犬好き乱舞

「あー!!」


 あたしが叫んだ時には遅かった。あたしの手から毛玉は離れ、わうー、という悲痛な叫びを上げながら、飛んで行った。その先にはあの青紫の巨獣が大きな口を開いて構えて……


「イ、イリーナさん!!」

 

 いなかった。


「ポ、ポメラニアンが、ポメラニアンがわたしに飛び込んで来ましたよ、イリーナさん!!」


 巨獣は、いなかった。姿が見えた気がしたのは、あたしの想像が生み出した幻だった。そして、その代わりにポメラニアンの弾丸を受けたのは……あの大柄犬好きおっさん猟師だった。


「セティ!?」

「見てくださいよ、ほら、イリーナさん! ほら、ほら! 可愛いでしょう! もふもふで、あうっ」


 最後のは、苦痛の声だった。犬好きの手に、犬が食らい付いていた。しかも甘咬みではない。剥き出しの歯茎と、深い皺を刻んだ鼻頭に込められた力の様子は、完全に食いちぎりに行っている。


「あああ、セティ!」


 あたしは慌てて駆け寄ると、犬の弾丸を受けて尻餅を付いた姿勢のセティから、ポメラニアンの小さな口を押さえつけ、セティの手に食い付いた牙を、慎重に引き離した。


「……信じられないほど獰猛ね、この犬」

「ああ……イリーナさんには抱っこさせるんですね……ああ……」


 犬好きが何か言っているが、とりあえず聞かないことにした。あたしは口と鼻を握って身体をしっかり抱き止めたポメラニアンを、ゆっくりと地面に降ろした。ポメラニアンはその場でくるりと一回りすると、あたしの方は見ずに、また、ちっ、という舌打ちのような音を出した。というより、あれは舌打ちだ。何なんだ、この犬。


「……大丈夫なの、セティ」

「大丈夫ではありません。犬のもふもふが欲しい……」


 手首ごと、食いちぎられてしまえ。


「ウルフはどうしたのよ?」

「ああ、あの子には、眠ってもらいました。しばらくしたら、目が覚めるでしょう」

「麻酔弾か何か?」

「そんな都合の良いもの、持っていませんよ」

「じゃあどうやって眠らせたのよ。この洞窟の入口にいたやつも、眠ってたけど」


 ああ、と大したことでもないので忘れていたとでも言うように、セティは応じながら立ち上がった。大柄が、余計に大きくなる。洞窟の入口から差し込む光が、その身体に遮られて、洞窟内の暗度が増した。彼の表情は暗く塗り潰され、はっきり見えない。


「ちょっと、気絶してもらったんですよ」

「だから、どうやって?」

「え、耳の横辺りに弾丸を至近距離で擦過さっかさせたんですよ?」

「は?」

「いえ、ですから……」


 セティはより細かい説明を始めたが、あたしはそういうものを求めている訳ではなく、まして、セティが発した言葉の意味が理解出来ていない訳ではなかった。

 

 あの一瞬で?

 あの距離で?

 あれだけ木々がある間を縫って?

 当然ながら、高速で飛翔する弾丸は、空気を切り裂く。その時、無理やり掻き分けられた空気は、強い衝撃波となって周囲に押し広げられている。使用される弾丸にもよるが、その衝撃波は、至近距離では時に鈍器で殴り付けたほどの衝撃に相当する。

 犬の耳の前辺り、毛が薄くなっている部分は、犬にとっての急所である。そこに強い衝撃が加われば、気を失わせることも出来る。セティが言おうとしているのは、つまり、そういう事だ。簡単に言うならば、「遠くから殴った」ということなのだが……


「ちょっと乱暴なことをしてしまいました……犬に嫌われる訳ですよね。同じ犬科の仲間に酷いことした訳ですし……」


 たぶん、そういうことではない。単にこのポメラニアンに嫌われているだけだ、と思ったが、そもそもそういうことではないことを、しれっとやってのけて的外れなことを言っているのだ。何から指摘してやればいいかわからず、考えて考えて、結局その言葉は出てこなかった。


「ああ……こう見えて、犬好きなんですよ、わたし。とても」


 でしょうね。


「……あれ、イリーナさん、犬は?」


 言われてあたしも足元を見た。不機嫌を隠そうともしないポメラニアンが、その場から消えていた。おかしい。たったいままで、ここにいたはずなのに。

 アンッ!という可愛い声が聞こえた。あたしは声が聞こえた方を振り向いた。声は闇の中、犬が姿を現した、洞窟の奥から聞こえた。いつの間にか移動したのか。いや、それよりも……


「あの子、やっぱり……」

「この奥ですね。予想通りです」


 え、とあたしが口にした疑問は無視された。セティは腰に下げた道具袋の一つから取り出した、小型のランタンに火を灯すと、あたしの横をすり抜けて、奥へと進んでいく。


「あ、ちょっと、待ってよ!」


 あたしは慌てて追い縋ったが、頭の中ではある疑問がひとつの確信に変わり、確かな形を持って広がり、席巻していた。

 つまり、やはりセティと犬には、何らかの接点があるということ。

 そして、犬は、明らかにセティをいざなっている、ということ。そしてセティも、犬を捜すと言いながら、誘われていることに疑問を抱いていないこと。

 どこに、という疑問はなかった。この先にいるという存在は、ひとつしかない。あったのは、なぜ、という疑問。


 犬はなぜ、『世界獣』のもとに、セティを誘うのか。

 セティはなぜ、それを疑問に思わないのか。


 真っ暗な闇の中を進むあたしには、辛うじて前を進むセティの背中が見えるだけだった。

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