『たまに忘れっぽいよね。』

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『昔々、森の奥に貧しい婦人と、二人の姉妹が住んでおりました』


 耳を優しく通り抜ける、透明感のある声音。目を開いた先には、今や懐かしき姉妹の部屋を見下ろすことができた。


「なに、これ」


 私は宙を浮いていた。正確に言えば、巨大なシャボン玉のような球体に閉じ込められ、それはちょうど姉妹を俯瞰で眺められる位置に浮遊していた。試しに内側から押してみるものの、薄らと虹色に輝く透明な皮膜はゴムのように弾力があり、跳ね返されてしまう。


「あれ、手が……」


 弾かれた拍子に眺めた手の平は、元の大きさに戻っていた。服装もリクルートスーツで、一安心した私はため息を漏らしたものの、外に出るための手段が分からなかった。仕方なくその場に座り込んだ私は、幼い姉妹が本を読む姿を眺めた。


『べにばらは野原を駆け回り、花を積み、蝶を捕まえるのが大好き。しらゆきは家の中で本を読み、母のことを手伝うのが好きな子でした。仲良しの姉妹が外に出かける際には、いつも二人で手を繋ぎ――』


 彼女は右側、私は左側を掴み、イラスト付きの大きな童話集を姉が朗読している。眠る前のあの時間が、何より幸せだった。


「…………」


 成長とは、とても残酷なものだ。過去の記憶は曖昧になり、大事な思い出すらこうもあっさりと抜け落ちてしまう。


『じゃあ、あたしがべにばらで、あんたはしらゆき役ね』


『どうしてぇ? しらゆきには、ゆきってお姉ちゃんのおなまえが入ってるよ?』


『だって、赤は主役の色だもの』


『へぇ、そうなんだ!』


 幼き私はそれを聞いて大きく肯くと、無邪気に微笑んでいる。『――いいなぁ』


『ふふ。格好いいでしょ』


 誇らしげに立ち上がった姉は、赤い布を被ってポーズを決めていた。


『じゃあこれは、お姉ちゃんのお話なんだね』


 お姉ちゃんの話……。


 幼い二人を感慨深く眺めていた私は、ひとまず出口を探すべく立ち上がった。けれど球体の直径は知らぬ間に縮み始めており、膝を丸めて座り込むのがやっとだった。それでもなお、シャボン玉は急速に収縮を続けている。


「く、苦しい……」


 収縮に合わせ、私の身体はまるで軟体動物のように球体の中を複雑に折れ曲がり、奇妙な形にひしゃげていった。みるみる小さくなった球体は、今ではバスケットボール程の大きさに成り果てている。


 し、死ぬ……。


 私が意識を失いかけた瞬間、シャボン玉の皮膜は音を立て勢いよく破裂した。くしゃくしゃに丸めたちり紙のような状態で詰め込まれていた私は、外に放り出されると風船に息を吹き込むようにゆっくり膨らみ始めた。膝を立てた姿勢のまま復活した私が前方に顔を向けると、眩しい光の塊が浮遊している。


「眩しいよ」


 目を開くことが困難なほどに激しい光を放つその発光体は、そっと手を触れると、凍えるほどに冷たかった。


 瞼の薄膜越しに、光を感じる。


 眩しくて、眩しくて、寒い。大きく深呼吸をしながら身体を伸ばし、私はゆっくりと目を開いた。視線の先には朝日が差し込む丸い形の窓。開け放たれた風の通り道から小鳥が数羽顔を覗かせ、陽気に何かを口ずさんでいた。


「あぁ、まだ夢の中か」


 私はぼそっと呟いたが、「夢じゃないよ! 寝ぼけてるの?」と活発な声を発したべにばらが唐突に視界の中に入り込んだ。


 咄嗟に起き上がった私は頭をぶつけそうになったが、べにばらはそれをひょいと躱しながら窓際に移動した。小鳥たちは彼女の指先へ飛び移り、鳴き声をあげている。


「あたしが先におきちゃった! こんなにめずらしいことってないわ。しらゆきはよっぽど疲れていたのね」と言いながら、彼女は小鳥を空に返すと窓枠に肘をついて外を眺めた。


「みてよ!」


 寝ぐせ頭を掻きながら立ち上がった私は、言われるまま窓のそばに移動した。彼女の隣で外を眺めると、庭先の拓けた空間やその先に広がる森林など、一面が緑で覆われた空間には薄らと雪が積もっている。


「夜の間にふったみたい。もう春もちかいのにね。あとでこーんな雪だるまを作らないと!」と、少女は浮かれた様子で手をいっぱいに広げている。


「やっぱり、ここは冬なの?」


「しらゆきの夢のなかは春だった?」


 べにばらは笑顔で問いかけると顔の前で両手を合わせ、「いいなぁ。あたしも早くお花がいっぱい咲くところ、見たいなぁ」


 続けて彼女が壮大な妄想を語り始めたところで、階下から鍋を叩く音が響いた。


「あっ、ごはんだって。早く行こ!」


 彼女は素早く梯子を伝い、広間に降りていった。私は何度か目を擦ってから息を整え、再び外を眺めた。肌を刺すほどに冷たい風、降り積もった純白の雪、腕に浮かぶ本物の鳥肌。試しに頬をつねってみたが、予想以上に痛い。


「……夢じゃないの?」


 窓から吹き込む風に煽られた私は寒さに腕を擦りながら窓を閉めると、べにばらの呼び声に応えて梯子に足をかけた。

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