はい、お手。
二頭いたブルーベリーウルフのうちの一頭が、倒れている。身動きひとつしない。
「うそ……」
「イリーナ!!」
反射的に身構えた。その声はそうさせるだけの太さ、強さ、怒気を
「走れ!!」
言われるがままに、あたしは走った。考えるまでもなく、足は洞窟へ向いた。走り出してから、あたしは誰に怒鳴られているのか、と思ったが、それがわかる前に、今度はあたしの前方から凄まじい怒りに満ちた吠え声が聞こえて、あたしの思考は霧散した。
残ったブルーベリーウルフが地を蹴った。翼が生えているのかと錯覚するほどの跳躍力で宙を舞うと、その先にあった太い木の幹に飛びつく。と、その木を蹴り、さらに別の木へ。跳び跳ねるように、青紫の狼の巨体が、信じられない速度で猛然とあたしの方へ迫って来る。
速い。速すぎる。あたしがどうしようもなく立ち止まりかけた時、銃声がもう一発響いた。
「行けっ!!」
さらに強い叫び声をあたしに浴びせた犬好きの男は、あたしが振り返り見たときには、その場にいなかった。射撃後、すぐに身を翻したようで、その背中は既に木々と茂みの向こう、僅かに見える程度に離れていた。強い風があたしのすぐ脇を通り抜け、その背を追いかける。青紫の風は、すぐにも彼の背中に追い付きそうに見えたが、そうはならないようで、勝ち誇った吠え声は聞かれないまま、緑の向こうに見えなくなった。
あたしは、とにかく走り出した。洞窟へ駆け込む。そう言われた事だけは守らなければと思った。
獣道すらない茂みを掻き分け、開けた土地に飛び出した。倒れたブルーベリーウルフの姿が間近に迫る。狙撃によって倒れたとしか思えなかったが、狙撃によって倒れたとは思えない巨体の脇を通り抜けなければならず、少なからず緊張を覚えながら、それでもウルフがどんな状態になっているのかを確認したい気持ちもあって、あたしの足は必然、速度を落とした。
ウルフの顔を見た。眠っているように、軽く閉じられた目蓋。穏やかな表情。身体に視線をやると、胸と腹の辺りが微かに上下していた。生きている。そう分かると、途端に緊張が強まった。足取りは慎重になり、静かに静かに、巨体の横を通り抜けた。
でも、と疑問が浮かんだのは倒れたウルフの脇を抜け、洞窟に足を踏み入れた時だった。生きている限り、あの巨体が起き上がり、こちらを向かないとも限らない。あたしは少し奥まで歩いてから、その場で立ち止まった。
生きているのであれば、あの獣は、何故眠っているのか。睡眠薬を獣の身体に撃ち込む弾丸も、あるにはある。しかし、たった一発で、あれほどの巨体が眠りに落ちるような強力なものではない。少なくとも、あたしの知る限りではないはずである。なら、あれはいったい……
ざ、と何かが物音を立てたのはその時だった。
あたしは外の陽の光が洞窟の中まで差し込む、ギリギリのところに立っていて、ここより奥は暗闇だった。これより入るには明かりが必要で、あたしは鞄から明かりを起こす道具を無意識に漁っていた。
音を立てた何かが、暗闇の向こうにいて、それは少しずつ近づいて来ていた。たっ、たっ、たっ、という、明らかに体重の軽い足音。へっ、へっ、へっ、という、妙に間の抜けた息づかい。おや、と思う間に、闇の中からそれは現れた。
「犬……」
茶色い毛玉。短手短足の丸い塊。それはあの時、ウロコグマに襲われたあたしの前に現れたらあのポメラニアンだとわかった。ポメラニアンはあたしの前、二歩程の距離まで近づいて、その場に立ち止まった。いや、お座りしたのか? 手足が短すぎて、違いがよくわからないが、とにかくその場で動きを止めて、へっ、へっ、へっ、舌を出して口半開きで言っている。
「あんた……まさか、セティを待ってるの?」
なんとなく、頭に浮かんだ考えを、そのまま口にした。
このポメラニアンを、セティは追っていたはずである。赤の他犬と言っていたが、本当にそうなのだろうか。行く先に先回りするように現れる犬と、あの犬好きに、本当に関わりはないのだろうか。
「ねえ犬、あんたとあのおっさん猟師は、知り合いなの?」
茶色い毛玉は相変わらず、へっへ、へっへ、言っている。口半開きの顔は、何とも緊張感がなく、申し訳ないが、利口そうには見えない。返事を期待した訳ではなかったが、犬の顔を見て、なんで質問なんかしてしまったのだろう、とこっちが恥ずかしくなった。
「……犬、これ食べる?」
恥ずかしさ隠しに、あたしは鞄から非常食を取り出した。粉にした小麦を固め、硬く焼いたものだが、多少の甘味がつけてあるので、これだけでも少しは腹持ちする。
非常食を見た犬の目が、途端に輝きを増した。その瞬間をあたしは目の当たりにした。そして気づいた。凄い。こいつ、凄い食いしん坊だ。
「……ならお手しなさいよ。はい、お手」
あたしは毛玉の前にしゃがんで、右手のひらを上に向けて、ちょっとした芸を催促した。出来たら非常食を分けてやろうかと思ったのだが、犬はあろうことか、小首を傾げる仕草を見せた。
「あんた、まさかお手知らないとか言わないわよね……ああ、でも、野生のポメラニアンだと、芸仕込まれたりしないか。野生のポメラニアンがいるなんて、今日まで思わなかったけど」
あたしがつらつら話すと、犬は傾げた首を戻して、ふいに毛繕いを始めた。腹の辺りを自分で嘗めるように、あたしから視線を外す。犬の小さい耳の三角形が乗った頭頂部があたしの方に向いたその時、微かに、でもはっきりと聞こえた。ちっ、と舌打ちのような音が。
「この犬、舌打ちしなかった!? ……そんな行儀の悪い犬には、これは分けてやらないわ」
ちっ。
「この犬、やっぱり!!」
あたしは茶色い毛玉に両手を伸ばした。身体を両脇から押さえ込む。純毛の極上の柔さと犬の体温が温かく、幸せな気持ちになるが、何となくバカにされたようなあたしの自尊心は、そんなことに騙されはしない。こうなればいま、この場であたしがお手を仕込んでやる。
あたしが小さな小さな不屈の決意を固めた、その時だった。洞窟の入口から差し込んでいた光が、光量を落としたのは。
しまった、と思った時には、あたしの身体は動いていた。犬と自尊心をかけたやり取りをしている間に、ブルーベリーウルフが目を覚ましたか、それともセティを餌にして戻ってきたか。入口に立ち、光を遮った気配は、あたしより明らかに大きい。背後を取られたあたしに、出来ることは少なかった。
考える間はなかった。事実、よく考えもしなかった。あたしの右手は毛玉の首根っこをむんずと掴み、そして、
「おらああああああ!!」
怒声一発、背後の気配目掛けて振り返り様、ポメラニアンを投げた。
……あ。
投げちゃった。
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