なぜ、『世界獣』を?

「やれやれ、今夜はこれだけですね」

「……やれやれはあたしの台詞よ。まったく……」


 川辺の近くの拓けた場所に、今夜の寝床を作った。焚き火を起こした頃には、辺りは暗くなっていた。

 セティと出会った時点で、既に陽は空の中心から下がり始めていた。アナシカを仕留め、ポメラニアンの群れと遊んでいる間に、薄暮の時間になってしまった。いまから村へ降りるには時間が少なく、また、仕留めたアナシカの番役にもなる為、一晩をここで過ごすことに決めた。

 それに、あたしの目的は、少しも進展していない。この山に来ているはずの『世界獣』に、近づけているのか、いないのか。案内を頼んだセティは何も言わず、ただの犬好きであることがわかったいま、彼にこのまま案内を任せていて大丈夫なのか、疑い始めていた。


「まあ、これだけあれば十分ですよ」


 そう言って焚き火の傍に座り、アナシカの肉を焼きながらセティは微笑む。火を挟んで向かいに座るあたしからは、丸眼鏡に焚き火が白く反射して、目元が見えない。口は笑みの形だが、本当に笑っているかはわからない。なんとなく、不気味だ。


「そういえば、イリーナさん」


 アナシカの肉は、他の獣肉よりも脂肪が少ない。鮮度が良ければ臭みはなく、肉質も柔らかい。上手に血抜きを行えば、その特徴は継続される。いまは鮮度もセティの血抜きも上手くいっている状態なので、最良だ。赤みが強い肉は、脂分の少なさから、焼いても不快な匂いはしない。食欲をそそる、良質な肉特有の芳香が香り立つ。セティは火の加減を見ながら、枝を削って作った串を回して、肉を焼く。


「イリーナさんは、なぜ『世界獣』を?」


 あんたは、なんで犬追い掛けてるのよ、とは返さなかった。犬が好きだからです、特にポメラニアンが、と返ってくるに決まっている。


「……大した理由じゃあないわよ。どこでも聞く話」

「大した理由でなくて、あんなものを追いませんよ。あんな危険なもの」


 セティの言う通りだろう。獣に満ちているこの世界に於いて、その頂点に立つ獣の王『世界獣』。人が手を出してはならない至高の存在として言い伝えられているし、あたしもそう聞かされて育った。

『世界獣』はこの世界に暮らす人間にとっては神にも等しい存在として君臨する。わかっていることと言えば、世界中を気儘に周回していることと、絶対的な力を持っていることくらい。その絶対的な力のせいで、気儘に周回される土地には、それ相応の被害が出る。巨体、それ故に巨大な翼。翼が巻き起こす風だけで、人の暮らす家屋は吹き飛ぶし、田畑の作物は根こそぎだめになる。それでも、人々は堪えた。『世界獣』に手を出してはならない。どうにか出来るものではない。そう言い聞かされて来たからだ。


「あたしの住んでた村のすぐ近くに、あいつが来たのよ。七色の鱗を持つ、竜」


 焚き火が揺れた。セティが少しだけ息を呑んだ気配があった。


「あいつの力は、みんなが言う通り、圧倒的で絶対的だった。あいつは何もしていないのよ。ただ、近くの森に降りて、また飛んでいった。それだけで、採集に使っていた森の木々は吹き飛ばされ、集落の家屋の一部にも被害が出た」

「……その、家屋の被害は……」


 セティは恐る恐る、という様子で声を出した。この世界に暮らす人間で、ここまで話を聞いて、先を想像出来ないものはいないだろう。あたしは少しだけ笑った。


「あたしの家。お父さん、お母さんも怪我してさ。家や家財道具も直さなきゃならなくなって、もう大変」

「……亡くなられた訳ではないのですね。とりあえずは良かった」


 セティが本当に、ひとまずは、といった、控えめの安堵を口にした。あたしはそれを聞いて、見て、滾ってしまった。


「その考えよ! それが納得行かないの!」


 言いながら立ち上がったあたしに、セティは驚きの顔を向けてくる。丸眼鏡が光っているので、相変わらず目元は見えないが、動揺の様子は明らかだった。それでも、あたしは構わなかった。セティは、あたしがこの世で最も聞き慣れ、そして最も納得出来ない言葉を口にしてしまったのだ。あたしは焚き火を囲むように突き立てられたアナシカの肉の串焼きを一本引き抜き、勢いに任せてかじりついた。焼く前の下味で、軽く岩塩を振っておいたようだ。適度な塩分と、柔らかい肉から染み出る旨味が一体となって、あたしの口のなかに広がる。


「とりあえず、は、良かった、ですっ、て!? んぐ……そんなわけ、んぐ、ないでしょうが!!」


 肉うまっ。


「お父さんとお母さんは、怪我したの。分かる? 怪我よ、け、が! もう治ってるけど、治すまではそれ相応の時間がかかったわ。家財道具だって、木材から切り出し直しなのよ!? どれだけ手間がかかると思ってるの!?」


 セティはあたしの勢いに呑まれたのか、一言も発することなく、身を反らして両手を後ろについて、どうにか仰向けに倒れるのを防いでいた。こんなことを彼に言っても仕方がない、とはわかっているけれど、あたしは止まろうとは思わなかった。


「みんな言うのよね、『世界獣』だから仕方がない、圧倒的で絶対的だから仕方がない、って。ふざけんな。被害受けてる身になりやがれ。そんなことくらいで、仕方がないなんて諦められるほど、こちとら人間できちゃいないのよ!!」

「え、ええと、じゃあ、まあ、なんですかね。イリーナさんはご両親と被害を受けた村の仇討ちとしての狩猟を……」

「出来るわけないじゃない!!」

「ええっ!?」


 なんとかあたしを宥めようとしたのだろうセティが、すっとんきょうな声を上げる。


「『世界獣』を狩る? あたしに出来るわけないじゃない!! あたしにそこまでの実力はないし、大体、もし仮に、この世界の食物連鎖の頂点に立つ『世界獣』を、連鎖の下の方にいるあたしらが狩ったりしたら、全体の連鎖が崩れて、とんでもない被害になるのが、目に見えてるじゃない」

「……あ、そこは冷静なんですね」


 セティの指摘には特に応えなかったが、それくらいの分別はある。たぶん、猟師ならみんなあるはず。実力云々ではなく、まず自然環境のことを頭に入れている。猟師とは、そういうものだ。


「え、ええと、じゃあ、まあ、なんですかね。イリーナさんは『世界獣』を追い掛けてて、どうするおつもりなんですか?」

「捕まえる」

「は?」

「捕まえる」


 セティが続く言葉を見つけられず、口をパクパクさせている。なかなか面白い顔だな、と思いながら、また肉を食べる。肉うまっ。


「『世界獣』は人の言葉を理解すると聞いたわ。だから、取っ捕まえて、カナデ村のみんなの前へ、首輪付けてでも引っ張って行く」

「……で?」

「謝らせる」

「は?」

「だから、謝らせんのよ!! 家を壊してごめんなさい、怪我をさせてごめんなさいってね!!」


 そうでもしなければ、到底納得出来はしない。人の言葉が分かる獣というならば、尚更だ。

 人の子どもだって、悪いことをすれば謝ることを教わる。教わってないことは、出来ないのだ。みんなが仕方がない、と諦めるせいで、『世界獣』は悪いことがどんなことかを教わる機会をなくし、悪いことをしたらどうしたらいいかを教わる機会をなくしている。だから、まず、謝らせる。あたしが詫びの入れ方を教えてやる。


「誰もやらないってんなら。あたしがやるわ。あたしは、あたしが納得するようにしか生きない」

「……凄いことを考える人ですね」


 おや、と頭に血が上ったまま話している自覚のあったあたしの意識が、急速に覚めていった。原因はセティだ。セティは、笑わなかったのだ。


「凄腕猟師としての富と名声を求めて『世界獣』を狩ることを望む人もいました。猛烈な復讐心から、『世界獣』の殺害を企てた人にも会ったことがあります。その誰もが命を落としましたが……でも、あなたのような人は初めてですね」


 この話をして、笑わなかった大人は、彼が初めてだった。これまで出会ったおじさん猟師たち、凄腕の旅猟師たち、そしてカナデ村の人たちや、果てはお父さん、お母さんまで、みんなに吹き出して笑われた。そして、その後には、諌められるか、バカにされた。現実が見えているようで、見えていないじゃないか、と。


「しかし、狩る、のではなく、捕獲する、とは……いや、確かに……よっては……」


 セティはアナシカの肉の串焼きを食べながら、何やらぶつぶつと独り言を呟いていた。最後の方は声が小さすぎて、なんと言ったのかもわからなかったが、あたしの方に矛先を向けて、諌めたり、バカにしたりすることはなかった。

 なんなのよ、もう。調子狂う。ただの犬好きのくせに。あたしは焚き火越しに座り直し、セティと向き合う。セティの丸眼鏡は相変わらず炎を白く反射させていて、表情の全てを読み取ることは出来ない。だが、何となく、何かを思い付いた時の人の様子に似ている気がした。

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