『アピールって言葉は好きになれない。』

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 自宅に帰ると、黒い服を脱ぎ捨ててすぐにシャワーを浴びた。


 汗でベタついた身体を洗い流すと、一日かけて溜め込んだ負の因子がすっかり浄化された心地だった。首元の緩んだ大きめの白いTシャツを被り、ようやく寛ぎ始めたところで耳障りな着信音が室内に鳴り響いた。


 液晶を眺めると、そこには『遠藤雪希ゆき』と表示されていた。毎日広告代理店のお仕事に精を出している私のお姉様である。この時間はまだ職場にいるはずだが。


「先にご飯を食べれば良かった」


 姉は私と違い、この上なくお喋りで長話だ。まぁ、出ますけども。


「もしもし」


「あっ、ハル? お姉ちゃんだよぅ!」


「知ってる」


 この掛け合いも、私たち姉妹の間ではすっかり恒例だった。


「あんた、今何してんの?」


 姉の声に混ざって、過ぎ行く車の音がビュンビュンと響いた。帰り道だろうか。


「別に。何もしてないけど」


「だよねぇ。そうやって我が妹は、いつものほほんと過ごしてるんでしょうね」


「別に、いつもってわけじゃないよ」と私は無意味な訂正を行いつつ、「そっちこそ、今はまだ仕事の時間じゃないの?」と言ってベッドに腰掛けた。


「あら、言ってなかった? うちの会社ね、最近ちょびっと自粛モードなの。働き方改革ってやつ? その流れに便乗してクリーンな会社を目指してるらしいわよ。まぁこのご時世だし、表向きだけでもそう明言しておかないと新入社員も集まらないから。今更クリーンな会社なんて言われてもね、うふふ、未確認飛行物体を探しに旅に出る方がよっぽど楽ちんな作業に思えてくるね。とどのつまり、私たちが早く切り上げてる分を誰かに、まぁ部下や下請けになるんだけど、全部押し付ける形になるんだから、根本的な問題は何も解決しないわけ。押入れの中に玩具や洋服を片っ端から放り込んで、さも片付けが済んだと思い込んでる連中と同じくらいに安直だよねぇ」


 そこでふと言葉が止まり、――あっ、こんばんわぁと、高めの声色で姉が誰かに向かって言うのがぼんやりと聞こえてきた。


「えっと、なんだっけ? ……まぁ。そういうことよ!」


 途切れた記憶を遡るのが、面倒になったのだろう。


「でもひとまず、お姉ちゃんは少し楽ができるようになったわけだ」


「ん? まぁ、……それはそうね」


 姉は一度短い咳払いをし、「正直なところ、早く帰っても落ち着かないんだけど。かといって私が居たら、会社的には色々と問題があるみたいだし。何だか、厄介払いされちゃったみたいだなぁ」


「そんなこと……」私はスマホを耳に当てたままベッドに寝転んだ。髪が短いとすぐに乾いてくれるから助かる。「お姉ちゃんは、そもそも働き過ぎなんじゃないの?」


「…………」


 珍しく無言でしばらく間を置いた姉は、やがて「まぁ、そうかも」と吐息交じりに答えると、「無心で働いてた方が色々と楽なこともあったんだけど。……って、あんたには分かんないか」とぶつぶつ呟いている。


「なんのこと?」


「なんでもない! 今日は何してたの?」


「え、今日?」姉は一人で勝手に話を切り上げてしまうことが多い。「朝から学校に行って、授業受けて、友達とお昼ご飯食べて――」


「あんたもう四年でしょ? まだ朝の講義なんて受けてんの?」


「去年ひとつ取りこぼした」と私は答え、「あと、学内説明会に行ったよ」と補足した。


「うわ、でた。学内説明会」


 姉はさも軽蔑するような声を漏らし、「そういうのって、企業側も所詮は綺麗事しか言ってこないから、あんまり間に受けない方がいいよ」


「そうなの?」


「そりゃそうだよ。実情を話したら応募なんて一切来なくなっちゃうもん」


 就活中の妹に向け、夢も希望もない忠告である。


「どの道に進んだって、最終的には苦労するのが目に見えてるんだから。あんたもなるべくやりたいと思える仕事を選びなよ」


「うん」


「あとはまぁ、何でもほどほどにね」


「え?」


「あ、駅着いた。またねぇ」と言いながら、姉は突然通話を終了させた。

 ほどほどって一体、どういう意味だろうか。


 姉は現在、私の家から電車を乗り継いで四十分ほど離れた川沿いの街で暮らしている。正確にはお隣の県扱いになるが、同じ県内ですらもっと遠い地域などいくらでも存在するため、さほど離れているという印象はない。


 引越しの手伝いに狩り出されて以来、もう数年ほど姉の自宅にも訪れていなかった。そもそも最後に会ったのはいつだったか。いつでも会いに行ける距離が、姉という存在をむしろ私から遠ざけているように感じられた。


「さて。そろそろご飯にしよ」


 私はベッドから起き上がり、キッチンへ向かう。たったの数歩だけれど。


 この時期は大抵、素麺で済ますことが多い。安いし、早いし、お手軽だ。去年フリマで購入した涼しげな器が今年も大活躍している。スーパーの買い物かごには毎度のように顔を覗かせ、気が付けば週のほとんどの時間をこいつと共に過ごしている気がした。


 大きいボトルのめんつゆを買ってしまったから、これくらいの頻度じゃないと使い切れない。という理由を、もっともらしい言い訳として用意していた。誰のための言い訳なのか。


 鍋に水を張り、コンロで火にかけると、私は鍋肌に見える気泡を静かに見下ろしていた。


「…………」


 いつからだろうか。これほどまで、姉と距離を感じるようになったのは。


 幼少期の私にとって、姉は憧れの存在だった。彼女は昔から明るく活発な性格をしており、そのうえ一人で何でもこなしてしまう。才色兼備という言葉は姉のために生み出されたのではないかと思うほど、あの人は優秀で美しかった。


 三つ歳下の私が一緒に通ったのは小学校だけだったが、姉は中学や高校でも華やかな青春時代を送り、どちらも生徒会長を務めていた。彼女の残した功績があまりに偉大すぎたせいか、これといって取り柄のない私がいざ進学した際にも教師陣からは盛大に歓迎され、分不相応な期待を浴びせられたものだ。


 今では記憶もすっかり朧げだが、僅かに浮かぶ昔の私は良く笑う子だった。それがいつの間にか無感動な人間になり、今では決まって出会う人々に冷ややかなイメージを与えてしまう。


 中学に上がる頃までの私は、必死で姉に追いつこうとしていた。私は地毛が真っ黒で、ドが付く直毛。彼女のように色素の薄い猫毛になりたいと願ったことがある。


 その他にも切れ長の目つきであったり、鼻筋の通った顔つき、優れた運動神経に、勉強に、対人関係。全ての理想として姉を見据えていたものの、どの項目においても圧倒的な差を見せつけられた私は、その度に敗北感を味わっていた。


 敗北から学び始めた私は、いつしか競争意識を持つことをやめてしまった。勝負を挑まなければ、負けることもない。担任からは『覇気がない』、『他人に関心がない』などと指摘されたが、私自身もその傾向をどのように修正すべきなのか、その頃にはもう分からなくなっていた。


 今では姉のことは、好きでも嫌いでもない。無理して身体だけは壊して欲しくないと思いつつ、どんな仕事をしているのか、私生活はどのようなものか、そういったプライベートなことに興味を持つことは一切なかった。


 姉妹なんて、普通はこんなものだろう。


「そろそろかな」


 お湯が沸くと、乾麺を投入してさっと一分半。早い。これだから素麺はやめられない。

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