もしかして、凄腕?

「川辺に水を飲みに来ていますね。ここから見下ろせる。距離は……三十、いや、四十メルテ(約四十メートル)くらい。川の上に、向かって左手から右手への微風」


 あたしはセティの言葉を聞きながら、彼の足元で腹這いになり、猟銃の照準器を覗き込んだ。

 いま、あたしとセティはむき出しの岩盤で出来た崖の上にいる。照準器を崖下の森に向けると、彼の言う通り、確かに乱立する木立の隙間から、川が見えた。森を貫き、山の雪解け水を下流の村の傍まで運ぶ川の岸辺に、彼の言う対象物はいた。アナシカだろう。顔の前に突き出した立派な角が特徴だ。その角を使って、斜面に穴を掘って巣としている。茶色く艶のある毛並みが、所々泥で汚れているのも、アナシカの特徴だ。照準器越しに泥汚れを確認しながら、あたしはその生き物の生態に関する知識を思い出した。


「……撃てる?」


 あたしはちょっとだけ照準器から顔をずらしてセティを見上げた。セティは腰の道具袋から取り出した、伸縮式の単眼望遠鏡を覗いている。その横顔は真剣そのものだ。いまの「撃てる?」の意味は、この可憐でか弱い十代の少女には、この距離の狙撃は出来ない、という意味か、それともこの可憐でか弱く、虫も殺せぬ端正な顔立ちの美少女には、獣の狙撃自体が不可能ではないか、という意味か。測りかねて見上げた横顔だったが、どうやらこちらを侮った意思はなく、純粋に、あたしの位置から狙撃が出来るかどうかを聞きたかったらしい。

 猟師が多い世の中でも、十代の女子は珍しい部類に入る。そのせいもあってか、セティくらいの年齢のおじさん猟師の中には、こちらの実力を侮った言動をしてくるやからも少なからずいる。ひとり旅を始めて一年ちょっと。さすがにもう慣れっこだったが、腹が立つことには変わりない。もし、他のおじさん猟師と同じ様に、セティがあたしの実力を見もせず、侮った言動をしたのであれば、一言言ってやろうと思ったのだが、彼からはそうした気配は一切感じなかった。言葉使いや立ち居振舞いと同様、紳士的な人間なのかも知れない。

 あたしは言葉は返さず、鎖閂式さんさしきの猟銃の遊低ゆうていを押し込む金属音を返事にした。一度目を瞑り、開いてから照準器を覗く。

 この世界における猟師の得物は、九割以上、猟銃、それも狙撃銃だ。一部に、人の代表として、獣との縄張り争いを決する、文字通りの決戦を挑むような、凄腕猟師たちの中には、例えば身の丈を超える巨剣であったり、巨槍であったり、常識では到底使用不可能な武器を扱い、狩猟を行う超人猟師もいるにはいる。が、殆んどの猟師は、見つからずに、こっそりと一撃を見舞えるこの武器を選ぶ。理由は単純で、獣の個体としての質量は人間に対して圧倒的で、正面切って戦いを挑む等、常人には自殺行為でしかないからだ。いま、あたしが照準器を通して見ているアナシカでさえ、どんなに小さい個体でも大人の背丈を楽に超える三メルテ以上の巨体をしている。性格は大人しく、草食で、人を襲ったりすることはないが、襲われれば勿論、反撃はする。反撃を受ければ、ただですむ大きさではない。

 だから、セティのような村付き猟師でも、あたしのような旅猟師でも、猟銃の腕を磨くのだ。あたしは照準器の向こうのアナシカの動きに注意する。あたしは村付き猟師のお父さんから銃の手解きを受けた。お父さんは、かつては旅猟師で、様々なところで狩猟をしていた。その腕は村一番、いや、時折村に現れる旅猟師たちにも負けない実力者だった。そのお父さんに受けた手解きの内容を思い出す。対象に感覚を近づける。そうすると、いまの対象ではなく、次の動きを取った瞬間の、対象の姿が見えてくる。大事なのはこの姿だ。引き金を引いて、着弾するまでの僅かな間が、着弾位置を狙いから変えてしまう。だが、この動きの予想が出来ていれば、着弾する位置を、対象の動きに合わせて設定することが出来る。


「微風変わらず。川辺に陽光が照りつけているから、湿気が多いかな」


 セティが少し声を落として観測内容を伝えてくれる。やはり観測者スポッターがいると、猟はしやすい。あたしは照準のずれを気にして頷くことはしなかったけれど、セティの観測に感謝した。

 さらに注意を向ける。集中が高まっていくのを感じた。照準器越しの景色、その周囲が、黒く、暗くなる。代わりにアナシカの姿が大きくなったように感じた。

 アナシカが動く、ように見えた。

 来た。この感覚だ。

 あたしは指を引き金にかけた。

 アナシカが、動いた。

 いま。




「いやあ、助かりました。いい腕ですね、イリーナさん」


 あたしとセティは、崖上から川に降りいた。セティの足元には、先ほどのアナシカが倒れていて、セティはその身の傍に座り、血抜き作業に忙しかった。

 撃った瞬間、というものは、いつもそれほどはっきり覚えてはいないものだ。それは引き金を引く行為が反射的、自動的に行われる行為であるからで、狙いを付けた状態では、そうでなければ、確実に狙撃を成功させる刹那せつなの間を失う。


「別にあたしが撃つ必要はなかったんじゃない?」


 セティの少し後ろから、手慣れた彼の作業様子を見ながら、あたしはただ何となく、思ったことを口にしてみた。別に狩猟をすること、したことが、嫌だ、というわけではないので、特別彼を非難するつもりも、ただで働かされた、と恨みに思っているわけでもなかった。が、セティは少し驚いたようにこちらを見て、


「あ、何だかすいません。でも……たぶんいまは、わたしが撃たない方がいいと思ったんですよ」


 と、言い訳とも何とも言えない言葉を返した。


「いまは、いい?」

「ええ。たぶん、成果が上がらないので」

「成果が上がらない?」

「ええ。あ、でも上がらない方がいいのか」


 いまいち要領を得ない。


 詳しく掘り下げはしなかったが、そんな話をしている間に、セティは血抜き作業を済ませ、内臓の処理に移る。鮮度はいいので、内臓の一部も食べられないことはないはずだけど、村に持ち帰るまでには難しいだろう。その後、いくらかの肉を切り出し、とりあえずの解体作業を終えた。


「村にも伝えておきましょう。これだけの個体なら、明日の朝までに取りに来れば、村の食料にも十分です」


 血抜きもしましたし、とセティは腰の道具袋から小瓶を取り出して、それを川へ流した。それが村と山奥に入った彼との連絡方法として確立されているのかもしれない。確実な方法ではないけれど、狩猟対象を無駄にしない、自然から命を分けてもらって生活をするものの、正しい姿と思えた。


「で、わたしたちは、こちらと」


 セティは切り出した肉を川辺に置いて、今度はその川へ向かった。


「かかってるかなあ……」


 そんなことを言いながら、川のなかに手を入れる。あたしはその姿を覗き込んだ。澄んだ水に、あたしの白い肌と銀色の髪が映った。両耳の少し上で結んだ、所謂ツインテール、という髪型だけど、ウロコグマとのこともあってか、妙に乱れていた。何だか急に気恥ずかしくなって、セティの手元を見るのをやめて、髪型を整えた。


「お、良さそう」

「罠か何か?」


 反射的にセティに訊いたのは、猟師としての本能のようなものだ。髪を整え直したちょうどその時、セティは川のなかから紐に繋がった筒のようなものを引き上げた。見るからに手製と分かる木の筒は、引かれる様子から明らかに重い何が入っていることがわかった。


「イシウナギ用の罠なんだけど、意外と他のものも獲れるんですよ。カワハナとかヤマミミとか」


 山の中を流れる川に住む、代表的な淡水魚の名前を上げながら逆さにした筒の中からは、筒いっぱいの魚が飛び出した。これにはさすがにあたしも驚く。


「凄い! あなた、川漁も出来るのね」

「手習い程度ですよ」


 手習い程度の訳がなかった。川魚は非常に警戒心が強い。それがこれだけかかる罠を自作して、設置するには、経験だけではなく、どこに仕掛けるかの勘や才能も影響してくる。先ほどの観測者としての観測にしてもそうだ。彼の観測は的確だった。恐らくは、あたしの観測よりもずっと。年の功、ということも勿論あるだろうけれど、それにしても、と思うところはある。もしかして、この人、凄腕の猟師なんじゃあ……


「これもいくらかもらって、後はアナシカと一緒にしておきましょう。村のものたちが持って帰れるように」


 そう言いながら、セティは腰を落として、足元に広がった魚の群れを集めようとした。

 その時だ。黒い影が足元を通り抜けたのは。

 一瞬、瞬きのいたずらかと勘違いしたが、足に触れた感触は確かだった。柔何かがわたしたちの足元をすり抜けた、その柔らかい毛の温かさは、はっきりとしていた。あたしはどうにか見えた程度の残像を追って、そのものの正体を見た。


「えっ……」


 あたしとセティのあいだを抜けて、川辺に立つもの。いや、座るもの? 手足が短すぎて、よくわからないけれどそれは……


「犬……」


 ポメラニアンだった。


 黒い毛並みに、所々白の混じる、毛の長い子。その口には、川魚が一匹。

 はっ、と息を呑んだのと、気配が膨れ上がったのは同時だった。あたしがセティの名を叫び、セティが背後を振り返る前に、変化は起きた。川面を割って、さらに数匹のポメラニアンが飛び出したのだ。毛色は様々で、それらは全て、一直線にあたしたちの元へ向かい、あたしたちの足元にある川魚を咥え、走り抜けていった。


「「犬ー!」」


 あたしとセティが声を揃えて叫ぶと、ポメラニアンたちは一斉に急停止し、その場で振り返った。口元で、咥えた魚がびちびちいっている。

 その場で全員、一斉に身体を振るって、毛についた川の水を吹き飛ばすと、満足したように背を向けて、森の奥へと走り去っていった。


「ああ……犬ズ……」


 犬ズ。


「ね、ねえ、セティ、あれはさ……」


 さすがに訊かざるを得ない。こんな場面は前にも見た。ポメラニアンを追っているというセティと、そこに度々現れるポメラニアンたち。偶然とは思えない。いったい、彼と犬の間には、何が……


「イリーナさん……」


 セティが低い声を出す。あたしが勘繰っていることを察して、何かを伝えようと思ったのか、言うべきか、言わざるべきかの葛藤ある声に、あたしには聞こえた。


「可愛いでしょう?」

「え?」


 しかし、出てきたのは、意外な言葉だった。


「可愛いでしょう!? 犬ズ!! ポメラニアンがたくさん!! 犬ズですよ、犬ズ!!」

「……え、ええと……」


 セティがあたしに向き直り、あたしの両手を取った。


「あの短い足! 潤んだ目! もふもふの毛! それがいっぱいいるんですよ! 犬ズですよ、犬ズ!!」


 ……前言を撤回したい。


 セティは凄腕猟師ではない。


 ただの、犬好きだ。

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