ふざけんな『世界獣』
「走れ!」
あたしの肩をセティが押した。あたしは押されるがまま、セティとは反対の方向へ走り出す。猟銃を持ってはいたが、構えるには至らない。そんな余裕がなかったし、らしくはないが、そんな気が起きなかった。圧倒的な存在を前にした人間は、こうなるものなのだろうか。
暴風を巻き起こしながら、それは姿を現した。長い尾、強い風を起こして打ち羽ばたく大きな翼。
次の瞬間、現れ出た巨大生物は、攻撃的な
ぱぁん、と銃声が聞こえたのは、巨大生物が長い咆哮を終えたときだった。残響消えぬあたしの耳にも、その強い意思を示すような音は、はっきりと聞こえた。
あたしは銃声がした方を見た。巨大生物を挟んでちょうど向かい、溶岩洞の壁を背中にして銃撃の反動を抑えたセティが、巨大生物に向けて発砲した瞬間だった。
ああ、やっぱり。やっぱりセティもこの生き物を追っていたのだ。この世界の頂点に君臨する獣、『世界獣』を。
あたしがその理解に到達する前に、セティは一射目の
セティはそのまま次の一射を構えたが、すぐに銃口を降ろした。『世界獣』が長い首を持ち上げて、セティの方へ向けたからだ。その場に留まる愚は犯さず、セティは転がるように『世界獣』の尻尾方向へ移動する。
ああ、彼はなぜあんなことをしているのだろう。どんな理由があって、あんなことをしているのだろう。無駄なのに。これほど巨大で、圧倒的で、絶対的な生き物を相手に何をしようとも、結果は見えている。彼はこの生き物を狩りたいのだろうか。命を奪いたいのだろうか。無駄なのに。そう、これほど圧倒的で、絶対的な……
「あああああっ!!」
『世界獣』が巻き起こす強風の中で、あたしは叫び声を上げて猟銃を取り落とした。空いた両手をいっぱいに開き、その両手で自分の顔をひっぱたいた。
ぱちぃん、と想像以上に大きな音が出た。実際、両の頬がものすごい痛い。
「イリーナ!」
セティの声が聞こえた。反射的に見上げると、セティに狙いを定めていた『世界獣』が、あたしの方に向き直っている。長い首を持ち上げて、七色に発光する巨体をうねらせて、あたしを見た。暴力そのものの瞳。
でも、もう、それは効かない。
「ふっざけんな、『世界獣』!!」
あたしはその場で片膝を付くと、素早く取り落とした猟銃を拾い上げ、そのまま『世界獣』の眉間に照準、迷うことなく引き金を引いた。
巨大。圧倒的で絶対的。確かにそれは、本能に訴える、強すぎる脅威だった。あたしも実際に目の前にして、初めて理解した。カナデ村の大人たちが言うことの意味がわかった。この世界の多くの人が、口を揃えて言う言葉の意味が、わかった。でも、そうではない。そうではないのだ。あたしは、その理解を越えるためにここにいる。圧倒的で、絶対的。だから仕方がない。この『仕方がない』を越えるために、あたしはこの場にいるのだ。その道を、あたしは選んだのだ。
がんっ! という大きな音が響いたが、それだけだった。あたしが放った一撃は、確かに『世界獣』の眉間に命中したらしい。音はそのものだったが『世界獣』は微動だにしなかった。あたしを睨む目を向けて、あたしとの距離を詰めてくる。あたしはすぐさまその場から立ち上がり、転がるようにして逃げの一手を打つ。セティと違い、次弾の装填に時間がかかるいまのあたしには、攻撃する手段がなかった。
あたしの背後で『世界獣』が咆哮する。鼓膜が破れそうなほどの大声でなく巨体が、再び強い七色の光を発する。全身を被う鱗が七色の輝きを放っているのだ。それを肩越しに確認すると、あたしはその場で勢いよく振り向いた。意を決した、と言っていい。やれると信じた、と言っていい。あたしは振り返りながら、腰の道具袋に左手を突っ込んだ。銃弾を手に取り、振り返ったと同時に、銃弾を握ったままの左手で、猟銃の
その瞬間、セティの銃が吠えた。完璧、とセティの銃撃の瞬間を口の中で誉めると、遊低を押し込んで、猟銃の筒先を照準した。
案の定、セティの銃撃に一瞬だけ気を取られた『世界獣』が、身を止めていた。その眉間に、再びの銃撃を……
「ポっ……!?」
照準した『世界獣』の眉間の少し上に、あたしは信じられないもの見た。
『世界獣』の頭部、左右対象に生えた二本の角の間。そこに、何かが乗っている。茶色い毛色。毛玉のように丸い輪郭。短い手足はここからでは見えず、潤んだような丸い目玉もわからないが、疑いようもない。
あれは、犬だ。
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