ふざけんな『世界獣』

「走れ!」


 あたしの肩をセティが押した。あたしは押されるがまま、セティとは反対の方向へ走り出す。猟銃を持ってはいたが、構えるには至らない。そんな余裕がなかったし、らしくはないが、そんな気が起きなかった。圧倒的な存在を前にした人間は、こうなるものなのだろうか。

 暴風を巻き起こしながら、それは姿を現した。長い尾、強い風を起こして打ち羽ばたく大きな翼。蜥蜴とかげに似ているが、比較にならないほど巨大な頭部には、セティの背格好に匹敵する大きさの角が二本。その角の真下まで伸びた裂け目はこれまた巨大な口である。剥き出しの牙はわたしより大きく見える。角と牙の間に見える目が、ぎろり、と音を立ててこちらを向いた。まずい。本能が、あたしの頭の中で叫びを上げた。

 次の瞬間、現れ出た巨大生物は、攻撃的な咆哮ほうこうを上げた。翼を震わせながら広げ、天井の高く、広い溶岩洞を隅々まで埋め尽くした巨体が、その瞬間、きらびやかに閃光を放った。七色の輝き。あたしは目を伏せて、その輝きから逃れようとした。その光が有害だとか、物理的な力があるとか、そんな理由ではない。ただただ、強く、眩しかった。それだけで、恐怖の対象になり得た。それほど、目の前にした生物は巨大で、圧倒的で、絶対的だった。

 ぱぁん、と銃声が聞こえたのは、巨大生物が長い咆哮を終えたときだった。残響消えぬあたしの耳にも、その強い意思を示すような音は、はっきりと聞こえた。

 あたしは銃声がした方を見た。巨大生物を挟んでちょうど向かい、溶岩洞の壁を背中にして銃撃の反動を抑えたセティが、巨大生物に向けて発砲した瞬間だった。

 ああ、やっぱり。やっぱりセティもこの生き物を追っていたのだ。この世界の頂点に君臨する獣、『世界獣』を。

 あたしがその理解に到達する前に、セティは一射目の空薬莢からやっきょうを捨て、口に咥えていた次弾を装填そうてんする。魔法のような手つきとは、あの事をいうのだろう。あまりにも速すぎる装填動作で、この距離では手元が見えない。

 セティはそのまま次の一射を構えたが、すぐに銃口を降ろした。『世界獣』が長い首を持ち上げて、セティの方へ向けたからだ。その場に留まる愚は犯さず、セティは転がるように『世界獣』の尻尾方向へ移動する。

 ああ、彼はなぜあんなことをしているのだろう。どんな理由があって、あんなことをしているのだろう。無駄なのに。これほど巨大で、圧倒的で、絶対的な生き物を相手に何をしようとも、結果は見えている。彼はこの生き物を狩りたいのだろうか。命を奪いたいのだろうか。無駄なのに。そう、これほど圧倒的で、絶対的な……


「あああああっ!!」


『世界獣』が巻き起こす強風の中で、あたしは叫び声を上げて猟銃を取り落とした。空いた両手をいっぱいに開き、その両手で自分の顔をひっぱたいた。

 ぱちぃん、と想像以上に大きな音が出た。実際、両の頬がものすごい痛い。


「イリーナ!」


 セティの声が聞こえた。反射的に見上げると、セティに狙いを定めていた『世界獣』が、あたしの方に向き直っている。長い首を持ち上げて、七色に発光する巨体をうねらせて、あたしを見た。暴力そのものの瞳。


 でも、もう、それは効かない。


「ふっざけんな、『世界獣』!!」


 あたしはその場で片膝を付くと、素早く取り落とした猟銃を拾い上げ、そのまま『世界獣』の眉間に照準、迷うことなく引き金を引いた。

 巨大。圧倒的で絶対的。確かにそれは、本能に訴える、強すぎる脅威だった。あたしも実際に目の前にして、初めて理解した。カナデ村の大人たちが言うことの意味がわかった。この世界の多くの人が、口を揃えて言う言葉の意味が、わかった。でも、そうではない。。あたしは、その理解を越えるためにここにいる。圧倒的で、絶対的。だから仕方がない。この『仕方がない』を越えるために、あたしはこの場にいるのだ。その道を、あたしは選んだのだ。

 がんっ! という大きな音が響いたが、それだけだった。あたしが放った一撃は、確かに『世界獣』の眉間に命中したらしい。音はそのものだったが『世界獣』は微動だにしなかった。あたしを睨む目を向けて、あたしとの距離を詰めてくる。あたしはすぐさまその場から立ち上がり、転がるようにして逃げの一手を打つ。セティと違い、次弾の装填に時間がかかるいまのあたしには、攻撃する手段がなかった。

 あたしの背後で『世界獣』が咆哮する。鼓膜が破れそうなほどの大声でなく巨体が、再び強い七色の光を発する。全身を被う鱗が七色の輝きを放っているのだ。それを肩越しに確認すると、あたしはその場で勢いよく振り向いた。意を決した、と言っていい。やれると信じた、と言っていい。あたしは振り返りながら、腰の道具袋に左手を突っ込んだ。銃弾を手に取り、振り返ったと同時に、銃弾を握ったままの左手で、猟銃の遊低ゆうていを引いた。空になった薬莢が転げ落ち、そこに次の弾を叩き込む。

 その瞬間、セティの銃が吠えた。完璧、とセティの銃撃の瞬間を口の中で誉めると、遊低を押し込んで、猟銃の筒先を照準した。

 案の定、セティの銃撃に一瞬だけ気を取られた『世界獣』が、身を止めていた。その眉間に、再びの銃撃を……


「ポっ……!?」


 照準した『世界獣』の眉間の少し上に、あたしは信じられないもの見た。

『世界獣』の頭部、左右対象に生えた二本の角の間。そこに、何かが乗っている。茶色い毛色。毛玉のように丸い輪郭。短い手足はここからでは見えず、潤んだような丸い目玉もわからないが、疑いようもない。


 あれは、犬だ。

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