犬、見ませんでしたか?
この世界は、獣に満ちている。
これは決して大袈裟な物言いではない。あたしが住むこの世界では、人間はちっぽけな存在だ。空を見上げれば、人の数倍になろうかという大きさの鳥が飛び、野山に分け入れば、さっきのウロコグマのような、野蛮かつ獰猛かつ狂暴な獣が、うじゃうじゃしている。そんな世界で人間の出来ることは、生きていく必要最低限の糧としての狩猟、採取や、小さな集落での農耕程度のものでしかない。大地の、大空の覇者は、人間ではなかった。海を越え、山を越え、遠く旅をして、行くところに行けば、魔法という不思議な力が息づき、国民の実に九割以上が魔法使い、という国や、空の女神を信仰し、あたしと歳の変わらない少女が高い位に就いているような国がある大地も、この世にはあると聞くけれど、少なくともあたしが生まれ育ったこの土地では、獣たちこそ、この世界の覇者であった。
だから、あたしも、そう思っていた。実際、いまも思っている。それでも、あたしは、あたしの生まれ故郷、カナデ村に起こった出来事を、納得することが出来なかった。だから、この山に来たのだ。あたしが探し求める獣たちの王、カナデ村に起こった出来事の直接の原因である『
「あの」
あたしの背後に音もなく立った男性は、どことなくのっそりとした動きで周囲を見回した。
背は高いが、細くしなやか、という表現からは遠い。百八十センテ(約百八十センチ)以上はあるだろうか。明らかに太っている、というわけではないが、三十代半ば程と見える見た目相応に、胴も肩幅も大きく、百六十センテ以下のわたしの身長からすれば、ただただデカイ、という印象が先に立つ。どことなくのっそりと、動きが緩慢に見えるのも、その身体の大きさのせいだ。
革製の衣類を多く身につけ、手で編んだロープや、多目的に使えそうな大きさのナイフなどが腰や胸の各所に装備されている。背中に見えるのはおそらく猟銃だろう。太い木の柄が肩の後ろから飛び出して見える。顔の印象の殆んどになっている、丸い硝子の眼鏡が多少の違和感だが、その格好は間違いなく猟師のそれだった。
この世界には、猟師が少なからずいる。日々の糧を得る目的から、人によっては、巨大な獣と人との生活圏を決するための狩猟を行う凄腕まで、年齢も性別も目的も実力も様々だが、獣に満ちたこの世界では、猟師は本来の目的だけでなく、守護者としても珍重される。多種多様なだけに、なり手も多い。
「お嬢さんは、猟師さんですか?」
少し灰色がかった茶色い髪を、緩くオールバックに纏めた男性は、あくまでも柔和な表情であたしに話しかけてきた。猟師に猟師ですか、と聞かれるとは思わなかった。が、彼の問いには、なぜあたしのような可憐な乙女が猟師の格好して、こんな山奥にたったひとりでいるのか、と問う気配があったので、あたしも素直に答えた。
「ええ。駆け出しですけどね」
「猟でこの山に?」
「ええ、まあ、そんなところ」
「少し前からこちらに?」
「ええ」
「では、犬、見ませんでしたか?」
犬。
「犬って、小型犬?」
「ええ。茶色い毛玉みたいな、丸っこい。ええと……」
「ポメラニアン?」
「あ、それです、ポメラメヤン」
ポメラメヤン。
「それならあそこに……」
あたしは先ほど毛玉がお座りしていた辺りを指差した後、そこへ視線をやった。そこにはあのポメラニアンがいたが、なぜか不満げな様子で立ち上がり、ぷいっ、と音が聞こえてきそうな程の勢いで顔を背けると、草むらの影に歩いて入っていってしまった。
「ああー。やっぱりか」
猟師の男性は、何かを得心したように言うと、少し肩を落とした。何がやっぱり、だったのだろう。
「あれは……あなたの犬なの?」
「いや、赤の他犬ですね」
他犬。
「じゃあなんなの?」
「さぁ……何でしょうか」
いまいち要領を得ない。
「まあ……何にしても、わたしはあの犬を追わなければなりません。短い間でしたが、お世話になりました」
妙に礼儀正しい中年男性は、あたしにのっそりと
「ああ、待って待って!」
そのまま背中を向けて立ち去ろうとする男性を、あたしは引き留めた。どうしても、聞いておきたいことがあった。
「あなた、この辺りの猟師?」
「ええと……ええ。まあ、そんなところです」
「なら、ここに『世界獣』が来てるのは知ってる?」
「ええ、まあ」
「どこかで見かけなかった?」
「いえ」
やけにあっさりと否定された。大人というのは、こういうものなのだろうか。
「……それでは」
「ああ、待って待って!」
何だか『世界獣』の名を出した途端、猛烈に拒否されるようになった気がするのは、気のせいだろうか。再び背を向けた男性を呼び止めたが、纏った拒絶の雰囲気に反して、やはり男性は柔和な表情で対応した。
「何でしょうか?」
「あなた、この辺りの猟師なのよね?」
「……ええ、まあ」
「なら、この辺りには詳しいのよね?」
男性は無言だった。なぜ何も言わないのか、疑問はあったが、あたしはそれを肯定と取って話を進めた。
「なら、案内してくれない? あたしは『旅猟師』だから、この辺りの山には詳しくないのよ」
やはり彼は無言だった。ただ、立ち去ろうとするわけでもなかった。何かを考え、悩んでいる、そんな気配がした。でも、一体、何を悩んでいるのだろうか。見たところ彼は、腕も縄張りの広さも、平凡な村付きの猟師だ。この山に入る前に、あたしも一宿一飯、お世話になった村が、彼の村だろう。日々の糧を目的として、大きな危険を冒すことは極力しない。そんな極々普通の猟師だ。が、だからといって猟師として弱い、単純に実力が低い、ということとは違う。同じ職種でも目的が異なれば、方法も異なるのが仕事というものだ。大きな危険を冒すことがない、ということは、自分が狩猟を行う範囲の中に、どんな危険があるかを、正しく把握している、ということだ。あたしのように各地を巡り、旅をしながら狩猟をする『旅猟師』が、彼らのようにその土地に明るい村付き猟師に案内を頼むのは、そう珍しいことではなかった。
そうか、とそこまで考えて、
「まあ、そういうことでしたら……」
ひとしきり悩んだ
「あ、でも、わたしも犬を追わなければなりませんので、追いながら、と言うことになりますが、それでもよろしければ、ですが」
「ああ、やっぱりあれは、あなたの犬なのね?」
「いや、赤の他犬ですね」
他犬。
「じゃあなんなのよ……まあ、いいわ。案内、頼める?」
十五の娘に生意気な言い方をされても、彼は何とも思っていないらしい。元々柔和な顔を、さらに笑顔の形にして、ずれ落ちた丸眼鏡を押し上げた。
「ええ、分かりました。よろしくお願い致します。わたしはセティ。セティ・テイルメイカーと言います」
「よろしく。あたしはイリーナ・アーツ。報酬は麓の村に帰ったらちゃんと払うわ」
犬とこの人の関係はかなり気になるけれど、いいところで案内人を得たとあたしは思った。あたしは『世界獣』に会わなければならない。その為に旅に出たのだ。村付き猟師のお父さんから、猟の手解きを受けて。この山に滞在しているのならば、ここで見つける。
見つけ、そして。
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