の同級生である。私の斜め左で昼間から豪快にランチビールを煽り、さっぱりとした物言いをするのは
彼女らはもちろん、すでに就職先が決まっている。大学四年生の夏に就職が決まっていないことはそれほど異常事態ではないと思うのだが、私の場合はそういう危機感のないところが問題なのだと二人に指摘されてしまう。
「新卒なんてほとんど第一印象なんだから。ある程度の主張でも、堂々とした口調で語ればそれだけで受かるもんよ」
「ふふ。陽ちゃんのそれはさすがに極端だと思うけど、でもハルちゃんって、少し力の抜けた雰囲気はするかもね」
久美はおっとりした口調でそう言った後、「私は好きだけどね」と笑顔で付け足した。
「あと髪が短すぎる!」
突然声を上げた陽子は私の頭を指差し、「この前のボブカットは普通に可愛かったのに、何でそんなに切っちゃったのよ?」
彼女はとにかく、お洒落に関して口うるさいのである。
「まぁ、なんとなく」
と、私は答えた。随分と惚けた物言いに聞こえるだろうか。
「ハルちゃんって、変なところで思い切りが良いよね」
それは褒めているのか、貶しているのか。久美の本意は時々よく分からない。
「何となくで切っちゃう長さじゃないでしょ!」
腕組みをしてこちらを睨みつける陽子の服装は、確かに今日も洒落ていた。流行りのワンピースをさらりと着こなし、それを邪魔しない程度の小物を散りばめ、長い髪にはパーマでふんわりとしたボリュームが出ている。
「誠に面目ないです」
「えぇ、可愛いじゃない。私は好きよ?」
そう言って私をフォローする久美は、ややぽっちゃりとした身体にオーガニックコットンで紡がれた肌触りの良いストライプシャツを着ていた。彼女はデザインよりも素材で物を選ぶ傾向にある。
振る舞いや口調が常に悠然としているためか、何を着ても、何を言っても久美からは上品な印象を受けた。もし彼女が何気なく「…
彼女たちとは体育の授業で知り合った。一年生にとっての必須科目だが三人とも運動が苦手なため、一番後ろの列で隠れるようにして座っていた。「近くにいる者とチームを組みなさい」と教官(私たちの間では体育の教員をそう呼んでいた)に言われ、周囲を伺った際に目が合ったのが、この三人だった。
久美と私は同じ文学部で、入学してからすでにいくつかの講義でも姿を見かけたことがあった。陽子はお隣の社会学部だが、知り合ってからはお昼時になると必ずこちらへ連絡を寄越し、三人揃って食卓を囲んだ。「あっちの学部って、みんな活動的過ぎて疲れるのよね」というのが言い分らしい。
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