茶色い毛玉が吠えるとき

 前略。カナデ村のみんな。

 たぶん、あたしは死にました。


 無様に、土の上に尻餅を付いたあたしの目の前に、人の身の丈を遥かに上回る巨躯が立ちはだかる。普段は四足歩行であるその巨躯は、その状態でも十分過ぎるほど巨大なのだから、二足で立ち上がれば、その大きさは周囲の木々もかくや、と言わんばかりだ。手を見れば鋭く長い鉤爪。半ば開かれた口には太く大きな犬歯が覗く。どれもこの獣の特徴で、獰猛さを示す部位だけれども、さらに特徴的な部分は、濃い茶色の剛毛に覆われた身体の所々から顔を出した、鱗のような皮膚だった。鉄のように固いその皮膚をして、『ウロコグマ』と呼ばれるこの獣は、このような山林の奥に住み、個体数は多くなく、危険度で言えば『このクマが近隣の森や山で発見されると、村々が避難を始める』という段階に位置する狂暴さであった。

 あたしが探し求めている『世界獣せかいじゅう』に比べれば、まだ可愛いものだけれども、この状況でそんな考えは、強がりにもならない。明らかに人間の力の及ばない超獣ちょうけもの様が、お怒りの状態で立ち上がり、こちらを見下ろしているのだ。あの手が、鉤爪が、もしくはあの牙が、いやいやあの巨体がのし掛かっただけで、あたしのような、か弱く可憐な、幼気いたいけな少女は、楽にあの世行きです。

 ああ、まだ十五歳。やりたいこともいっぱいあった。やってないこともいっぱいある。どうしても納得が行かなくて、『世界獣』を探す旅に出たけど、本当は絵描きになりたかった。実際、いまも各地を転々とする旅の中で、風景は描いている。それに恋だってしていない。恋。ああ、恋だ。何もない、何も起こらない村の、十五歳の村娘なら、ひとりやふたり、そんな相手が居たっておかしくなかった。村でも器量よしに分類されていたお母さん似の顔だって、性格だって、悪くはないはず。……はず。そんなあたしだから、そんな相手が居たってよかった。全部これからなのだ。これから、『世界獣』を取っ捕まえた後に、やろうと思っていたのに……っ!


「あんたの縄張りに足を踏み入れたことは

詫びるわよ、クマ」


 相変わらず尻餅を付いたままのひどい格好だったけれど、確定的な死が間際に迫って腹が座ったのか、それともまだあたしに対して姿も見せぬ恋への怒りか、沸々と身体の奥から上って来る感情が、ウロコグマへの恐怖を押し退けた。可能な限りドスを効かした声で言うと、キッ、と音がするほど睨み付けてやった。それで何がどう変わるわけではないことはわかっていたけれど、あたしの性格上、このまま殺されてやる気はなかった。それを、この獣に叩き付けてやった。

 ウロコグマは天を仰いで吠えた。声は大きく、周りの木々の枝葉を揺らす。あたしの怒りに怯えたようにも見えたけれど、たぶん、違うのだろう。再びこちらに向けた顔は、先ほど同様、餓えた獣の例えのような顔をしていた。


「だけどっ!」


 負けじとあたしは叫んだ。こんなところで、こんな獣に食い殺されるわけにはいかない。こんなところで……っ!


 あたしが叫び、ウロコグマが鉤爪付きの丸太みたいな腕を振り上げた、その瞬間だった。あたしの視界の右隅を、何かの影が走ったのは。丸い、小さな、影。反射的に目を向けたこの先で、影は大きく跳躍した。

 短い手足。もふもふとした、見るからに柔らかい茶色の毛。毛のせいか、全体的に丸い輪郭の中に、申し訳程度に飛び出している三角のあれは、耳か?


「ポっ……っ!」


 あたしは自分の身に迫った死の恐怖をすっかり忘れて、すっとんきょうな声を出していた。あれは、あの毛玉には、見覚えがある。あるけれど、こんなウロコグマが出るような山林の中で見ることは稀だ。野良なのか。いや、野良の毛玉など、聞いたことがない。でも、実際に目の前を走っている。走って、跳躍して、クマに飛び掛かった。


「犬っ! 危ないっ!」


 名前がわからないので、思わず獣の種類を叫んだ。もっと限定すれば、ポメラニアンだ、あれは。もふもふの茶色い毛玉みたいなポメラニアンが、目をキラキラ輝かせた間の抜けた顔で、ハッハ、ハッハ言いながらウロコグマに体当たりを仕掛ける。自殺行為もいいところだ。実際、クマはあたしから、標的を瞬時に切り替えていた。振り上げた腕を、そのまま跳んでくる毛玉に向かって振るおうと……


 その音は、熟れた果実が潰れる音に似ていた。


 毛玉が吠えた。アンッ!という声は犬の鳴き声としては不十分なものに聞こえた。くだんの音があたしの耳に届いたのは、その獣としてはあまりにも不十分な毛玉の鳴き声の直後だった。たっぷり水気を含んだ音は、果たしてどこから響いたものだったのか。遠くのようにも、近くのようにも聞こえた。

 え、と思う間も無く、変化は起きていた。ポメラニアンの体当たりに対して、巨木のような腕を合わせ、毛玉を撃ち落とそうとしていたはずのウロコグマの腕が、所定の場所まで上がり切る前に、だらりと下がった。結果、茶色い毛玉の体当たりを、肩口のあたりでまともに受け止めたクマは……仰け反り、天を仰いで、ゆっくりと背中から地面に倒れた。

 大袈裟ではなく、地面が揺れた。巨体が大地に倒れ、ウロコグマはそれきり二度と動かなかった。

 何が起きたのか、理解できなかった。遠くで雷のような低い音が聞こえたけど、いま聞こえたその雷が、ここに届いたわけではないだろう。あたしは倒れたウロコグマが起きないように、慎重に、ゆっくりと立ち上がる。やはりクマが動く気配はない。恐る恐る近づいてみた。鱗と固い毛に覆われた身体は、力なく、まるで吊り糸の切れた人形さながらの様子で、寝そべっていた。獰猛さを絵にかいたような口は、いまはだらしなく開いたままで、太いピンク色の舌がはみ出している。

 まさか、とは思った。だが、どう見ても、間違いない。死んでいる。獰猛、凶悪、狂暴、どんな言葉を合わせても足りないはずの獣は、いま、確かに死んでいた。

 では、何があったのか。あたしはウロコグマの遺体の周囲を見回した。しかし、何もない。どう見ても、ウロコグマの身体には、異常らしい異常は見当たらず……代わりに見つけたのは、あの茶色い毛玉、小型犬、ポメラニアンだった。

 ウロコグマが倒れた瞬間を思い出した。ウロコグマは、このポメラニアンに体当たりを受けた。体当たり、とは言うものの、ふたつの個体の大きさは桁違いだ。あたしの目には、巨木に毛玉が付着した程度にしか見えなかった。それくらいの差だ。差なのに、その直後、ウロコグマは文字通り、ぶっ倒れた。

 まさか、そんなことがあるだろうか。この毛玉が、である。しかし、状況としては、それ以外に考えられない。つまり、このポメラニアンの体当たりが、信じられない破壊力で、この巨獣を一撃のうちに殺害した。


「まさかあ……」


 言葉にするつもりはなかったが、言葉になってしまっていた。茶色い毛玉は、相変わらず目を輝かせて、間の抜けた顔でハッハ、ハッハ言いながらこちらを見ていた。短い尻尾をパタパタやって、その場でお座りをしているようだったが、元々丸いので、座っているのか立っているのかの判断も付かない。

 と、そのポメラニアンが不意に身を翻し、近くの草むらの中へ飛び込んだ。いまさら怖くなったのか、と考える間も無く、茶色い毛玉が飛び込んだ草むらが、がさがさと音を立て、次の瞬間、その草むらが爆発したかのように見えた。実際には、無数の動物が飛び出して来たのだが……それは全て、ポメラニアンだった。


「ちょ、え、犬……?」


 やはり名前はわからないので、獣の種類を口にした。黒いのやら白いのやら、リボンを着けているのやら、蝶ネクタイ型の首輪をしているのやら。数にすれば十を越えるであろうポメラニアンが飛び出し、集い、ウロコグマの遺体を取り囲んだ。そして、次の瞬間、ウロコグマの巨体が地面から僅かに浮き上がった。


「え、なに……」


 あたしが見ていると、恐らく先ほどの一匹だろう、茶色い毛色のポメラニアンが、まるで音頭を取るように、周囲を駆け回っていたが、それ以外のポメラニアンたちは、一体どうやったのか、ウロコグマの下にいた。みんなで協力して、ウロコグマの巨体を持ち上げていたのだ。

 アンッ!と、あの茶色い毛玉の声。その声に導かれるように、クマの遺体が動き出し、草むらの向こうへと消えていってしまった。

 その場に残ったのは、あの茶色い毛玉のみ。


「何だったの……?」


 あたしが驚く顔を見てか、茶色いポメラニアンは、心持ち先ほどより性悪そうな顔で、ハッハ、ハッハ言いながら、間の抜けた顔で舌ベロ出したまま、尻尾パタパタ、こちらを見ている。


「あれ」


 背後で男性の声がしたのは、あまりにも突然だった。

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